いのちの大切さについて

はじめに

「いのちは大切ですか?」と聞けば、誰もが「いのちは何よりも大切なものだ」と答えるでしょう。誰もが、いのちを大切にしたいと考えているに違いありません。

 

しかし、今日、地震、津波、戦争、事故、堕胎、いじめなど、私たちの耳には毎日のように人のいのちが奪われるニュースが届いてきます。本来、愛し育てるべき子どもを親が殺す。逆に子どもが憎しみから親を殺すような事件を時に耳にします。連日のように小さな子どもたちや将来ある若者の命が奪われるような事件ばかりです。保険金をかけて家族や友人を殺す事件があります。誰でもいいから殺したかったという殺人まで報道されています。いとも簡単に人の命が日々奪われている日本社会です。

 

そうした中にあって、私たち自身もいのちに対する感覚が麻痺しかねないのが現状ではないでしょうか。いのちが奪われることへの痛みや悲しみが色あせてしまい、本来持っていたはずのいのちを大切に思う心を失いかねない昨今です。

そこで、お互いがそうならないように、いいえ、むしろ私たちが積極的にいのちの大切さを確信しながら、それをこの日本の社会に生きるために、またいのちの大切さとそれを必要としている方々に伝えていきたいものです。

 

そこで、「いのちはなぜ大切なのか? どのように、どれほど大切なのか?」、いのちの大切さについて考えてみたいと思います。

 

わたしはどこからきたのか     科学から見た創造論と進化論

 

「私がどこからきたのか」、「人類の起源」について、日本においては多くの方は高校の生物の時間などに、ダーウィンの進化論(仮説)から教えられることがあったのではないかと思います。しかし、今日ではダーウィンが主張したような「種」が長い年月において「別の種」に進化してきたという説は、生物や地質学などの研究を続けてきた学者たちには受け入れられなくなってきています。

 

ダーウィンは、自分の立てた学説が、なお具体的・科学的にそれを証明できていないということを理解していました。それで、将来地質学などの研究が進めば自分の説が証明されるであろうと語っていましたが、実際のところ地質学の研究が進められてきた結果、ダーウィンの進化論の学説は誤りであったことが証明されてきています。

 

「わたしはどこから来たのか」「人類の起源」ということは、私たち自身やこの世界を理解するうえで非常に重要な事柄ですが、このことについて進化論ではない説はといえば、聖書の創造論以外にはありません。

 

2016年のことですが、国連が面白い統計を発表しました。

現在から過去にさかのぼって300年の間、世界における著名な科学者300人を対象に、神を信じる人が何人いるかについて調べました。

その結果、90%以上の人たちが神を信じていることが分かりました。300人のうち、神を信じていないと示した人はわずか20人でした。

神を信じる人たちは、神によって世界が創造されたという「創造論」を信じている人たちであったと考えられます。神が造られたこの世界を深く追求していく時に、科学者たちは神の存在を信じるようになっていったのです。

 

幾人かの例を挙げてみますが、

アインシュタインは、1927年のある晩餐会で、ドイツ人評論家で無神論者のアルフレド・カール(Alfred Kerr) に対して、「我々が持っている限られた手段で自然の奥深い神秘に潜入しようと試みれば、背後には微妙で無形な、表現し難い明らかな関連が存在していることに気づくのだ。物事を理解できるということを超越した力への畏敬の念こそが私の宗教だ。この意味において、私は実に宗教信仰があるのだ」と答えました。

クレン・ブイ教授は昨年マサチューセッツ州タフツ大学の「真理フォーラム(Veritas Forum)」で、「一部の人は、信仰と理性が油と水のように相容れないものだと思っているが、そうではないのだ。歴史上最も偉大な者の多くは、自らの信仰によって科学を推し進めた。歴史上最も偉大な科学者たちは信仰深く、彼らの科学研究を信じるだけではなく、神を信仰するのだ」と述べました。

 

フランシス・コリンズ博士はかつて無神論者でしたが、現在は宗教を信仰しており、米国立保健研究所(NIH)のヒトゲノム (人間の全遺伝子情報)プロジェクトの責任者でした。現在は、米国立衛生研究所(HIN)所長を務めています。コリンズ博士は米ニュース専門放送局CNNのために、「科学者は何故神を信じるのか(Why this scientist believes in God)」を題にした文章を書きました。

 

ノーベル物理学賞を受けたマックス・プランクはその著作「科学は何処へ行く?(Where Is Science Going?)」の中で、「科学は大自然の究極な神秘を解釈できない。なぜならば、最終的に、我々も自然の一部分であり、我々自身が解決しようとする神秘の一部分であるからだ」と述べています。

