キリスト教入門講座

人権、医療、音楽、芸術、法律、学問、科学、福祉など、暮らしと生活においてなくてはならないものを与え続けてきたキリスト教(聖書)ですが、
日本においては、「キリスト教についてよく知らない」という方が多いようです。
正しい知識を持つならば、この聖書の言葉は、あなたに大いなる生きる力と希望を与えてくれるものになるに違いありません。

キリスト教入門講座

第1章  聖書について
第2章  神について
第3章  人間の尊厳
第4章  闇から光へ
第5章  罪と死について
第6章  神からの救い
第7章  救いへの道
第8章  救いの恵みと祝福
第9章  聖霊と教会
第10章  キリスト教会
第11章  生きた信仰をめざして
第12章  感性を豊かに

画像の説明

第1章 聖書について

	

A、 聖書は神の言葉

1) わたしの道の光、唯一の規準である聖書
聖書には、旧約聖書と新約聖書とがあります。旧約聖書には、創世記からマラキ書までの39巻、新約聖書には、マタイから黙示録までの27巻が収められています。(3x9=27と覚えることができます)この旧約聖書と新約聖書(66巻)の全体が聖書です。キリスト教会であれば、どの教会でもこの66巻を正典としています。
この聖書によって、私たちは神とはどのようなお方であり、私たち人間がどういう存在であり、意味のある人生を送るためには、何が必要であり、どのように生きるべきかを教える、私たちの信仰と生活の規準なのです。
旧約の詩人は、次のように歌っています。「あなたのみことばはわたしの道の光。わたしの歩みを照らすともしび」(詩篇119篇105節)。
私たちの人生は、ある意味では暗い夜の道を歩くようなものです。どこをどう歩いたらよいのか。どこに向かって生きてゆけばよいのか見失ってしまう、そんな私たちに、神はあなたの人生の光として、ともしびとして聖書を与えてくださいました。
2) 聖書を書いた人々
聖書を最初に書いたのは、起源前1400年ごろで、モーセという人によって書かれました。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の5つはモーセ5書と呼ばれています。
  出エジプト記などを見ると、モーセの時代の出来事が書かれています。それでは、その前の出来事は、どうして書かれているかというと、それは「口伝」といって口伝えで先祖代々語り伝えられてきたものを含めて、モーセが最初に書き記したのです。
モーセ以来、およそ40人もの人々が、その後聖書を書き記しました。これらの著者の中には、王様や漁師、預言者といわれる人や税金を取り立てていた人、都会の人や田舎の人など、じつにさまざまな境遇の人々が、これを書きました。そして、およそ1500年もの歳月をかけて、さいごに起源後96年ごろにヨハネの黙示録が書かれて、聖書が完結したのです。この66巻の聖書は、聖書としての実力をもっておりましたので、そのまま書き改められることもなしに「正典」として認められてきたのです。
聖書の最後の書であるヨハネの黙示録には、「この書物の預言の言葉を聞くすべての者にわたしは証する。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる」(ヨハネの黙示録22章18〜19節)。つまり、この66巻の神の言葉は、これで完結しており、これに付け加えても、これを削除してもいけないということです。
3) 神の言葉である聖書
それぞれに境遇の違う40人もの人々の手によって、1500年もの長い時代にわたって書かれた場合、普通ならば(このような本は他にはありませんが)、その主義主張はバラバラになるところです。現代の同じ時代においても、人々の主張は10人10色なのですから、ましてや1500年もの隔たりがあれば、当然、違った主張がでてきそうなものです。
例えば、インドで起こった仏教の思想は、今では各地に伝えられるに従って、まるで違う思想になってしまっております。しばらく前に世界宗教者会議というのがありまして、東南アジアの仏教徒が、日本の仏教にふれてびっくりしたそうです。「これでも仏教か」と驚いたそうですが、キリスト教の場合には、経典(正典)である聖書が同じですから、教派の違いなどはありますが、それは個性のようなものであって、基本的な、根本的なところでの教えは、時代を越えて、どのキリスト教会でも一貫しているのです。世界中どこでも、基本的には、同じ主張、聖書の福音のメッセ…ジが説かれているのです。
聖書は、神の自己紹介の書です。神を知ることができない私たち人間に、神はご自身を啓示してくださいました。具体的な長い歴史を通して、私たち人間との関わりの中で、神が生きておられることを示してくださいました。
この後、順を追って聖書の内容を見ていくことになりますが、この内容を理解するにつれて、まことの神がどのようなお方であるかを見ていきます。そして、神を知るようになるにつれて、人間とは何か、私たちのあり方や生き方、私たちの幸福や希望がどこにあるのかということに目が開かれていくのです。
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です」(2テモテヘの手紙3章16節)。

B、 聖書の特長

1) 聖書は神の言葉です。
実際に筆をとって書いたのは、モーセや、ダビデや、ペテロ、パウロなどのような人たちですが、これを彼らに書かしめられたのは神様です。
2) あらゆる人々、全人類に向けた救いの言葉です。
これは万人の、あらゆる時代、民族を越えたすべての人の本質的な問題と、その救いのために書かれました。ヨハネの福音書20章31節には「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名によりいのちを受けるためである」といわれています。これが聖書の書かれた目的です。
3) 実際に起こった歴史的な事実の中で語られた言葉です。
これは単なる思想ではなくて、この歴史の中に実際に起こったことがそのまま書かれています。従って、ここに書かれていることは、いずれも具体的であり、直接私たちの生活、私たちのあり方に関わるものばかりです。ここには人間のありのままのすがたが、かざらないで記されています。
4) 聖書は66巻で完結しています。
これに付け加えたり、削除したり、することは許されません。「聖書のみ」と「聖書全体」ということを心がけてこれに取り組むことが大切です。(ヨハネの黙示録22章18節)
5) このみ言葉とこの約束は変わることがありません
これは事実をそのまま書いただけではなく、これを書いた人は忠実にそれを後代の人に伝えてきました。印刷技術のないころはこれを手で書き記し、多数の写本よって聖書は残され、伝えられてきました。今日、聖書として残されている写本は非常にたくさん残されています。しかも、どれを見ても、その内容はほとんど同じです。旧約の時代にも新約の時代にも、これを神のことばとして、少しも間違わないように、これを書き写し、自らも生きる力を与えられていったのです。
神の言葉は、いつまでも変わることがなく、神の約束は必ず実現されるということが、聖書の歴史によっても分かります。

C・神の啓示である聖書

1)イエス・キリストによって
聖書ほど多くの人々に読まれ、伝えられている書物は他にありません。なぜこんなに苦心をしてまでも、人々が自分の言葉で聖書を読むような努力が重ねられているのでしょうか。
それは、聖書が時代を越え、文化や民族や環境の違いを越えて、人々に生きる力を与えていく「生命の書」であるからに他なりません。
「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証をするものだ」(ヨハネの福音書5章39節)。
聖書は生命の書であり、その生命は、「わたし.は道であり・真理であり・命である」.(ヨハネの福音書14章6節)といわれたイエス・キリストに結晶しているのです。
生ける神が、ご自身の心のうちを開いて、わたしたちに示されることを「神の啓示」といいますが、この神の啓示によって、神の意思が私たち人間に伝達されます。このような神の意思は、〔ことば〕によって私たちに伝えられてきましたが、そのことについて聖書は次のように述べています。

「神は、かって預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが・この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」(ヘブル人への手紙1章1命)。
神の意思を私たちに伝える神の言葉は、旧約聖書の時代には、預言者たちによっていろいろな方法で語られてきました。預言者というのは、何か不思議なことをしたり、未来のことを預言する人というよりは、神の言葉を預かって、それを人々に伝える人のことです。
旧約聖書と新約聖書は先にも述べたように一貫したメッセージを私たちに伝えています。

それは一言で言えば、旧約聖書には神の救いの約束が語られ、新約聖書にはその成就が語られているといってもよいでしょう。
神の救いの最終段階になって、預言者たちを通して約束されていたことが成就して、神の言葉はみ子イエス・キリストによって私たちに伝えられ、ここに新約の時代が始まったのです。「言葉」というのは、お分かりのようにこれは人間だけによって用いられるものです。人間と動物を区別するものは言葉であるといってもよいのです。言葉はそれ自体人格的なものです。

人格的な神の意思は、預言者たちによって預けられたさまざまな人格的な言葉によって、私たち人間に伝えられてきたのですが、それが最終的にはみ子イエス・キリストによって語られたということは、人格的なものを通して神の意思を伝える〔決定的な神の言葉〕であるということを意味しています。

キリスト教においては、神の意思は何かあいまいなものではなく、このイエス・キリストという人格そのものにおいて、私たちに語りかける神の言葉によって、最終的にはっきりと啓示されているのです。私たちが信じ、求めようとしている神は決して漠然としたお方ではありません。また、単なる言葉だけではありません。
この歴史に具体的に働き、何よりもイエス・キリストという人格的な言葉によって、私たちにご自身を示しておられるのです。この主イエス・キリストを通して、私たちは主なる神とそのみこころを知ることができるのです。

