何のために生きるの?

誰でも一度は、「自分は何のために生きているのか」と考えたことがあると思います。

それとともに、「生きがい」ということが言われます。生きる目的がはっきりしていて、それが生きる支えになっているとき、生きがいがあると言います。

あなたの生きがいは何でしょうか。
「自分は、この仕事が生きがいだ」という人もいるでしょう。あるいは「子供の成長が生きがいだ」という人もいることと思います。

私たちは、生きがいを求めて生きています。
わたしたちの生きがいは、本当に生きがいとするのに十分なものでしょうか。

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トルストイの民話に『人はどれだけの土地がいるか」というものがあります。

ある農家の小作人にパフオームという人がいました。
いつも「土地が欲しい、土地が欲しい」と思っていました。

「土地があると、たくさんの年貢を納めることもなく、いろいろなことが自由に自分の思うようにできるからなあ」と思っていたのです。

パフオームは一生懸命生活を切り詰めてお金を貯め、
行商人から聞いたバシキール地方に行くことにしました。

バシキール地方では、日の出と共に出発して、日の入りまでに出発点に戻ってくると、その回った土地全部が、どれだけ回っても1000ルーブルで買えると聞いたからです。

パフオームは、バシキール村に出かけて行き、1000ルーブルを払い、バシキールの村長さんや村人たちの立ち会いのもとに、日の出と同時に小高い丘の上から出発します。

ともかく一日でなるべく多くを回って、土地を獲得したいので、お弁当も水もちょっと休むだけで済ませてしまいます。

前の日は興奮してほとんど寝ていませんでした。ゆっくりして寝込んで遅れてしまったら大変だからです。そして「もうちょっと、もうちょっと」と先へ先へと進みます。

日が照って暑いので、上着を脱ぎ、靴も脱いでがんばります。

はっと気がつくと、日が沈みかかっています。パフオームは出発点を目指して必死の思いで走ります。出発点まで帰れなかったら、今までの汗の結晶の一〇〇〇ルーブルが無駄になってしまいます。

パフオームは土地が変な形になるのも構わず、最短距離でまっすぐ走ります。
「もう駄目か」と思ったのですが、出発点を見ると、そこは丘の上だったのでまだ日が当たっていました。

助かったと思って、汗みどろで、息も絶え絶えに、やっと村長さんのところにたどり着いたときに、ちょうど日が沈みます。

村長さんはパフオームに「よくやったぞ勇者。さあ、振り返ってごらん。この土地はみんなお前のものだ」と言うのですが、パフオームは振り返る元気もなく、そのまま息が絶えてしまいます。

そこでパフオームを葬るために土地に穴を掘ったら、それは頭の先から足の先までで、きっかり三アルシンという大きさだったというのです。これで、この民話は終わっています。

トルストイは、この民話を通して何が言いたかったのでしょうか。パフオームの人生の目的は何だったのでしょうか。土地が欲しい、土地が欲しいと一生懸命貯金をして、バシキール地方
に行って、一日中一生懸命走って、希望に満ちていました。しかし、人生を終わったときに本当に必要だった土地は、彼の亡骸を埋めるだけの土地だったというのです。

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聖書の中にも、あり余るほど物を蓄えようとする人についての話があります(ルカの福音書12章13〜21節)。

12:16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。

12:17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、
12:18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、
12:19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』
12:20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。
12:21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」