 

アイザック・ニュートンは、1718世紀イギリスの大物理学者。万有引力の法則の発見者。近代科学の成立をもたらした不世出の天才と言われる方ですが、彼は、「いかなる世俗の歴史におけるよりも、聖書の中には、より確かな真理が存する」と述べています。
 ウイリアム・ハーシェルは、1819世紀イギリスの大天文学者で天王星の発見者。そのほか多くの天文学的発見をなし、恒星天文学の祖と言われる方ですが、「人間の発見はすべて、ただ、聖書に含まれる真理を確証するために役立つものであると思われる」と述べています。

W.F.オルブライトは、不世出の天才と言われた20世紀の考古学者で、幾つもの古代語を自由にあやつった方ですが、「聖書の記述中、問題となっている大きな点は全部歴史的であることが、証明されている」と述べています。

 

「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。」(詩編19:2)

 

いかがでしょうか。ここに挙げたのは科学者の中でも徹底して科学的に物事を追求していこうとしている著名な科学者たちです。

 

2016年に発表された国連の報告によると、世界における素晴らしい科学者300人を対象に、神を信じる人が何人いるのかについて調査したところ、9割以上の科学者たちが神を信じていることが分かったということです。

 

300人の内、神を信じないと示した人は僅か20人でした。一方、神を信じると明確に示した人は242人で、世界的に著名なニュートン、エジソン、X線を発見したヴィルヘルム・レントゲン、電池を発明したアレッサンドロ・ボルタ、アンドレ・マリ・アンペール(電流のSI単位のアンペアはアンペールの名にちなんでいる)、ゲオルク・オーム(電圧と電流と電気抵抗の基本的な関係を定義付けた)、キュリー夫人、アインシュタイン等々がその中に名を連ねています。また、20世紀・21世紀におけるイギリス、アメリカ、フランスの科学者の中で9割以上が神を信じることも明らかになっています。

 

いのちはなぜ大切なのか?

 

「いのちはなぜ大切なのか」ということを考える上で、「進化論」という仮説は私たち人類の存在と生きる意味についてほとんど有益な示唆を与えられないように思われます。むしろ、その説によれば人間は偶然の産物であり、他の生き物や物質と変わりない存在のように思われます。

 

それは、生理学者のジョン・C・エクレスが、「私は、人類の奥深い神秘が科学の還元主義によって、非常に低く評価されてしまい、精神世界の一切を神経細胞の活動だと結論付けられた。しかし、このような信条は迷信であると定めなければならないと強く思っている。我々は精神的生命体であり、霊魂(たましい)が精神世界に存在していると同時に、物質的生命体でもあり、身体と大脳が物質世界に存在していることを認識すべきだ」と述べていることからも分かります。「進化論」からは、私たち人間のとりわけ重要な存在の意味や私たちが生きる意味、人生の目的ということについての理解は得られず、人間ならではという存在の意味は分かりません。

 

しかし、聖書が教えている創造論によれば、そうしたことは明白に教えられているのです。

「いのちはなぜ大切なのか?」聖書の中にはいのちの大切さを示す言葉は数え切れないほどありますが、創世記の1章27節の御言葉を取り上げて、なぜ、いのちが大切なのかを共に考えてみましょう。

 

「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」

 

聖書によれば、私たち人間は神様にかたどって、つまり神様に似せて、また、神様の「かたち」に造られたのです。「かたち」と言っても神様は私たちの肉眼で目に見える姿をもっておられるわけではありません。ですからそれは外面的な形でないのは明らかです。

この「かたどって」という言葉が意味する「かたち」という言葉は、英語の聖書ではイメージと訳されています。フォームやシェイプではなく、イメージなのです。まさに外見のない目に見えない「かたち」です。つまり、神様が人格を持っておられ、知性や感情、意志をお持ちであるように、私たちも、それに似たものとして造られているのです。

 

私たち人間は神様に似せて、そのイメージに従って創造されているのです。

実を言うと、神様が人間に似ているのではなく、人間が神様に似せて創造されているのです。①人間は神ではないけれども、②神が知性・感情・意思を持っておられるように、人間も人格を持つものとして、③神によって創造されたものが私たち人間であると聖書は教えています。

 

造った者と造られたもの

 

「造った者と造られたもの」の関係は、

  • 造られたものは、決して造った者以上にはならない
  • 造られたものを誰よりもよく知っているのは、造った者です。
  • 創作したり、それを喜んだり、交わりを持つことが出来るのは人格を持つ者のみです。

 

ですから、それがどれほど高価な金や宝石であったとしても、それらのモノが創作したり、それを喜んだり、交わりを持ったりすることは出来ません。それは偶像に過ぎないのです。