2) 聖書のみ

聖書はこのような神の最終的な決定的な啓示であるイエス・キリストに関する〔十分な啓示〕であるということが、聖書のみということです。私たちが神様を知るために、そしてイエス・キリストによる恵みによって救われるために、聖書の中に十分に記されているということです。不十分ではないということです、これ以外に別の啓示を必要としないということです。
エホバの証人(ものみの塔)・統…協会などキリスト教の異端は、いずれも聖書以外に神の啓示があると言います。そして、その新興宗教の創始者などの人間が、「わたしは新しい啓示を受けた」などといって、聖書の教えとはまるでちがった教えを語っています。
このような「ニセキリスト」(マタイの福音書24章5節)に惑わされないようにしましょう。

キリスト教の異端とはワンポイント

1、信仰と生活の規準である聖書の権威を軽んじて、独自の経典を作ってそ
れを聖書と同等ないし聖書以上の権威を与えます。(聖書のみを否定)
2、神が三位一体(父・子・聖霊の三つの人格を持ち、しかも唯…の神)の
神であることを否定して、多神教的な思想を説いたり、主イエス.キリ
ストの神性を否定するものは異端です、
3、聖書は・すべてイエス・キリスト(による救い)を指し示し、キリストだけが救い主であると述べていますが、キリスト以外に独自の教祖などを作っているものは異端です。

C・変.わらない言葉(真実の言葉)

1) 迫害を越えて

聖書は、旧約の時代には、これを読む人はほとんどユダヤ民族に限られていました。しかし、イエス・キリストがおいでになって以来・キリストの福音が世界中に伝えられるようになると・聖書はたちまち多くの人々の間で読まれるようになり、今も世界のベストセラーとして読みつがれています。
聖書を歴史を考えると、これは決して保存され読まれやすい環境にあったわけではありません。新約聖書がまだ書かれているころから、ローマ帝国によるキリスト者への迫害がありました。その後起源後303年には、ローマ皇帝ディオクレチアヌスによって、一番最初の「聖書焼き払い令」という命令が出されました。キリスト者を迫害するだけでなく、聖書は見つけ次第焼き払ってしまう。そして、聖書を持っている者は死刑にされたのです。

ローマ帝国の迫害の様子を見ると、実に激しいものでした。棚をした競技場の中に聖書を持っていたクリスチャン(乳飲み子を抱いた母親なども含めて)とお腹を空かせたライオンを入れて、キリスト者になった者はこのようになるぞと言って、見せしめにされたことは何十回、何百回とあるそうです。
ところが、帝国をあげてのこのような迫害にもかかわらず、キリスト者の数は増え続けて、その後312年には、ローマ帝国は、キリスト教を国教とせざるを得なくなりました。
キリスト者を迫害していたのでは、もはや国そのものがなりたたなくなってしまったのです。旧約の時代のイスラエル民族も、弱小の国で、何度も外国の軍隊に攻め込まれた経験があります。新約の時代のキリスト者も、その初めから迫害があり、当然、聖書も没収されたり、焼き払われたりしました。
ところが、そうしたたび重なる迫害にもかかわらず、聖書をなくすことはできませんでした。

1) 世界中に伝えられる

ヨハネの福音書20章19節には、イエス様が十字架にかかって死んだ後、その弟子たちは、ユダヤ人を恐れて戸を閉めて隠れていたことが書いてあります。主イエスを殺したユダヤ人が、今度はその弟子である自分たちのいのちをねらうかも知れないと思ったのです。
失望と落胆、不安や恐れの中にいた弟子たちのただ中にイエス・キリストは来られ、かねてから言われていた神による救いの確かなことを示してくださいました。この方こそまことの救い主であることを知った弟子たちは、この後迫害を恐れることなく、世界中に福音を伝えるようになりました。

これは、ルカの福音書24章44節以下でイエス様がいわれたことの成就であります。福音の伝道、人々に救いといのちを伝える働きは、人の働きではなくて、神様の働きであると思わずにはいられません。
「イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩篇に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そして、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、言われた。「次のように書いてある。メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪のゆるしを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」」(44〜48節)。

エルサレムから始まって、あらゆる国の人々に宣べ伝えられるといわれています。
旧約聖書はヘブル語で書かれ、新約聖書はギリシャ語で書かれましたが・これが世界中に宣べ伝えられるに従って、しだいに各国の言葉に翻訳されるようになりました、翻訳されてもそこに書かれている内容は変わりません。

現在は、非常に有名な本になるといくつかの国語に翻訳されて出版されます。この場合でも、せいぜい10カ国〜20カ国位のところです。しかし、聖書は世界中のどのような書物よりもたくさんの言葉に翻訳されています。1804年、イギリスの聖書協会が発足した当時には、聖書は72の言葉に翻訳されていたそうですが、(日本聖書協会によると)2012年12月の時点では、実に2551の言葉に翻訳されるまでになっています。(これは世界中の国の数のほぼ10倍にもなる数です。)これは世界中で使われている言語の約97%以上にあたります。そして現在は、481語の言語を翻訳・製作中であるということです。

これらの言葉の中の多くのものは、それを翻訳しようにも、辞書も文法書もありません。どのようにして翻訳するかというと、何ヵ月も何年も現地の人々と一緒に生活しながら、言葉や文化などを覚え、聖書をその言葉に翻訳して渡すという作業が今も続けられています。

2) 変わらないみことば

「変わらない」ということは真実であるということです。「あの時はああ言ったけれども、言いっぱなしで実現されない。」とか、何年後にはまた訂正された。」というのでは真実ではないのです。真実なこと、真理とは、どんなに時代が変わっても変わらないものです。どの国の人にも、どのような民族、どのような境遇の人々も、私への言葉として聞くことができる、そういう神の恵み、神の救いの恵みと救いのへの招きがここには語られています。
これも、福音が全世界に伝えられるという聖書の預言の一つですが、聖書とその実際の歴史を見ると、「その預言や神の約東がことごとく成就している」ということに驚かされます。

1500年もかけて書かれたにもかかわらず、全体の中から聖書を読んでいくと、そのメッセ一ジ、神・人・世界について、人生のあり方について、私たちの抱えているあらゆる問題の根本的で確かな救いについて、初めから終わりまで筋が通っているのです。これはにある「恵みの契約」の歴史を参照してください。
神は、罪に落ちてしまっている人間を救い出すという約束を与えてくださいましたが、それは歴史の流れの中で次第に明らかにされ、啓示が進展していきます。その時代の成就という面も持っていますが、旧約聖書(の律法と預言者)はみなイエス・キリストを指さしていたのです。そして、イエス・キリストにおいて、私たち人間が想像もしないような神の知恵によってその救いのみ業は実現されていくのです。

「神は、かって預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子(イエス・キリスト)によって私たちに語られました」(ヘブル人への手紙1章1〜2節)。

新約聖書の福音書などを見ると、「○○ に言われていたことが成就した」という言葉がたくさん出てきます。主イエスは、「わたしが来たのは、律法や預言者を廃止するためだ」と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく、すべてのことが実現し、天地が消え失せるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」(マタイの福音書5章17,18節)と言われました。

なぜ成就しているかといえば、神は生きておられるからです。そしてこの世界を支配しておられるからです。記されてから1600年以上の歴史をつづったこの書物は、この歴史に働く神の救いの計画が実現されていく歴史を物語っています。人間の罪にも関わらず、神はそのみわざを実現されるということです。
これはバラバラのものを寄せ集めて一冊の本にしたのではなく、明らかにここには一つの目的、一つの…貢した主張で貫かれています。聖書を書いた人の個性や性格などの違いを用いながら、それだけに豊かに、互いに補い合って、神の救いのみこころの深さ、広さが表されています。

時代が変わるにつれて、目に見えるものや人のことばは、色あせていきます。しかし、真理としての神のみことばは、時代を越えて変わらないのです。聖書のみことばは、ある民族や、ある特定の人にだけ通用するというようなものではありません。この日本に住む私たちの真実を告げ、私たちが真実に生きる遠を告げているのです。

C、 聖書の読み方

聖書を読んでも、言葉はそんなに難しい言葉は使ってありませんが、これが何を教えているのか。よく分かりません。聖書を読む時にはどんなことに注意して、どのように読んだらいいのでしょうか。」という質問を受けることがよくあります。
ここでまず大切なことは、教会において、礼拝の「説教」を通して、また牧師などによる聖書の学び会などによって聖書を学ぶことが大切です。

しかし、この場合も受け身で学ぶということではなくて、自分から求めるということが大切です。神はみことばを通してあなたに語ろうとしておられますから、これ以外にもいろいろな機会を用いて(例えば、壮年会、婦人会、青年会・家庭集会・聖書研究会など)グル_プで学ぶこともあるでしょう。そして、毎日少しずつでも個人で読むことをおすすめいたします。こんなことに注意して読みたいということをいくつかあげておきます。

A、聖書のことばに親しむこと。
分からないところがあっても、繰り返して読んでみてください。そして、これはと思うみことばは是非暗唱して下さい。このみことぱがこれまで多くの人々を励まし、支えて来たのです。

