仏教からキリストへ        亀谷凌雲牧師

生涯

 富山県新庄町の浄土真宗大谷派正願寺の住職の息子として生まれた。親鸞の直系である蓮如から、18代の末裔である。第四高等学校 (旧制)で、西田幾多郎より、宗教哲学を学ぶ。東京帝国大学では、井上哲次郎と波多野精一から哲学、姉崎正治から宗教学を学ぶ。研究の結論として、仏教を否定することになる。在学中は、真宗大谷派僧侶の近角常観が、東京本郷で主宰していた求道学舎に寄宿する。

 小樽中学教諭になった頃に、金森通倫の伝道集会に出席し、神、罪、救いを聞き、金森の祈りに感銘を受けて求道する。

 1917年(大正6年)9月23日に富山市上り立町メソジスト教会で、メソジスト派の宣教師より洗礼を受ける。最初は、住職の仕事をしながらキリスト教を信仰していたが、後に家族に打ち明けて、妻や母親になどの大反対をうける。一時はキリスト教信仰を捨てることも考えたが、正式にキリスト教信者になることを決意する。

 本願寺に聖書一冊と金森通倫の『信仰のすすめ』を贈り、除名を申し出、直接献身して東京神学社で学び、植村正久らに薫陶を受けた。牧師になり、1919年地元をカルバリ山とみなして、富山新庄教会を設立する。1951年に自伝として『仏教から基督へ――溢るゝ恩寵の記――』を著す。

キリストは仏教の破壊者ではなく、完成者であるとの信仰を持ち、富山での郷里伝道に終生仕えた。

 『平家物語』の「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす」を引用する。そして、この無常観は仏教専有のものではないとし、伝道者1:2-14、第一ペテロ1:24-25、マタイ24:35を引用する。

 仏教は罪障に悩み、他力の本願を立てた。親鸞は罪責観に徹した。ローマ書を読んで、この罪責観が聖書にあると悟った。ローマ3:10-18、7:18-25。使徒パウロは自分を「罪人のかしら」と呼んでいる。神に対して罪を犯した人類が滅ぼされるべきというのは、必然である。

 仏教の目的は、罪障宿業を断絶することにあり、弥陀による救いを求めていた。救いの宣布者ではなく、救い主ご自身を見たいと願っていた。

 「それがキリストご自身である」と確信した。救い主として肉体をもって地上に来たり、十字架において罪からの救いを与えてくださり、これを信じる者は、十字架のいさおしによって永遠に罪から解放され、救われて永遠に神の民となる、と信じた。仏教の罪業から断絶され、神に反逆した罪から救われた。「実にキリストによるのほか、この神への大罪よりの救いは他に全くないのだ。十字架による罪よりの永遠の救い!全人類よ、心より悔い改めてとこしえのこの御救いに与かれ!」。さらに復活の希望、聖霊の恵み、教会の活動、天国の富、再臨の待望について語っている。