人間は、他の被造物と違って、神のかたちに創造されたからこそ、ものを創作したり、それを喜んだり、交わりを持つことができるのです。

 

人間が作った神様は、実際には神様とよべるものではありません。それは偶像です。人間はもともと神とともに生きる存在として造られましたから、誰もが神を必要としているのですが、罪ある人間は、残念ながらまことの神を避け、自分の欲望や願望を満たすために、偽の神々を作ってこれに仕えるようになってしまっているのです。

 

「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。

なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。

自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。

そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。」(ローマ書1章20~25節)

 

人間が作った神々は、実際には存在しない偶像ですが、古事記のような日本神話やギリシャ神話に登場する神様は人間そっくりです。嘘はつく、盗む、不倫はするというように人間に似せられて作り上げられた神々です。

偶像は、必ずしも像であるとは限りません。お金や地位、名誉、財産など、神以外に自分のよりどころとするならば、それが偶像となるのです。

 

私たち人間は、神様に似せて、そのイメージに従って創造されました。知性を持ち、感情を持ち、意志を持ち、神を礼拝し、喜びも悲しみも共有しながら、同じ人格を持つものどおしだからこそ、ともに生きることができる存在として私たちは造られているのです。物事を考えたり、絵を描いたり、映画や音楽を創作したり鑑賞したり、計画を立案しそれを実行することが出来るのは、神のかたちに似せて造られた人間ならではのことなのです。

 

神に似せて、神にかたどって私たち人間が造られたということ、それは私たちのいのちは神によって与えられたこと、そして神は私たちのことを誰よりもよくご存知であるということを意味しています。

 

聖書の創世記1章1節には、「初めに、神は天地を創造された。」と言われています。そして、これに続いてこの世界にあるあらゆるものをお造りになり、この世界に私たち人間を住まわせてくださったことが記されています。そうであれば、この世界にある山も、川も、海も、動物も、植物も、宇宙も、そして私たちも神のものであることが分かります。

「天動説」を唱えたガリレオ・ガリレイも聖書の神を信じて生きた科学者でしたが、結果にはすべて原因がある。天体の動きを調べながら、わたしは神の存在を確信した。という言葉を残しています。

宇宙のようなマクロの世界とともに、電子顕微鏡で見るようなミクロの世界も、この世界は実に調和の取れたみごとな秩序の下に動いており、そこに生きる生命も実に見事なものです。

 

統計学を教えているある大学の教授は、この世界がこのように存在していることは、確率から言えば、5階建てのビルの屋上から石ころを投げたら、下に落ちるまでの間に完成したジャンボジェット機になっているようなものだ、といわれました。偶然が重なったというような事では到底説明できない、素晴らしく調和と秩序をもったこの世界に私たちは生かされているのです。

 

人間は、神のかたちに似せて創造されましたが、神と同じ者に創造されたのではありません。

 

「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。」(詩編8章5節)

 

神は、「神は霊であられ、その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変のかたです。」(ウエストミンスター小教理4問)

これに対して、人間はこの世界はおろか道端の草木一本のいのちも作ることはできません。人間は、神によって創造され、育まれ、生かされている存在なのです。

 

聖書のヨブ記には、「お前は雌獅子のために獲物を備え/その子の食欲を満たしてやることができるか。雌獅子は茂みに待ち伏せ/その子は隠れがにうずくまっている。誰が烏のために餌を置いてやるのか/その雛が神に向かって鳴き/食べ物を求めて迷い出るとき。」(ヨブ記38:39~41)と言われていますが、この地上に存在するあらゆる命あるもの(動物や植物など)を養っておられるのは神であると言われています。

 

また、マタイの福音書6章には次のように言われています。

「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。・・・今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。」(マタイ6:26~32

 

私たちは、偶然にこの世に存在しているのではなく、私たちは、神によってこの世に生を与えられ、神によって日々養われ、生かされているのだと聖書は語るのです。神がこの世界を創造されましたが、人間の場合には特別な深い配慮と愛をもって、神に似せて、神にかたどって私たち人間が造られたというのです。

それは私たちのいのちは神様のものであることを意味します。神様の肖像が刻み込まれた私たちのいのちは、私たちのものではありません。

 

私たちのいのちはあくまで神様からおあずかりしたものです。私たちの子供たちも自分たちの所有物ということではなくて、子供も神様からお預かりした大切な宝であり私たち自身のものではありません。いのち、それは究極的には神様のものです。ですから、私たち人間には自分のいのちであれ、人のいのちであれ、勝手に傷つける権利はありません。ましてや殺す権利などないのです。