B、聖書の全体の流れの中で読むこと。
「聖書は、聖書によって解釈する」というのが、これを理解する原則です。分からないところも、聖書全体の教えの文脈に従って、聖書の他の箇所に照らして理解するように心がけてください。聖書全体の教えを理解するために、この学びも役立つと思います。

C、わたしへの語りかけとして読むこと。
これは「他人ごと」として読んでいる限りは、決してこの言葉の意味は分かりません。聖書は私たちすべての人間の真実を伝え、救いを与えるために書かれたものですから、自分の心を傾けて、自分の実存をかけて読むべきものです。

D、聖書はイエス・キリストを中心に読むものです。
聖書は、イエス・キリストによって結ばれ、一つにされている書物ですから、語られた主人公であり、またそのすべての言葉によって証され、指し示されているイエス・キリストと出会い、その存在に触れることが大切です。

E、聖書が証している神は生きておられます。この神との人格的な交わりを持ち、生活の中で聖書を読み、理解していくことが大切です。他にも、聖書辞典や聖書の注解書、コンコルダンス(聖書語句辞典)を用いたり、聖書の書かれた時代を理解し、「当時の人々がこのみことばをどのように受けとめたのか」ということを考えてみるのもよいでしょう。口語訳、新改訳、新共同訳、フランシスコ会釈、リビングバイブルなどの訳を比較して読んだり、信条を学んだり、キリスト者の書いた書物を読むことも、聖書の理解の助けになると思います。

「草は枯れ、花はしぼむが、私たちの神のことばはとこしえに立つ』(イザヤ書40章8節)
「人の心には多くの計らいがある。主のみ旨のみが実現する」

                                   (箴言19章21節)。

第2章 神について

人は一日一日と確実に齢をとっていく。
それは、ひとごとではない。
気づいたら、既に先がないと。
悲しまぬうちに、今からでも遅くはない。
自分を見つめつつ、マイペースで
納得のいく人生を
悔いのない人生を。

	

これは、九死に一生をえた体験をしてこられた新井三喜夫さんの言葉です。
新井さんはこのようにも書いています。
「この二つの体験から、私は大きなものをえることができた。困難をうまく切り抜けたというよりも、むしろ、何かとほうもなく大きな、大いなるものの力で私は救われ、生かされ、そして今も生かされているという気持ちである。」
            「心に残るとっておきの話2」より
アウグスチヌスは、「私たちは神に造られたのであるから、神のもとに帰るまでは、平安がない」と言いました。
聖書は、私たちが、この世に偶然に生きているのではなく、「とほうもなく大きな、大いなるものの力」を持つ神によって創造され、生かされているのであると教えています。

1、 神はどのようなおかたか

神とはどのようなおかたでしようか。ある人は、風俗や習慣の違いによって、たくさんの神があると考えます。あるいは、神とは宇宙を支配する一つの力であるとか、原理であると言う人もあります。しかし、私たちのまことの神は、どのようなおかたでしょうか。

ただひとりのまことの神
世界にはたくさんの国がありますが太陽は一つしかありません。なるほど国によって、人種や風俗、習慣しきたりなどが違います。しかし、どこの国でも、ただ一つの、同じ太陽が照っています。
私たちの造り主であられる神についても同じです。まことの神は、たったひとりしかおられません。日本の神、アメリカの神などというものではなく、人種や風俗、習慣の違う世界中の人の神であられるのです。
世の中には2種類の神がいます。

一つは、人間を造った神であり、もう一つは、人間が造った神です。
「が」と「を」の違いですが、この内実はずいぶんと違います、一方は、私たちにいのちをもたらし、これをはぐくんでくださる生ける神であり、もう一方は、人間の心の中だけにあり、人間の欲望に仕えようとする死んだ神です。
まことの神は、ただひとりしかおられません。神のおことばである聖書には、「神は唯一です」(第一テモテ2:5)。

「わたしが神である。ほかにはいない」(イザヤ書45:22)と書いてあります。
このまことの神は、目に見えない「霊」であられます。また、正しいことだけを愛し、すべての人をその行ないによってさばかれる義の神です。
さらに、私たち人問と同じように、見たり、聞いたり、考えたりする人格を持っておられます。この神は、すべてのことを知っておられる全知の神であり、どのようなことでもできる全能の神であられます。

創造の神

ただひとつの、まことの神は、すべてのものをお造りになりました。まことの神は、すべてのものを、無からお造りになった「創造の神」なのです。
まず、神は天地をお造りになりました。神のことばである聖書の第一ページには、「初めに、神が天と地を創造した」(創世記1:1)と書いてあります。すべての天体は、みな、まことの神によって造られたのです。

また、この神は、全地をうめているあらゆるもの、すなわち動物、植物、鉱物などをお造りになりました。動物学者や植物学者たちは、研究すればするほど、人間の知恵ではとうてい説明できない神秘の世界に深入りすると言っています。
統計学を研究しているある大学教授は、今のようなこの世界があることは、確率的に見るならば、石ころから完成した自動車ができることよりももっと難しいことだといいました。突然変異が重なってできてきたとしても、この自然界は驚くべき調和と秩序を持って、地球全体が、いや他の天体も含めて、これ以上であっても以下であってもいけないような秩序の中でいのちの営みを続けているのです。聖書はこの世界も私たちも神によって造られ、生かされているのだと教えています。

「天は神の栄光を物語り 大空は御手の業を示す。」(詩篇19編2節)
野の花ひとつをとっても、同じ種類のものなら、どの花も、花びら、めしべ、おしべの数は同じです。しかも一つ一つの花は、どんなに精巧な機械でも造れないほど、巧みにできていて、形や色の違うものは一つもありません。そうです、神以外に、これらのものを造る知恵と技術と能力を持つものはひとりもいないのです。
次に、神は私たち人間を、創造物の傑作として、お造りになりました。聖書には、「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです」(詩篇139:13)と書いてあります。

神は、母の胎内で、複雑で精密な私たちの内臓を造り、からだを組み立て、魂と心と思いとを授けられたのです。
子どもは、何か悪いことをすると、直感的に親に会うことを恐れます。良心の働きです。これは、悪を憎まれる神の正しさの表れで、私たちが神に造られたことを証明しています。また、私たちは親しい人が死んだとか、大空をながめたとき、ふと永遠について考えます(伝道者の書3:11を参照)。これも私たちが永遠に生きておられる神に造られたことの証拠です。

愛の神
神のご性格を、ただひとことで表した言葉があります。それは「神は愛だからです」(第一ヨハネ4:8)。私たちの造る主である神は、いつまでも変わることのない絶対の愛を持ったおかたなのです。

すべてのものを与えられる愛の神
神は、私たちが人生を楽しみ、喜ぶために、すべての恵みを豊かに与えておられます。「私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神」(第一テモテ6:17)。

美しい自然、食物、健康など、これらの恵みは、みな神から与えられたものであり、木も草も花も穀物も、鳥も魚も獣も家畜も、みな私たちの生活を豊かにするために造られたものです。私たちは、これらの造られた物によって、神の愛を知ることができます。
昔、ある人は野の花をつんで「神はご自身の愛をあらわすため、永遠の昔から、花を咲かせておられるのです」と言ったとのことです。
私たちの目を楽しませる一木の野の花、それすら、私たちに対する神の愛のしるしであるというのです。

このように考えると、コップ一杯の水にも、神の愛を見ることができます。
ひとり子の神を与えられた愛の神
しかし神は、ただ、ものを与えるだけでは満足されませんでした。神は、私たち人間に対する愛のゆえに、これ以上たいせつなものはないというもの、すなわち、たったひとりしかおられないご自分の御子イエス・キリストを、私たちのために惜しげもなく与えられたのです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世(私たちのこと)を愛された」(ヨハネ3:16)。

「ほどに」という、強いことばに注意してください。神は、ひとりの御子をあなたに与えるほど、あなたを愛しておられるのです。
神は、ご自分の最善のもの、かけがえのないもの、ご自分のもっとも大切である愛する御子イエスを、あなたに与えてくださったのです。これは、あなたが神の愛に感謝して、御子イエスを通して、神を心から愛するためにほかなりません。

2、 なぜ、私たちは神を求めなければならないのか

その理由はたくさんあるでしょうが、今ここに三つだけあげてみましょう。

1) 私たちのいのちの源である神が招いておられるから
私たちの親であるまことの神は、限りないあわれみをもって、自分勝手な道に進んでいる私たちを招いておられます。
「わたしは、反逆の民、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、一日中、わたしの手を差し伸べた」(イザヤ65:2)。また、神はこの地上におつかわしになった御子イエスを通して、罪の重荷と人生の苦しみに悩む私たちを、みもとに招いておられます。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)。

2) まことの神なくしては真の満足がないから
これは、神を知らされた人たちが、ともに覚えてきたことです。聖書の神に出会い、このお方を信じて受け入れた人は、それ以前の自分と比べて、心の平安をもつことができるようになったと実感しています。
まことの意味での心の平安は、有名企業、財産、地位や名誉などということとは別のところにあるようです。