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  [仏教からキリストへ]  亀谷凌雲 著

 本書は、住職であった著者が、求道人生の中でキリストに出会い、伝道者として歩む生涯を通して、キリストを信ずる喜びを綴ります。

 1951年出版以来、多くの方々に感銘を与え続けています。

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亀谷凌雲・祈祷室にて1960年

「第十四版発行に際して」より抜粋
 本書の原稿を書き終わったのが、丁度満十二年前の今月この日のこの朝であった 。思えば不思議に堪えない。爾来、本書が出版されてから全国全米にひろく、はからずも多く の方々に読まれ、用いられ、相次いで版が重ねられているのである。
 花々しく売れているわけではないが、いつになっても絶版になりそうもない。永 久に続きそうである。それはどうでもいいが、元来本書は寸毫も売らんがために書いたもので はない。ただ私自身が、どうしてクリスチャンになり、クリスチャンになって、いかに恵まれ ているかを、ありのまま、ややくわしく書きのこしておきたいと切望した余り書いたに過ぎな いのだ。
 ただ仏教の家に生まれてクリスチャンになったというのなら珍しくもないが、事 もあろうに仏教王国の北陸富山の寺院に生まれ、その相続者として住職にまでなった者が翻然 クリスチャンとなり、しかもその寺のある生地にキリストの福音を伝え、教会ができ、その牧 師となって、今も、微力ながらも真剣に伝道をつづけているということから、人からは珍しが られている。そして、どうしてそんなになったかと、人から問われ、全国各地から講演をたの まれ、ことわりかねて、しばしば話にでかけはしたが、皆数時間か数日だけで、ほんの断片的 なお話しかできないのであった。
 そこで、入信のわけとその後の生活の事実を、その全貌を書いたほうが、皆さん によくおわかり願えていいと思い、本書をかくに至ったのである。
 私の入信とその生活は、人には珍しくもあろうが、私自身にとっては珍しくも何 もないので、ただ平々凡々たる人間が、ただ人間としてどうして生きて行ったらいいかの問題 を求めて、目然に与えられたその道を、歩み進んでいるというだけに過ぎないのである。しか もその与えられた道が、ごみのような自分にとって、余りにも祝福が満ちみちており、ただに 絶対の平安を与えられているというだけでなく、心も体も、いつも赫々たる宇宙人生の最高の 希望に向かって、ゆるみなく進みつつあるのである。
 この至高唯一の道を、皆さんと共に進みたいとは私の切なる願いである。
 キリストを信じて、これも私が信じようと一度も思ったことはなく、むしろ仏教 徒たる境遇上、極力信じまいと願ったにもかかわらず、キリストの活けるすばらしい御人格に 、その至深の愛の事実に、その救いの余りにも深く広く高きに、心うちのめされ、いかに信じ まいと思っても信せずにおれず、その絶対に権威ある至聖至愛の御言に従わざるを得なくなり 、従えば従うほど、それが永遠の真理であり、神の絶大無限の恩寵であることをいよいよ明ら かにされて来るのである。
 仏教ではとうてい知ることのできない、天地の造り主、全能の父なる神の実在と 、その無限の恵みとが明らかになり、大自然が、宇宙の全歴史が、またことごとく、この神の 御わざであり、知恵であることを明らかにせられ、ただ賛嘆と礼拝の思いに心は満たされて来 るのである。これをいかにとどめんとしてもとどめ得ないのである。太陽の如く輝きわたるこ のあふるる御恩寵、それが本書を流るるが如くに書かせてくれたのだ。

 本書を書いた後、米国 に招かれて全米の日系人教会に伝道し、帰り来って更に生地にもっぱら伝道を続け、思わざる に多大の献金が与えられて新会堂が建ち、会員もふえて、会員自身の手により独立自給する教 会ともなり、この根深き仏教王国の真唯中にあって、困難は山のように多いながら、寸分も屈 せず、ひたすら神の言に励まされ、満々たる希望に燃えて、先頭に立ち給う神に従って願い続 けているのだ。

 キリストはあふるるばかり豊かな生命を与えて下さるのである。神の霊を満たし 導き給うのである。内外よりおしよせ来る困難があればあるほど反ってこれを喜び、勇気は百 倍してくるのである。
 一切をすててキリストの御命令通り、キリストにのみお従いしてゆく時、キリス トの方から、思わざるに、人を通して、魂に、心に、体に、物質までも、一切の必要をあふる るまでに与えて下さるのだ。常識からすれば、奇蹟ばかりである。
 神は活きておられる。助け続けておられる。やがては永遠の神の国へまでも迎え て下さるのだ。神の恩寵は求めざるに与え給う恩寵ばかりである。求めよりも遥かに遥かにま されるもののみを与え給う、あふるる御恩寵である。一切の苦難、死までもが皆、人知を遥か に超えた絶大なる御恩寵ではあるのだ。神よ、速かに御国を来らせ給え。
1963年4月30日朝
     富山市新庄の寓居にて
       亀谷   凌雲