自分のいのちは自分のものでないからこそ、大切にしなければならないのです。

 

近年になって、日本では年間に3万人を超える人々が自らのいのちを断っています。また、10代、20代、30代の前半までの死因の第1位は自殺で亡くなった方々だといわれています。日本の自死者には精神疾患者の方も多く、深い孤独や苦しみの中におられることを思うと簡単に判断はできません。しかし、聖書的な原則としては、どんなに苦しくても、自分のいのちは自分のものではないのだから、自分で奪う権利はないのです。私たちは「この方のいのちは神様のものだから、自死させてはいけない」との思いで、自死を願う方々に寄り添うことの大切さを思います。

 

また、日本では今、年間約109万の出生数があるそうです。それに対して、厚生労働省の発表では年間の中絶件数は約25万だそうです。中絶件数があまりにも多いとお感じになられるのではないでしょうか。しかも、実数はその数倍にあたるだろうともいわれています。神様は胎児の時から私たちを愛の眼差しで見ておられ、天の書物に記録しておられることを思うとき、人工妊娠中絶はどんなにか神様の心を痛めさせているだろうかと思います。

 

「きみは愛されるため生まれた」という素晴らしい賛美があります。私たちは神様に出会い、愛されるために生まれてきます。そしてお互いが出会い、愛し合うために生まれてくるのです。私たち人間には誰一人それを中絶によってそれを阻む権利はありません。

 

いのちはなぜ大切なのか?   ~他のいのちとの絶対的差異のゆえに

 

さらに、神に似せて、神にかたどって私たち人間が造られたということ、それは私たち人間のいのちは他の披造物とは違うということを意味します。

つまり、人間のいのちと動物の命はその価値において絶対的な違いがあるということ、人間の命の尊厳は他のいのちに比べるなら別格であるということを意味しています。

 

先ほどの聖句にも、「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。」(詩編8章5節)と言われていました。

 

創世記1章によれば披造物はすべて「何々あれ」と神様が命ずるとその通りになったという方法で造られました。しかし、人間だけは唯一の例外です。人間だけは神に似せて「神のかたち」に、神様の刻印を受けて、神の霊を吹き込まれて創造されたのです。ここに人間のいのちと他の命の絶対的な違いがあるのです。

 

だから、この1章26節にあるように人間はこの世界とそこにあるいのちを(神の御心に従って)支配し治める役目を与えられているのです。「支配する」と言うと何か横暴な印象を受けるかもしれませんが、これは人間が神様の栄光を現すために、他のいのちや地球環境を、(自分中心の思いではなく)神の御心に従って、正しく管理、開発することを命じているといえます。

 

聖書は明らかに、神様の御心に従う範囲において、人間以外の他のいのちを通して、私たちが生きることを認めています。この地球は人間だけのものではありませんし、動物や植物などのいのちも神様が作られたのですから、どのいのちも大切です。しかし、聖書によれば他のいのちよりも人間のいのちが優先されることが神様の御心なのです。

 

この自然界は、見事な調和の上に成り立っており、「共生」によって他のいのちを生かしあうという姿を神が造られた事がわかります。それは私たちの体を見てもよく分かることです。体にあるどの臓器も器官も不要なものは何一つなく、他の器官を生かしつつ、一つの体の機能は見事にそのいのちを生きるように働いていることが分かります。

 

しかし、人間だけがこのいのちの世界を破壊し、争い合い、憎しみ合うようなことを繰り返しています。動植物のうち、今世紀にはかなり多くのものが絶滅危惧種になっていることを思うとき、人類は、神の御心に従うのではなく、自分の私利私欲のために他を犠牲にしているように思えてなりません。

 

「いただきます」という言葉があります。日本では食事の前に「いただきます」と言います。あるラジオ番組で知ったのですが、この「いただきます」という言葉の意味は、「あなたの命を私の命としていただきます」という意味だそうです。

昔の人々は、動物や植物の犠牲の上に自分の命が保たれているという自覚があったことでしょう。

 

今日まで私たちが生きてくるために一体、何匹の魚、何頭の牛、何匹の豚、何羽の鶏のいのちが犠牲にされているでしょう。そうした犠牲になった莫大ないのちの重みを考えるだけでも、人間のいのちの大切さが理解できるでしょう。

お互いのいのちは、他の生き物のいのちの犠牲の上になりたっています。

それを神様は認めておられます。なぜでしょうか? それ程人間のいのちが大切だからです。

 

逆に、動物に対しては赦されていても人間に対してしてはならないことがあります。どんなに飢えていても人間の肉を食べること、快適に暮らすためにゴキブリやハエのようにホームレスの方や社会的弱者を死に追いやったり虐待すること。いくら医療の発達のためとは言え、人体実験、あるいは胎児や人間の胚を実験材料にすることは、神様の前に罪であると私は考えます。それは人間と他のいのちとの絶対的な違いを見失った生命観から起こる大きな罪と言えるのではないでしょうか?