近年になって、自殺率が非常に高い水準になっています。青少年、中高年、高齢者いずれも非常に高い自殺率になっています。自殺まではいかなくても、非常に深刻な悩みを抱えている人、人間関係で困っている人、精神的なストレスを抱えている人などは実に大勢いるのです。
ある女優は、こう言いました。「私は多くの人からうらやましがられました。花形女優になり、いろいろのぜいたくなパーティーにも招かれました。しかし私は深い孤独に悩んでいたのです」。

アメリカに、チャック・スミスという牧師がいました。この先生の教会にいわゆるヒッピーといわれる青年たちがやってくるようになりました。彼らは、人生に疲れて、シンナーや麻薬を常用し、精神的にも肉体的にもぼろぼろの状態で、教会の門をたたいたのです。

しかし、彼らは日曜日の教会の礼拝に集い、しだいに聖書の神とその意味を知るようになるとともに、人生を前向きに生きるように変わっていきました。そして、彼らの多くのものが牧師や宣教師となって、すばらしい活躍をしています。
私たちの心の空虚さは、神によってこそ満たされるのです。だから私たちは、真の満足を得るため、神を求める必要があるのです。

3) 人生の確かな目標と救いが得られます
運動会の競技でも、オリンピックのマラソンでもゴールがあります。ゴールがきちんと分かっていますから、坂道や、曲がりくねった道、嵐のような風が吹いてきてもそこに向かって走っていけばよいのです。しかし、人生のゴールはどこにあるのでしょうか。「あなたの人生の目的は何ですか?」と尋ねられたら、あなたはなんとお答えになりますか。

人生の目的とは、自分の人生の目標とかかわっています。
○○大学にいきたい。1億円の家を建てたい。○○会社に入りたい。○○という部署に昇格したい。など、いろいろと目標を持つことはあるでしょうが、ここでいう人生の目標とは、自分の人生のゴール地点を見極めて、それを目指して人生を生き抜いていくというものです。

欧米などでは、学校においても「死への準備教育」というものが行われているそうですが、これは、死への備え、自分の死とどう向き合うか、という事にも関係してきます。
「若い時代には、知識、財産、社会的地位、世間的な評価など、人はいろいろな目標を追い求めます。しかし、だれでも歳をとるにつれて、若き日の夢の多くが、結局は実現できなかったことに気づかされたり、また、幸い実現できた目標があっても、それだけでは心の渇きが決して満たされていないことを悟ります。
その上、かつてあれほど努力して獲得し維持してきた健康や地位や財産などが、徐々に失われて行くのを感じないわけにはいきません。やがて、だれでも死によって、持てるすべてのものを手放さなければならなくなる時を迎えるのです。

ここで私たちは、否応なく一つの大きな方向転換を迫られます。人生の努力の重点を、外面的なものから次第に内面的なものへと、向け変えなければならないのです。ものを「持つ」ということのかわりに、「ある」という新しい価値の領域を発見しなければなりません。何を「持つ」かではなく、どんな人問で「ある」かが大切になってくるのです。自分が築き上げ、慣れ親しんだ持てるものへの執着を絶って、もう一度、自由な心
で旅立つことを考える必要があります。

もちろん、今日の社会においては、財産や生活の保障を、全く考えないわけにはいきません。しかしまた、それらにとらわれ過ぎて自分を縛ってしまうよりも、もっと内面的な価値に目を向ける生き方を目指すほうが、より大切だと思われます。執着から解放され、心の自由を求めて生きる人にとっては、死の瞬間も、新しい生命の扉を開いて歩み出す、第一歩に過ぎないのではないでしょうか。」 「死とどう向き合うか」(アルフォンス・デーケン)より

ここで重要なことは、聖書が教えている「救い」ということです。根本的なところで、神が私を愛し、私にたいして「あなたは高価で尊い」といってくださり、私の罪をキリストの十字架のゆえに赦して下さっていることを知るとき、私たちは、神のものとされる喜びと感謝と希望をもってこの人生を生きるようになるのです。

第3章 人間の尊厳 生命への畏敬

「アンドリュー」という映画は、人類がロボットを日常的に使うようになった社会のことを想定しながら、人間の尊厳ということをテーマにした映画です。
人間そっくりに作られたロボットのアンドリューが、ある家族によって購入され、召使のようにして働き始めます。
ロボットは、ひたすらご主人の命令に従うことを使命として作られ、命令に従うということだけをしていくものでした。
ところが、アンドリューは他のロボットと違って、友情を感じたり、自分からすすんで本を読んだり、彫刻をしたりするのです。
アンドリューは、顔の表情を付けられるように改造してもらいましたが、それでは満足できないで、自分から腕のいいロボットの修理屋を探し、人間のような皮膚を持つ外見にアップグレード、さらには感情表現が出来るように、食事が出来て味覚も味わえるように、恋をしたり、音楽を聴いたり、人間とともに喜び、ともに泣くことができるように自分を改造してもらうのです。

アンドリューは、いのちのないロボットでしたが、いのちある人間として生まれ変わっていくのです。「人間ってすばらしいなあ」、神様がご自分に似せて人間を造って下さったことを改めて感謝させられた映画でした。
アルバート・シュバイツァーは、どのような文化の基底にも〔生命への畏敬〕がなければならないと述べています。
彼は、牧師として、神学者として、音楽家としても高い評価を受けていましたが、やがてアフリカの人々に伝道する医師として働くことが、神が自分に求めておられる召しであると確信し、大学教授を辞めて医学の勉強をし、やがてアフリカのガボン地方(後のガボン共和国)で働くようになりました。
「どのいのちもいのちそのものが尊いのであって、木の葉一枚にも生きようとする生命への畏敬を持つべきである」(『文化と倫理』)と述べています。

マザー・テレサは、すでに14才の頃からインドで宣教師として働こうと心に決めていました。彼女はインドの貧しい人々のところへ出かけていって、青空教室で子供たちに言葉を教えたり、聖書を教えたりしていましたが、インドの路上では誰にも顧みられず死んでいくたくさんの人々があるのを見ました。
部屋を借りて、どの病院からも受け入れてもらえない病人の看護をしたこともありましたが、彼女はいろいろな手を尽くしてやがて、「死を待つ人々の家」を作り、他のシスターたちとともに、死にそうになっている人や病気の人たちを連れてきて、食事を用意したり、洗濯をしたり、「神はあなたを愛しておられる」ということを伝えるのです。(『神の愛の宣教者会の誓い』)より

「わたしはのどが渇いている。貧しい人に愛情と思いやりをこめて飲み水をさしだすことは、神に飲み水をさしだすにひとしい。」 (マタイの福音書25章31〜40節参照)。
「神は言われた。『われわれにかたどり、われわれに似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うすべてのものを支配させよう。』神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」
同じく2章7節には、「主なる神は、土(アダマ)の塵で入(アダム)を形づくり、その鼻にいのちの息を吹き人れられた。人はこうして生きる者となった。」といわれています」
偶然に存在しているのではなく、神によって与えられ、神によって生かされているという
のです。神のかたち」というのは、?「関係」と「人格」という二つの面から考えることができます。

	

1) 関係の中に存在している人間

人間が神のかたちに創造されているということの一つの意味は、私たち人間が関係の中に造られているということです。人間はどこまでも関係の中で存在しているということです。基本的にはこれは次の三つの関係があります。
第一の関係は「神との関係」、第二の関係は「人間相互の関係」第三は「他のものとの関係」です。
「神はご自分のかたちに人を創造された」という言葉のうちに神と人間の関係が明白に示されています。人間は神によって造られたものですから、人間は決して神になることはできません。また人間は、神のように自ら満ち足りて存在することはできません。
人間は、神によって生かされ、自由な意思を持って、神の恵みに応答していく者として造られたのです。

2) 人格を持つものとして

『われわれにかたどり、われわれに似せて』創造されたというのは、神様が人格を持っておられるように、人間も人格を持つものとして創造されたということです。
人間が人格を持っているということは、
美しい夕焼けを見て感動したり、友達の入試合格の知らせを聞いて一緒に喜んだり、交通事故で息子を失った人のところへ、悲しみの思いでかけつけたりする。これは、私たちが神に似せて人格を持つ者として造られているからです。
犬や猫に、「入試に合格したんだよ」といっても一緒に喜ぶことはできませんし、悲しみをともにすることもできません。
人間の心は、目で見ることはできませんが、心があることはお分かりだと思います。この心には、説明のために区別をするならば、知性と感情と意思があるといってもよいでしょう。
知性があるから、いろいろなことを考えたり、作り出したりすることができます。知性がありますから、子供たちに言葉や文化を伝えることもできますし、教育をすることもできるのです。

感情というのは、うれしいことがあると喜んだり、悲しんだり、驚いたり、楽しんだり、感動したりします。これは感情があるからです。ですから、人間は芸術や音楽や文学を生み出すこともできるのです。色の美しさや、すがた、形の美しさを作り出したり、音の美しさ、音楽を楽しんだりすることができます。ことばの美しさは文学です。詩や短歌、俳句もみなそうした美しさをもっています。

さらに意思というのは、人間の尊厳ということを表しています。人間の価値はかけがえのないものですが、このかけがえのなさがここにも表されています。
自分でものを決めたり、自分の決断によって行動するという、他のだれでもない、自分は自分であるという、その人独自の人間の存在です。たとえ、親が子供はこんな職業について、こんな人になってほしい、こんな趣味をもって、こんな働きをしてほしいと思っても、子供は親の言う通りになるとは限りません。すべての人は、こうした意思を持っていますし、どんな人であっても、こうした人の意思が尊重されなけれぱなりません。

「基本的人権の尊重」ということは、人間ならではのことがらです。それだからこそ私たちは、他にも神によっていのちを与えられているあらゆるものに対して、そのいのちを尊重し、守り、みこころに従って治めていくべきなのです。
どの人もかけがえのないひとりとして、神によって招かれているということを覚えて下さい。この人間の社会では、お金があるとか、有名な会社に入っているとか、学歴がどうだとか、地位がどうだとか、部落民だとか、病人だとか、前に犯罪を犯した人だとか、そんなことで人間の価値を判断することがあります。

しかし、神の目から見れば、どの人もみな尊いひとりなのです。性格の違いや人種の違い、境遇の違い、賜物の違い、いろいろな違いをもちながら、みんなが協力して、愛し合い、神のみこころを行うことを、神は求めておられます。教会には、そのように違う人が来て、当たり前ですし、むしろ、その違いや賜物を生かして、神と人を愛し、仕えるのが教会のあるべきすがたです。
人間の価値というものは、例えば、あの人はこの人より才能があるとか、お金や財産があるとか、社会的地位がどうだとか、健康であるとか体が不自由であるとか、人種や境遇がどうだとか、…人間はこのようなことで人間の価値を考えるということがあります。
これらは相対的なものですが、聖書は、人間の価値は神のかたちに造られているすべてのいのちが尊ぶべきもの、どの人も人間の価値は絶対的なものであることを教えています。

人間が〔神のかたち〕であるということは、人間が一人ひとり神との関係において「絶対の価値」を持つ者であるということであり、〔基本的人権〕という憲法の理念は、このような聖書の人間理解から出てきていることを覚えておくことも大切でしょう。
人間は、お互い同志を比べ合うことによって、つまり〔差別〕によって価値を決めるのではなく、ひとりひとりが神の光を照り返すうつわとして、絶対の価値を持っているということが、〔平等〕ということの根拠になるのです。

3)いのちは尊いもの

人間の歴史を振り返って見ると、争いや戦争の絶えない時代はありませんそした。
なおいろいろな差別や偏見によってそのいのちさえ脅かされている多くの人々がありいわゆる先進諸国の企業などによって土地を買い占められ、仕事を奪われて貧しさを余儀なくされている人々、今日食べるものもないままに飢えの中で死んでいく子供たちがあります。貧しさや飢えのために一日に4万人もの子供たちが死んでいくという現実があります。

また、20世紀になって、加速度的に多くの動植物の種が絶滅するようになってきました。地球環境の破壊ということも、深刻な問題として叫ばれるようになりました。神によって造られたこのすばらしい地球とここにあるいのちを、人類はさまざまな意味で破壊して来ているということを感じないわけにはいきません。
あるいは、自分は駄目な人間だと思ったり、生活が苦しくなったり、ショックを受けるような事件に巻き込まれて自殺をしてしまう。一人暮らしのお年寄りが、その孤独感や自分の生きる意味を見出せなくて自殺をしてしまうというようなことも後を絶たないのです。

どうしてこんなことになってしまうのだろうか。
それは、次の章の「人間の罪」の姿を見る時に、またみことぱや祈りによって主なる神のことが分かってくるにつれて、私たち人間とその問題点がしだいに明らかになってくると思いますが、それは一つには、人間が本当には「いのち」の尊さが分かっていないからでしょう。

自分のいのちも他人のいのちも割り引いて考えているのです。私が自分のいのちの尊さを分かったと思うようになったのは、イエス・キリストの十字架の意味を知るようになってからでした。イエス・キリストのご生涯を見ていくと、神様がどんなに私たちひとりひとりを愛しておられるかということが明瞭に示されています。
主イエスは、私たちに「神を愛することと自分を愛するように隣人を愛する」ことをお命じになりました。そして、神様が私たちを愛しておられる愛とはどういうものであるのか、愛するとはどういうことなのか、ということを身を以て教え示してくださいました。本来の人間のあり方をこのようにして示してくださったわけです。

私たち人間は、「あいつは悪い犯罪人だから、あんな奴と付き合ってはいけない」とか
「あんな奴は死んだ方がましだ」などと考えてしまったり、優越感で人を見下してしまったり、そんなことで人を愛することができない。かと思うと、唱分は何てだめな人間だろうか」「自分のこのところがいやでいやで仕方がない」と思ったり、今のような自分、これまでの自分を受け入れることができない。あの人に親切にしてあげようと思ってもできないし、やってはいけないと思っていてもしてしまうような醜い自分に嫌気がさすというような方もいるかも知れません。思うようにならない自分を持て余している。自分を愛することもできなくなっている。

そんな私たちに、主なる神は言われます。そのままでいい。罪があり、弱さを持っているあなたのままでいい。そのままで私のところに来なさい。「私にとっては、あなたはとても尊いいのちなのだ。」といわれるのです

「あなたを創造された主は、あなたを造られた主はこう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖(あがな)う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。・・わたしの目にあなたは値(あたい)高く、貴く、わたしはあなたを愛し(イザヤ書43章1〜5節)。

神にとっては、どのひとりのいのちも価高いものです。どれほどに価高いかといえぱ、マルコの福音書8章36節で、主イエスは、「人はたとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか、自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」。これは言い換えれば、あなたのいのちは、全世界にも比べることができないほどの高いものであるということです。そして、神様がどれほど私たちの命をかけがえのないいのちとしておられるかといえば、それは神が、私たちのいのちを贖うために払ってくださった代償(イエス・キリストの受肉と苦難の生涯と十字架の死)において表されています。あなたのいのちの価を神様がどのように見ておられるか。

その最も的確ではっきりとした答えは、あなたのいのちを救うために、そしてまことのいのちに生かすために十字架に向けて赤まれたあの主イエスのお姿にこそ表されているのです。神があなたや他の人々のいのちをどんなに値高い、貴いものとしておられるか。このことが分かると、私たちはどのひとのいのちも大切にしなければならないことを教えられるのです。

あなた自身にとってもそうです。自分のいのちを愛するべきです。たとえ、あなたが億万長者になって、世界中の土地を買い占めたとしても、いのちを失ったら何にもならないのです。ここまで見てくると、すでに聖書が語る「いのち」
というのは、単なる肉体のいのちだけのことを言っているのではない。ということを感じておられると思います。聖書が語る「いのち」とはどういうものであるのか。私たちが、実に自分を生かすような意味で生きるとはどういうことなのか。次の章から順に見てまいります。

3、地を従わせよ

先に見た創世記の続きには、次のように言われています。「神は彼らを祝福して言われた。産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」」(創世記1章28節)。

この言葉の中に、第三の関係である人間とそれ以外の披造物との関係がはっきりと示されています。主なる神は、〔神のかたち〕に造られた人間に対して、「地を従わせよ」「海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」と言われています。神のものであるこの世界の管理を人間に委ねられたということです。ですから、人間は神のみこころに従ってこの世界を治めていくべきなのです。

人間は、それ以外の被造物を自分の思いのままにではなく、神のみこころに従って治め、支配し管理するという働きを、主権者なる神から委託されているのです。しかし、このように人間がそれ以外の被造物を支配し、管理するように定めているのは、人間そのものではなく、神であるということを忘れてはなりません。
人間はあくまでも神のみこころを求め、それに従ってこの世界を治めていくべきなのです。ところが、実際には戦争や差別、自然環境の破壊、動植物の絶滅などの問題を生み出しています。これは、人間が、自然界が神のものであることを忘れて私物化し、委託された管理を十分に行っていないところから生まれているものです。

これはちょうど、主人から財産の管理を託された支配人が、自分を主人のように思い込んで財産を勝手に処分しているようなものです。こうした問題の真の解決は、人間がこのような自然界の私物化から解放され、神のものである自然界を、神のみこころに従って、すべての人間の幸福のために生かすことができるように、管理することから生み出されていくものです。

第4章 闇から光へ

日本語の「人」という字は、人間がお互いに支えあっていく姿をあらわしています。人間のあり方を表す興味深い言葉ですが、この人間は、神様によって造られ、生かされていることを学びました。
人は神様のかたちに似せて造られましたから、どの人もかけがえのない大切な人格を持っているのです。
ところが、その人間が、本来あるべきところから離れてしまっていること、神のもとを離れて罪と死のうちにあることを聖書は教えています。

罪とは本来まとはずれであるということを意味しています。どんなに努力や苦労を重ねても、私たちの人生が的はずれの人生であったならば意味がありません。
あるべきところから外れている
ルカによる福音書15章には、有名な「放蕩息子のたとえ」といわれるイエス様のたとえ話があります。

「また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。
弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。
何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。
何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。
それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。
彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。

そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。
ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。
もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』
しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。
それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。
この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。」(ルカによる福音書15:11〜24)