 

「どうしてゴキブリや蚊は殺してもよいが、人間は殺してはいけないのか?」

その答えは創世記1章にあるのです。

「我々にかたどり、我々に似せて」と聖書は人間のいのちについて教えています。「人のいのちがなぜ大切か?」聖書はその問いに対して、神様のかたちを持つ故に、「他のいのちとは絶対的に違うから」と答えています。

 

人間は誰であれ、どのような国籍・民族・境遇にある人であれ、人間としての尊厳が守られ、その人権が尊重されなければならないのです。ひとりひとりの人間のいのちの重さをしっかりと心に留めて、いのちの大切さを見失いつつあるこの社会に遣わされていきたいと願います。

いのちはどのように大切なのか?  ~すべての人がいのちの尊厳を持つ

 

「いのちがどう大切か」ということを別の聖書箇所から共にみてゆきましょう。聖書の描くいのちの尊厳、それは、「すべての人がいのちの尊厳を持っている」ということです。聖書はどのような種類のいのちであっても、それが人間のいのちであるなら、どのいのちも絶対的な尊厳のあることを示しています。

 

さらに分かりやすく言うなら、人種の違い、国籍や民族の違い、宗教の違い、境遇の違い、大きないのち、小さないのち、強いいのち、弱いいのち、生産性の高いいのち、生産性の低いいのち、どれも同じように尊い価値であるということです。人種や国籍・民族の違い、境遇の違い、いのちの大小、強弱、優劣で価値に違いなどないのです。いいえ、それどころか、聖書は弱く劣ったいのちの尊厳を強調しています。そのことを、コリントの信徒への手紙第一の12章20節以下から見ていきましょう。

 

「多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」(1コリント12章20~22節)

 

弱いと思われるいのち、劣ったと思われるいのちについて聖書はどう評価しているでしょうか。22節によれば、弱い人ほどなくてはならない存在なのです。さらに23節では、尊くないと思われる存在、劣った存在を教会の交わりは尊ぶのだと宣言します。

 

この世界には、均一で同じ人がいるわけではありません。人種の違い、肌の色の違い、民族の違い、境遇の違い、世代の違い、性格の違い、男女の違い、身分の違い、など様々な違いがありますが、それらの違いを超えて互いに愛し合い、補い合い、助け合い、協力し合ってともに生きることが求められています。

この世界には、地位の高い人は重い命、貧しい人は軽い命というような物差しがあるように思われてなりませんが、人の体の中でどの器官も必要であるように、どの命も神にとっては重くて尊い命なのです。

 

続く、25節には、「それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(25~26節)

 

私たちの体を例にとった場合、どこか一つの器官が苦しめば、他の器官も苦しむことになります。一箇所でも怪我をすれば、体全体が苦しむのです。この世界を構成している様々な人たちも、ひとりが苦しむなら他の人たちも苦しむというのが、神様の御心なのです。ですから、旧約聖書には、やもめや在留異国人を苦しめることなく、支援が必要な人には支援をすること、貧しい人や負債のある人が解放される日をもうけること、貧しい人のために落穂を残しておくことなどが教えられています。

 

新約聖書でも、主イエスは、マタイ25章で、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25:40)と言われました。この社会において弱い立場に置かれている一人の人にした愛の業はキリストにしたことなのだといわれたのです。

聖書は「弱い人」について「いてもよい」「いた方がよい」ではなく「かえって必要」つまり「いなくてはならない」とその絶大な存在意義を示しています。

 

アリの研究をして来られた横川氏によると、よく働くアリと普通に働くアリと働かないアリの比率は631の割合、長谷川氏のカドフシアリの研究では,262とされています。働かないアリを除いても、同じような比率になるのだそうです。

北海道大学・大学院・准教授の長谷川英祐さんは、「働かないアリに意義がある 」という本を書いておられます。その中で言われていることは、人間社会でも同じようなことがあるけれど、要は、どのアリも必要なのだと言っておられます。自動車のハンドルなどと同様,言ってみれば多少の「あそび」が必要だというわけです。一人ひとりが自給自足をしているのでない社会では,分業体制に穴が開いたときの補完要員が必要となるということなのでしょうね。

赤ちゃんも、一人暮らしのお年寄りも、障碍を持った人たちも、男も女も、どの人も大切な存在なのです。神様は、この聖書の言葉を自然の世界を通じて私たちに啓示しておられるようにも思われます。