一度聞けばストーリーは分かると思います。
聖書はすべて、神様からの今の私への言葉として聞くことができるのですが、私はこのたとえ話を読むたびに、神様から離れていた自分、そして今でも神を忘れてしまうことがある自分と、そんな私を招いてくださる神様の愛を感じるのです。
かわいい子には旅をさせよ、という言葉があります。旅によって人は成長し、改めて自分を見つめるようになり、自立する心が養われていくことがあります。
しかし、考えてみると、私たちは自分の家にいたとしても人生のたびを続けていることに変わりはありません。この人生のたびにおいて、私たちが父なる神と出会い、神のみ手の中で生きることの幸いを聖書は語っています。
息子は父親のもとを離れて遠い国に旅立つのですが、そこで放蕩に身を持ち崩し、財産を使い果たし、惨めな生活をするようになりました。

これは、たとえ話として分かりやすく書かれているわけで、実際の惨めな生活は、必ずしもお金があるかないかというような事ではないでしょう。お金や財産があっても惨めな生活をしているということはよくあることです。
ともかく、食べ物にも困るような生活をするようになって、この息子は自分が父親に対して申し訳ないことをした。雇い人としてでもいいから父のもとに返ろうと決心するのです。
「彼は我に返って言った。」という言葉には、正直に自分を見つめるようになった。本来の自分に返った。という彼の思いが伺われます。
私たちは、とかく自分を棚に上げて人の悪い点を指摘する傾向があります。しかもそういう傾向のある人は、自分自身にも自信が持てず、心のどこかに恐れや不安を抱いているようです。
だからこそその不安をかけ消すようにして、人の欠点を指摘したり、スキャンダルに快感を感じたりするのです。不安を拭い去ろうとして自分をごまかしていますから、なかなか自分のあるがままの姿を直視することができません。
正直に自分を見つめることができるようになるのは、放蕩息子に表されているような父親が、私の天の父なのだということを知ることから始まります。

第2章にも述べたように、私たちの主である神様は、あなたを大切なかけがえのないいのちとして覚えておられます。そしてあなたが天の父のもとに帰ってくるのを忍耐を持って待ちつづけておられるのです。
罪とは、あるべきところにいないこと
放蕩息子のたとえでは、親不孝をして家出をし、財産をすべて失い、体も心もぼろぼろになって返ってきた息子に対して、父親は「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」と言われています。
「まだ遠く離れていたのに」見つけたということは、この父親は、来る日も来る日も、息子の帰りを待ちつづけていたということです。そしてぼろぼろになって返ってきた息子を喜んで迎えるのです。
この父親とは、いうまでもなく私たちの造り主であり、今日もいのちをはぐくんでいてくださる父なる神ですが、この父親は、息子が帰ってきたときにこういうのです。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」そして、祝宴を始めた。」
「この息子は、死んでいたのに生き返った」というのです。なんだか大げさな表現だな、と思われるかも分かりませんが、事実そうなのです。
この息子は、神様によって、父親によって生かされてきたのに、そのことを忘れて、神様がいなくても自分はやっていける、そうした思いの中で神様から離れていたときに息子は既に死んでいたのです。

豚を飼うような惨めな状態になったときに初めてというのではなくて、まだ財産があって、飲めや歌えと自分勝手なことをしていたときに、その人は既に死んでいたのです。
罪というのは、そのようにして神を離れる事であり、私たち自身を殺すことです。その罪の中にある私たちを救おうとして神様のほうから走りよってくださる。イエス・キリストを通してなされた救いのみ業はそのことを教えています。
神を離れては私たちは何もできないことを忘れてはなりません。

罪とは自分を見失うこと

夜の山手線に乗っていたときのことですが、そこにはサラリーマンやOLの方々が大勢乗っていました。顔が赤いのでお酒によっているんだなと思われる方もありましたが、その方々の表情を見ていると、「私が誰であるか教えてください」といっているように思われました。
先の放蕩息子のたとえの中に、「本心に立ち返って」ということばがありました。この言葉のギリシャ語には、「自分自身の中に戻ってくる」という意味があります。つまり、この息子はそれまでは自分自身の中にいなかった。自分自身を見失っていたということです。

私たちは、自分のやりたいようにしたいという思いが誰にでもあります。それはすばらしいことなのですが、神様のことやほかの人のことを考えないで自分のやりたいようにやろうとすると問題が出てきます。
放蕩息子がどうして家を出て行ったのか。親の言うことを聞いたり、家族や使用人の方々と仲良くしたり、会社に入ったり、学校に行ったり、勉強したり、こういう生活はどこか窮屈な気がする、本当の自分はこんなものではないんじゃないか。
どこか遠くに行って、父親の干渉も受けないで好きなことをしたら自分らしい生活ができるんじゃないか、そう考えたのかもしれません。

しかし、本当はそれは自分らしく生きてきたのではありませんでした。彼は本当の自分を求めたつもりだったのかもしれませんが、自分勝手にやったに過ぎなかったのです。彼は父親のもとを離れてから、自分自身と出会うこともできなかったのです。
しかし、人生のあるときに、彼は本心に返った。自分自身と出会うようになるのです。それは彼の心が打ち砕かれたときでした。打ち砕かれて心を父(なる神)に向けたときでした。

	

人生を変えるキリストとの出会い

あなたが自分を知りたいと思うなら聖書を読むことです。聖書を読むときに、聖書は鏡として私たちを映し出してくれます。聖書は、あたかも鏡のように私たちの本質を映し出すのです。
私たちを映し出す大切な点の一つは、人間が神のかたちに造られたことです。人格を持つものとして造られた人間のすばらしさについて、既に2章でお話いたしました。
もう一つの点は、聖書は私たちの赦しを映し出す鏡であるという点です。
ルカによる福音書7章36節以下には、ある女性がイエス様に出会って自分に出会い、罪を赦された喜びを持って生きるようになったことが記されています。私はこの女性が、マグダラのマリヤだったと思います。

宗教の指導者であるパリサイ人のシモンという人が、イエス様を食事に招きました。そのときは家の中庭で食事をしておられたようです。
「すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った」(ルカ37〜38)と言われています。

「罪深い女」と言われていますが、彼女がマグダラのマリヤであるとすれば、マグダラでは有名なマリヤ、水商売をしていて知れ渡っている、有名なマリヤという売春婦です。
けばい服を着て、分厚いお化粧をして、髪を染めている、いかがわしい女という感じの女性がやってきて、涙でイエス様の足をぬぐい、香油を塗ったというのです。
異様な光景を見つめている周りの人々の気持ちがわかるようです。
この食事の席に集まった多くの人は、この女性を見下して、「ここはおまえのようなやつの来るところではない。すぐに出て行くがいい。」そういって追い返そうとしたのではないでしょうか。

シモンは、彼女を好きなようにさせているイエス様にも不平を言っています。「イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。」〔37節〕
これはおそらく、シモンだけではなく、そこにいた多くの人たちの思いであったことでしょう。事実この女性はたくさんの罪を重ねてきたのです。しかし、イエス様は、この女性を「罪深い女」という視点ではご覧になりませんでした。
いやむしろ、罪深い者だからこそ、招いてくださる神様の愛を、キリストは示しておられるのです。

なぜ、マグダラのマリヤはイエス様の所へやって来たのでしょうか。自分の罪深さを知っている人がわざわざ自分の罪をあばいたり、さばいたりする人の所へやって来るでしょうか。
マグダラのマリヤはイエス・キリストの内に、圧倒的な赦しを見たのです。イエスは父なる神を映す鏡として来られたのですが、イエス様を見たときにそこに父なる神の赦しが豊かに現れていたのです。
この人の所へ行ったら、私の気持ちを理解してくれる。この人は私をさばかない。責めない。この人なら、私の罪をおおってくださる。
そのことをマグダラのマリヤは直感的に理解したのです。イエス様は、今まで私が知っている男とは全く違うということが彼女にはわかりました。

また彼女のすばらしい点は、娼婦の姿のままでイエス様のもとへ行ったことにあります。見るからに娼婦という格好をしていましたから、パリサイ人のシモンが彼女を見たときに、ああ、あの罪深い女だとすぐにわかったのです。彼女はありのままの姿でイエス様の所へ行きました。

たとえ、私たちが見かけを繕って、仮面をかぶって神の御前に出ても、それはまったく意味がありません。それでも神は私たちを愛してくださいますが、私たちの方に愛されたという実感がわきません。
本当の自分は愛されないかもしれないという不安が残ります。しかし、この女はありのままの姿でイエス・キリストの所へ行ったのです。
そして、彼女は泣いたと書いてあります。娼婦は普通涙を見せないそうです。このような商売をすると、必ず心が堅くなります。心を堅く閉ざして無感覚でないと、辛すぎて生きていけないからです。堅い心、冷たい心の特徴は泣けないということです。
悲しめない。喜べない。ところが、イエス・キリストに近づくと、この女の目からは涙があふれてきたのです。それも、イエス様の足の汚れを洗い流すほどあふれたと書いてあります。

あなただったら、このような場合どうするでしょう。いかにも娼婦、いかにも風俗嬢という女性があなたに近づいて来て、「肩でもおもみしましょうか」とか言ってきたら、男性ならどのような反応をするでしょう。
えらくベタベタと親切にされたら、「いいえ、結構です」と言って断るにちがいありません。

ところがイエス様は、この女の精一杯の愛を受け止めるのです。パリサイ人シモンは、「イエスは預言者なんかじゃない。この女が娼婦であることもわからないのか」と心ひそかに思います。しかし、イエス様は人からどう思われようと、どのような評判がたとうと気にしないで、その女の愛をそのまま受け止めるのです。
パリサイ人は人の外見、つまり見えるところを見たのです。髪型や化粧、服装……。そして、娼婦、罪人であると判断したのです。

ところが、イエス様はまったく違うものを見るわけです。この女の悲しみを見る。この女がこのようになるには、どれほど辛い経験をしてきたのか。どのような事情でこうなってしまったのか。
この女がどれほど愛と恵みに渇いているか。赦しを必要としているか。どれほど神にふれようとしているのか。イエス様は、この女の本質を見るのです。
多く赦された者は多く愛する

イエス様は、シモンに次のようなことを話されました。「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか」(ルカ7:41〜42)

シモンは、もちろん多く赦された方だと答えます。その答えを聞いて、イエス様はシモンとマグダラのマリヤの行為を比べてこう言われました。「この女を見ましたか。
わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙てわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。あなたは、口づけをしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。
あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。

だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません』」(44〜47節)

イエス様は、この女の心をよく理解することができました。さらに、この女の内にある美しさ、気高さを見ることができました。親から捨てられ、多くの男から利用されて町では罪深い女として後ろ指さされても、この女の中には清らかで美しいものが隠されていたのです。

最後にイエスは、この女に対して「あなたの罪は赦されています」と宣言されます。これは、女がイエス様の所へ来てそれらのことをする前に、すでに彼女の罪は赦されていたということです。
彼女がした愛の行為は、赦しを受けた証そのものでした。
多く赦されている人はすぐにわかります。たくさんの愛を与える人は、多く赦された人です。多く赦された人だけが、多く愛することができるのです。パリサイ人シモンは正しい人でした。

町での評判も良い人でした。しかし、自分には赦されなければならない罪などないと思っていたので、多く愛することができませんでした。
イエス様は、私たちが自分ではどうすることもできない罪を赦し、神様との本来の関係を取り戻させ、その人を本来あるべき姿に回復してくださるのです。

第5章 罪と死について

放蕩息子のたとえでは、その息子が「死んでいたのに生き返り」といわれていました。また、イエス様に香油を注いだ女性の場合には、「あなたの罪は赦された」といわれています。
このような表現は、聖書以外には余り耳にすることはないかもしれません。しかし、ここに人間がどうしても解決しなければならない根本的な問題が指摘されているわけです。
すなわち、「罪と死」の問題です。これを解決する道は、イエス・キリストという門をとおっていく以外にはないのです。

なぜキリスト教なのですか。

「仏教でも、キリスト教でも、創価学会でも、天理教でも結局は同じ事を教えていて、方法は違っていても、結局は同じところにたどり着くんじゃないですか。結局は人間の幸福を目指しているということでしょう。」このようにいわれる方がよくあります。
確かによく似ているな、真似したんじゃないの、と思われるところもたくさんあるようですが、聖書を学んでいくと、キリスト教と他の宗教では根本的に違っていることを教えられます。どういう点が違っているのでしょうか。

1) 主なる神の言葉とわざによる啓示の宗教

宗教には2種類あります。
一つは人間の願望、利益、宗教心によって造られた人造の宗教です。こうした宗教を批判して、宗教は人間の願望の投影に過ぎないといった人もあります。
もう一つは、神の側から自己を紹介された啓示の宗教です。キリスト教は啓示の宗教です。啓示とは、「おおいを取り除く」「あらわに語る」という意味です。
 人間のご利益を追求するだけの宗教は、人それぞれが自分たちの利益を追求しますから本質が見えません。

2) 人の知恵と力は神の知恵と力に及びません
 
 私たちは、神の自己紹介である啓示によらなければ、正しく神を知ることも自分を知ることもできません。聖書には、私たちを愛し、私たちをすくいたもう神のみ心が、この歴史の出来事の中から、具体的で私たちに分かるように示されています。
キリスト教信仰は、人間の作り上げた神や人間の知恵によってではなく、神によって語られ、実現されている真理を信じて生きるものです。
 
3) 罪が赦される確かな根拠があります
 
これについては次の章以降でふれることになりますが、以下に述べるような人間の罪と死に対して、人間はまったくなすすべを知らないのです。
神のみ子イエス・キリストの生と死と復活こそが私たちが救われる唯一の根拠です。
「この方【イエス・キリスト】こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」【使徒言行録4:11~12】

自動車の具合が悪いので、修理工場に持っていきました。そうすると、
「バッテリーを交換して、あとオイルエレメントとエンジンオイルを交換してみます。これでなんとかなるでしょう。」
ところが、実際は、1ヶ月もすると前よりさらに調子が悪くなって、動かなくなってしまいました。別の修理工場で聞いてみました。
「これはエンジンがいかれてもうとるから、修理ではなんともなりません。別の車を買うことをお勧めします。」ということでした。
よく調べてみると、この自動車は修理では間に合わない。新しくする必要があることが分かったのです。

人間の罪と死の問題もこれと同じ事なのです。人間は生まれながらに罪のうちにありますから、生まれながらの人間が知識を蓄え、勉強し、能力をつけてがんばってみても、それだけでは自らの罪と死の問題をどうすることもできないのです。
イエス様は言われました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

そうです、人が罪と死から救われ、父なる神との正しい関係に入れられていくためには、神によって新しくされなければならないのです。どんなに、人間の努力や行いによって、たくさんの修行を積んだとしても新しくなることはできないのです。
人はどんなに努力を重ねても、自分で自分を救い出すことはできません。むしろ私たちは、事あるごとに、自分の無力さを痛感しているのではないでしょうか。
このような私たちが、信仰によって救われる道をイエス・キリストは私たちのために開いてくださいました。救いとは何かということを理解するためには、どうしても罪と死について考えていく必要があります。

	

罪の起源

神のかたちとして造られた人間は本来すばらしいものです。
ところが、自分を含めた人間の営みを見るとき、それほどすばらしいようには思えないこともたくさんあります。
世界は混乱し、不義や偽りが蔓延し、すべての人が病と老いで死んでいきます。人間の社会だけではありません。自然においてもさまざまなうめきがあることを聖書も指摘しています。この悲惨の原因はいったいどこにあるのでしょうか。

神によって造られた最初の人間アダムは、エデンの園で神様から一つだけ命じられていたことがあります。それは、「主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2:16〜17)というものでした。

アダムはこの命令を破り、その木の実を食べたのですが、これこそ、神にたいする不服従の罪でした。このことによって、アダムは最初に造られた状態から落ち(これを堕落と言います)、この結果がその後のすべての人類に及ぼされました。
行為としては、木の実を食べたというだけのことですが、神様の命令を破ったことが、重大な結果を引き起こすことになりました。なぜ破ってしまったのかと言えば、彼らは神のようになりたいと思い、(神をないがしろにして)自分勝手に行動しようとしたからです。

罪の結果
「ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」と言われていました。彼らはその言葉の通り、体は生きていても死んでしまったのです。
神によって創造され、神との交わりの中で生きるべき人間は、神を離れ、神なしでやっていけると考えて行動した結果は破滅です。
罪は当然、聖く正しい神の怒りと呪いを受けずにはすまされません。以下は人間が、体は生きていても死んでしまっている姿です。

1) 生ける神との断絶

「主の手が短くて救えないのではない。 主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が 神とお前たちとの間を隔て お前たちの罪が神の御顔を隠させ お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。」(イザヤ59:2)
罪人は、そのままでは神の前に立つことができません。人間の一切の不幸の原因は主なる神様との断絶にあるのです。

2) 全的無能力

神を離れた結果は、神を知ることも自分を知ることも、自分がどこから来てどこに行くのかという人生の目標もまとはずれとなり、人間の思いや行いも本来あるべき姿から外れてしまいました。
「地を従わせよ」(創世記1:28)という文化命令も果たしえず、かえって混乱を招いているのが現状です。神の代理として、神のみ心に従って世界と自然を管理するのではなく、人間が自分が神であるかのように、自分の利益の追求と繁栄のために、搾取する世界となってしまいました。

3) 罪のむくいとしての死

「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」(ローマ5:12)
神様がいのちの源なのですから、神を離れると言うことは死を意味しています。本来人間は、いのちの神とともに歩み、神の恵みのうちに生きるべきものでしたが、アダムの罪によって、その子孫である人類には死が入り込んできました。
死は人間にとって本来のものではなく、罪の結果なのです。「罪が支払う報酬は死です。」(ローマ6:23)、「罪を犯した者、その人が死ぬ。」(エゼキエル18:4)とある通りです。