 

この聖書の箇所は直接的には教会のことを教えていますが、教会の外の社会についても神様が同様のことを願っておられるのは問違いないでしょう。効率主義、競争社会が当たり前のような風潮の中にあるこの社会は、決して神が願っておられる社会ではありません。出来るか、出来ないか、出来ないものは切り捨ててしまえという世の中は、愛のない、自己中心の罪の世の中です。

 

神によって造られた私たちの体は、「どの人もなくてならない存在であるといえる社会」を象徴的に現わすものでもあります。人間の体においては、どの器官もなくてはならないものです。体の中で、目はいらない、手の指はいらないなどということは出来ません。すべてが必要で、すべての器官がお互いのために働いているのです。神は、まさに弱い、劣った(と思われている)ひとりのいのちを尊ぶ中で社会に調和を与えられるのです。弱い人は強い人に大切な事を教える先生です。親が子供から教えられるように、劣った(と思われている)人からこそ、人は学ぶべきことがあるのです。

 

聖書は弱く劣ったいのちについて絶大な尊厳を与えておられます。それは家族や教会の中、あるいは職場や学校やご近所にいる誰かであるかもしれません。もしかしたらご自分のことかもしれません。誰であれ、そのいのちの尊厳を御言葉にたって確認していきましょう。そして強弱、優劣で人と自分を比較したり、人を差別するような生き方から解放されていきましょう。弱い劣った(と思われている)いのちを重んじて調和ある社会を作る一人でありたいと願う者のです。

 

いのちはどれ程大切なのか?   ~神がその御子を与えられたゆえに

 

最後に、「いのちがどれほど大切なのか?」について考えてみます。

マタイの福音書16章26節には、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」と言われています。

 

ここには、ひとりのいのちの大切さが、全世界を手に入れることと比較して述べられています。世間では、わずかな財産や資源などを手に入れるために人の命が奪われるようなことがありますが、神にとってみれば、ひとりの命はこの全世界のものよりも重たいものだと考えておられることが分かります。ひとりの人の命はそれほどに重たいいのちなのです。

 

ですから、ルカによる福音書15章には、「見失った羊のたとえ」「なくした銀貨のたとえ」「放蕩息子のたとえ」によって、ひとりの人が自分の罪を悔い改めて神に立ち帰って来たときに、天の神は大きな喜びをもって迎えてくださることが記されています。

 

神は私たちにいのちを与えてくださいましたが、人の命は単に体のいのちばかりではなく、魂のいのちこそが私たちの中核にあるいのちであることが分かります。これこそが私たちのいのちの本質であり、このいのちは、わたしと神との関係に関わる命です。

 

神がこの世界を創造し、人を神のかたちに似せて造られたことはすでに記しましたが、人が造られた時、この世界は、神が見てもはなはだよい世界でした(創世記1:31)。神は(神の御心に従って)この世界を治める働きを人に委ねてくださいましたが、一つのルールをお定めになりました。それは、

 

「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」」(創世記2:17)というものでした。

 

「食べると必ず死んでしまう。」と言われていたのに、人は神に背いて善悪の知識の木からとって食べてしまったために、罪と死が人類に入ってきたのです。

罪が入ってきた後、人は神のもとから隠れようとしたことや、嘘、偽り、争い、責任転嫁、姦淫、殺人など、生まれながらの人はみな罪をもって生まれてきていることが分かります。その根本的な原因は、私たちを造られたいのちの源である神との関係が損なわれてしまっていることにあるのです。これが「霊的な死」といわれるものです。

 

しかし、神は、このような罪の中にある人を、なお大切な存在として覚えてくださり、これまで述べてきたようにこの世界にあるあらゆるいのちを今日も養い、育ててくださるばかりでなく、私たちを罪と死の中から救い出して、神の恵みのうちに、永遠のいのち(これは長さのことをいうよりも質的にすぐれた神とともに生きることができる命のことをあらわしています)に生きることができる者にしようと私たちを招いていてくださるのです。

 

事実、人が罪を犯した直後に神はこのように言われました。「お前(人を誘惑し積みに陥らせた悪魔のこと)と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」(創世記3:15)

女の子孫から救い主が生まれること、悪魔が彼のかかとを砕くように大きな危害を加えますが、最終的にこの救い主が悪魔を滅ぼすことが預言されています。この後の聖書の歴史は、神がこの約束を文字通り実現しておられる救いの歴史であるということが出来ます。

 

マタイの福音書5章43節以下には、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」と言われています。

 

今日も神は私たちすべてのものを無償で養い、育てていてくださいますが、神に養われていても神に対して無関心であり、神を礼拝することも感謝することもしない私たちが、真心をもって神との関係を回復されて、いのちを得ることができるようにお導き下さるのです。

 

1ヨハネ2章1節には、「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」と言われています。

 

旧約聖書の時代には、羊や牛などの動物が犠牲をして捧げられて、それによって人の罪が赦されるということが象徴的に行なわれてきましたが、それは、やがて来る救い主イエス・キリストによる罪の贖いによる救いを表していたのです。

神の目から見て、罪のない人は一人もいません。

ローマの信徒への手紙3章には次のように記されています。

 

既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。

次のように書いてあるとおりです。

「正しい者はいない。一人もいない。

悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。

皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。

善を行う者はいない。ただの一人もいない。」

 

同じく、ローマ6章23節には、

「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」と言われています。

私たちすべての者がそのうちにもっている最大の問題は、罪と死の問題です。しかし、この問題の重大さに気付いている人はどれほどおられるでしょうか。神は愛の神であるとともに正義の神でもあられます。神はこの罪の世界をいつまでもそのままにしておかれることはありません。人が犯した罪に対してすべての人は神の裁きの前に立つ時が来るのです。

 

ヘブライ9章27節には、「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」と言われています。この世の生を終えていつか肉体の死を迎えます。肉体の死を迎えるのは自然なことではなく、自らの罪のために死を迎えるのです。死んだということはその人が罪を持っていたということを表しています。

 

残念ながらすべての人は神の前に罪があり、思いと行いにおいて神の前に罪を重ねているのが現状です。そのような私たちは、一度死ぬことと死んだ後裁きを受けることが定められています。

 

言葉を代えて言えば、私たちはみな、その罪と死の中から救い出してくださる救い主を必要としているということです。

その裁きの場において、私たちにとって唯一の救い主、弁護者となってくださるのがイエス・キリストなのです。

人がその罪を赦されて救われるための救い主の条件は、

  • 罪のない者でなければなりません
  • 人の罪を贖うためには、まことの人でなければなりません
  • 罪のない人間である方が、私たちの身代わりに罪の苦しみ・刑罰を受けて死んでくださる

 

以上の3つの条件をすべて満たす必要がありますが、実際には罪のないお方は神以外にはありません。この地上に生きた人間の中でただ一人罪のない人としてお生まれになったイエス・キリストは、100%神であり、100%人間であるというお方として今から約2000年前にお生まれになり、私たちの重荷や痛みを引き受けて私たちに仕えてくださる生涯を歩んでくださいました。100%神の御心にかなう生涯を送られて、私たちが受けるべき罪の刑罰を身代わりに受けて、ご自身の命を私たちのために捧げてくださったのです。

 

ローマ信徒への手紙5章8節には「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」と言われています。

 

この出来事の中には私たちがどんなにか神様に愛されているか、それ故に神は私たちをどんなに価値ある者としてくださっているかかが示されています。

私たちがまだ罪人であった時、つまり「神などいない、いたとしても自分とは関係ない、イエス様が十字架に架かり命を捨ててくださった、そんなことは知ったこっちやない」と言っていた私たちを神様の方が先に愛してくださったのです。神様に愛される価値などどこを探しても全くない、そのままの私たちを、神様は愛してくださっているのです。

 

さらにその愛が犠牲を伴った真実なものであることを知るなら、神様に愛された私たちの命の価値はもう、比類の無いものであることが分かります。それが「キリストがわたしたちのために死んでくださった」ということです。

 

神が私たちに与えてくださったものは何でしょうか。この宇宙も、いのちあふれる地球も、山も川も、海も、空気も、動物も、植物も、そして私たちの体も心も、家族も、友人も、毎日の食べ物も神が与えてくださいました。それだけではありません。私たちを罪と死の中から救い出してくださるために、いのちを与えてくださるために神のひとり子イエス・キリストをも与えてくださったのです。

 

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)と言われている通りです。

 

「イエス・キリストは、私の罪のために十字架で死んでくださったのだ」と信じて、イエス・キリストを私の救い主を信じて受け入れた人、それがクリスチャンなのです。神は、そのようにして行いによっては救われることができない。自分の力や知恵によっては罪をどうすることも出来ない私たちが、イエス・キリストを救い主として信じて受け入れる信仰によって救われる道を開いてくださったのです。

 

このいのちをいただくなら、生きながらにして、神のいのち、永遠のいのち、死をつき抜けて生き続けるいのちを得ることができるのです。

ヨハネの福音書3章14節以下には次のように記されています。

 

「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3:14~17)

 

また、ヨハネの福音書20章31節には、聖書が書かれた目的として次のように記されています。

「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」

冒頭にも記したように、私たちは、「いのち」こそ最も大切なものだと考えています。聖書が書かれたのは、最も大切な「いのち」を私たちがいただくために他なりません。私たちは、神によって体のいのちを与えられ、日々育まれ生かされてきた者ですが、私たちの本質は、魂のいのちなのです。

 

罪のために神を離れてしまっている人間が、その罪を赦されて、神との平和を与えられ、本来あるべき神とのいのちの交わりのうちに生きるようになることを、神は願っておられるのです。

 

私たち人間は、「この人は何かできる能力がある」とか「価値のある何かを持っている」とか「高い地位についている」などの価値判断をして人を区別したり、人に序列を付けたり、差別してしまう傾向があります。何らかの貢献をしているということで愛される資格があると思うのかもしれません。しかし、神様はそうした価値とは無関係に、人間を高価で尊い存在、愛の交わりの対象として創造してくださいました。ですから、私たち人間は、すぐれた働きをしたから神に愛されているのではありません。私たちの存在それ自体が(神に)愛されているから価値があるのです。

 

私たちのいのちに対しては既に(主イエス・キリストの)神様のいのちという代価が支払済みなのです。まさに私たち一人一人の命というものは全宇宙最大の価値を持っているのです。

さらに、このいのちの価値に個人差はありません。このいのちの価値は男性も女性も同じです。あかちゃんも大人も高齢者もいずれも尊い存在(というよりはお金をいくら積んでも、お金では換算することができません)なのです。白人も黒人も黄色人種も、ノーベル賞受賞者も凶悪犯罪者も同じです。障害のあるなしにも関係ないのです。

 

何を持っているか、持っていないかという所有や、何かできるかできないかという能力、役にたっているかいないかという貢献度などに一切、関係なく、お互いは最高の価値があるのです。

「キリストがわたしたちのために死んでくださった」、聖書はそのように私たちのいのちの価値を教えてくださいました。神様のいのちと引き換えにしていただいた、それほどに私たちには絶大な価値があるのです。だからこそ、自分の人生を大切にしなければならないのです。同じように私たちが日々出会う人のいのちも大切にするお互いでありたいと思うのです。

 

だからこそ、神はあなたが罪の問題を解決しないままでこの世の生涯を終えるのではなく、神が与えてくださる救いの恵みをいただいて、これからは神を神として生きるようになることを願っておられます。罪の解決のない人生は、その最後には死に向かう人生です。人生のゴールは死なのです。そのような人生は、この世でどんなに裕福な生活をしたとしても、美味しいものを食べて好きな暮らしが出来たとしても空しい人生です。

 

しかし、「イエス・キリストを信じて命を得た」人の人生は、いつかは肉体の死を迎えますがそれがゴールではありません。イエス・キリストを信じて神とともに生きるようになった人の人生は、死の向こうにある命、神の家に永遠に迎えられるという永遠の命に生きる人生なのです。キリストによってその罪を赦されたクリスチャンの人生のゴールは、死ではなく永遠の命なのです。

 

おわりに

 

「いのちはなぜ大切なのか?」ということをめぐって、聖書からいのちの大切さについてみてきました。

 

この語りかけを真実に受け止めて、まず、自分のいのちの尊厳を確認しましょう。私たちのいのちは神様の御手の中にあり、神のいのちと引き換えにされていることを覚えて、正しく自分を大切にできる人でありたいと願います。

 

次に自分以外の人々の命の大切さを確認しましょう。自分にとって価値のないように思えるいのち、取るに足らないと思えるいのち、それどころか自分にとって不都合ないのち、いないほうがいいと思えるいのちさえ、神様の目には尊いかけがえのないいのちであることを覚え、身近な人々を好きになれなくても、少しずつでも愛して、大切にしていけたらと願います。

 

そして、この小冊子を読んでくださいましたあなたにも、是非聖書が教えている私たちの神とその愛と恵みの深さを知っていただきたいのです。

そして、さらに聖書が教えていることを深く理解していくことによって、悔い改めと信仰によって、神が与えてくださる尊い命をあなたのものとしていただきたいと切に願います。これはあなたの人生の優先順位の最上位になる事柄であると確信しています。

 

最後に、この大切ないのちを何のために使うのでしょうか?「使命」という言葉は「命を使う」とも読めます。神様のいのちと差し替えにされたほどの、このかけがえのないいのちを、私たちは何のために使っていくのか? そのことも、神様は私たちに問いかけておられると思います。お互いの人生の中で、神様からの委ねられている具体的な使命を発見し、それを果たす人生でありたいと願ってやみません。

お読みくださり、ありがとうございました。

 

 

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静岡教会 遠山信和