4) 第二の死

死は肉体の死だけではありません。
聖書は、「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)と言われています。
死が恐ろしいのは、その後にさばきがあるからです。
正しい裁判官は、罪をいいかげんにあしらうことはしません。「あなたは、○○円窃盗したけれど、まあ済んでしまったことだ。
なかったことにしよう。あなたは、保険金目当てに○○家の放火をしたが、別に悪気はなかったようだから罪には問わないことにしよう。」などという判決を下していたら、それでは正義を守ることにはなりません。
神様はこの世界をおつくりになったばかりでなく、これを治めて、例えば信じるものにも信じていないものにも太陽を昇らせ、雨を降らせていてくださいます。しかし、神様は終わりのときに罪をさばく正義の神でもあられるのです。
ヨハネの黙示録には、この世の終わりのことがかかれていますが、20章12節以下には次のように言われています。

「わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。
死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。
死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。」
「第2の死」は、肉体の死の後で、死者たちが罪によってさばかれ、火の池に投げ込まれるという永遠の滅びにいたることを表しています。
命の書に名前がかかれていないものは、神によってさばかれて第2の死を迎えるのです。

正しい人はいない、ひとりもいない
罪あるものは「それぞれ自分の行いに応じてさばかれる」というのですが、このように言われると、私はあの殺人犯や、前科のある人よりはましだ、あのうそばかりついているむかつくやろうよりはましだ、多少の問題はあってもまあ誠実に暮らしてきたということで、それほど罪の自覚は持っていない人もあるかもしれません。
聖書はどのように言っているかと言うと、ローマの信徒への手紙を見てみましょう。

「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。」(ローマ1:18)

神に対する不信心と不義に対して神の怒りが下るのだと言われています。
「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。」(1:20〜21)

「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。
彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。」
(ローマ3:10〜18)

神様がご覧になって、正しい人はひとりもいないというのです。
私たちは、「あの人よりはましだ」などと思っていても、神様から見るなら、正しい人はひとりもいないというのが私たちの現実だということです。

私たちは、ひとりのこらず、救われなければならない人間です。罪を赦していただかなければ滅びるべき人間なのです。罪の赦しを必要としているのです。実はこのことが、私たちの生涯の最優先課題として取り組まなければならない問題なのです。

罪の連帯

このアダムとエバの罪とその結果が、どうして全人類に及ぶのでしょうか。
渋柿は、そのままでは何年経っても渋柿のままです。渋柿は大きくなって、木が悪くなったから渋柿になったのでしょうか。そうではありませんね。それは元々渋い実しかならない木だったのです。
聖書の中に、「悪い木は悪い実を結ぶ・・・悪い木がよい実をならせる事はない」(マタイ7:17〜18)といわれている通りです。

私たちの罪もこれに似ています。成長して悪くなり、ついに罪を犯すのではなくて、元から悪かったのです。元から神を離れていることによって、実際の罪を犯すようになったのです。アダムの罪とその結果は、アダムの子孫である全人類に受け継がれています。これが原罪といわれるものです。
三浦綾子の小説「氷点」の中に、自分の血の中を流れる罪(原罪)と、いつ自分も犯すかもしれない罪の可能性を見出した陽子が、生きる望みを失って死を選ぼうとする場面があります。

このように、私たちはアダムの子孫として陽子のように、ひとりのこらず、罪の中に生まれ、原罪を受け継いでいます。ですから、聖書が「正しいものはいない。ひとりもいない」と述べているように、すべての人が神の前に罪人であり、また現実の罪を犯していることに気づかなければなりません。

聖書の詩篇51編には、ダビデが自分の罪を指摘されたときに、自分の罪を自覚し、悔い改めて祈った、神様に対する祈りが記されています。
「神よ、わたしを憐れんでください 御慈しみをもって。 深い御憐れみをもって 背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い 罪から清めてください。
あなたに背いたことをわたしは知っています。 わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し 御目に悪事と見られることをしました。 あなたの言われることは正しく あなたの裁きに誤りはありません。
わたしは咎のうちに産み落とされ 母がわたしを身ごもったときも わたしは罪のうちにあったのです。」(詩篇51編1〜7節)

ダビデはここで、神に対して罪を犯したと告白していますが、実は私たちも、うそをついたり、人の心や体を傷つけたりしたときにも、神様に対して罪を犯しているのです。神様を悲しませることをしているのです。

ダビデのこのような祈りは、一回限りのものではなかったことでしょう。私も自分の罪を覚えながら、涙を流して同じようなお祈りをしたことが幾度もあります。そのたびに、あの父親に出会った放蕩息子のように、あるいは「あなたの罪は赦された」という言葉を聞いたマリヤのように、神様のお恵みを心から感謝することが出来ました。
人間の罪は、道徳教育などによって矯正され、回復することが出来ないものです。渋柿にいくら肥料をやって、手入れをしても渋柿は渋柿、渋は取れません。
渋柿はただ、甘い柿木に接ぎ木される以外にないのです。私たちの罪の性質が取り除かれるためには、そして罪が赦されるためには、キリストにつながる以外にないのです。
キリスト教は、なぜあなたを罪びとと呼ぶのでしょうか。それは罪を知らなければ、自分の現実がまだわかっていないことですし、罪の赦しもその必要性もわからないからです。
神から離れている自分の姿を知った人だけが、神に立ち返ることができるのです。あなたもダビデのように自分の罪を認め、その罪の根本的な解決をイエスキリストのうちに見出してください。

第6章 神からの救い

救いは神から来る

「彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。」(エゼキエル33:11)
「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。
この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。」

                                 (2テモテ1:9〜10)

日本人の罪意識について

日本人の場合、どんな人でも、お百姓さんでも、国会議員でも、会社員でも、子供たちも罪意識をもっているようです。ところが、聖書が語る人間の罪ということを理解しわきまえている人はほとんどありません。人間の罪意識の特長は以下のような点にあります。

1) 自分や他の人を比較しての罪意識

日本人は、「罪」という感覚があいまいです。なぜならそれは他の人がどうしているかということがその判断の基準になっているためで、周りの人や大勢の人がやっていることならばそれは正しいことになってしまいます。
こうした考え方は、心においては劣等感と優越感の間を行ったり来たりすることになります。

2) セルフイメージが低い
 
確かな人生観を持たないところでは、どうしてもセルフイメージは低くなります。また、他の人と比較しながら生きる生活は、「自分はこれでいいんだ」という満足感を持つことができません。絶えず上には上がいるわけですから、もっとがんばれ、もっとがんばれと自分をうちたたく生活の中で、自分はダメだ、という低いセルフイメージに甘んじて生活することになります。

3) 的はずれな罪意識

自分には何の罪もないという人はいないでしょう。むしろ、日本人の中には、罪意識にさいなまれているという人も少なくありません。しかしこれは多くの場合、聖書が語っているような意味での罪意識ではなく、本当の罪が何であるのか分かっていないことが多いのです。病気を治す場合でも、自分の病気がよくわかっていなければ、治療方法もわかりません。
私たちの罪は、原罪といわれるように根深いものです。人間のどんな知恵をもってしてもこの罪と死から逃れることができないものです。しかし、私たちが「行い」によってではなく(キリストに)「所属」することによって救われる道を神様は与えてくださいました。

第4章では、私たちすべてのものが神の前に罪人であることを学びました。その罪の結果、人間は、「一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることが定められています。」(ヘブル9:27)
人間は、死ねば仏になり、神になるという考えは、人間のひとりよがりの考えです。私たちは、自分の努力で、下から上に上がっていくようにして救われるのではありません。神様のほうから私たちの下に下りてきてくださることによって救いの道が開かれたのです。

神からの救い

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(1ヨハネの手紙4:10)

1) 救い主の到来

あなたが聖書をお持ちであれば、是非、新約聖書の4つの福音書を読んでください。そこには、救い主イエス・キリストが、どのようなお方(真の神・真の人)であり、またどのようなことをしてくださった方であるかが記されています。聖書をお持ちでない方は書店にて手に入れることができますし、静岡キリスト教会においでになれば、新共同訳聖書を販売することができます。

・「新共同訳聖書」(日本聖書協会)または「新改訳聖書」(聖書図書刊行会)
旧約聖書と新約聖書が含まれているものがいいでしょう。是非お読みください。
まず、名前ですが、「イエス」という名前は、「神は救い」という意味を持っています。「キリスト」とは、姓ではなく職名ということができます。
ヘブル語では「メシヤ」という語で呼ばれました。その意味は、「油注がれた者」ということで、旧約聖書の時代には、イスラエルの王、祭司、預言者が油を注がれてその任務についたのです。イエス様は、神様によって、王、祭司、預言者のいずれの働きもなさる救い主(キリスト)として任職されたお方です。
今日、世界中の教会が守っているクリスマスは、神のひとり子であられた方が、マリヤの肉体に人として宿り、イエス・キリストとして誕生したことを喜び、記念する日です。
イエス・キリストの誕生は、普通の赤ちゃんの出生ではありません。キリスト(救い主)という使命を持った神のみ子が、私たちのもとに下ってきてくださったということです。

救い主は、普通の出生ではなく、「処女降誕」という超自然的、奇跡的な方法によってお生まれになりました。
「処女降誕」が意味していることは、イエス様はアダムの罪を受け継がず、神の聖霊によってまったく聖く生まれたということです。従ってこのような方法で生まれたイエス様には罪がなく、罪人を救う唯一の資格のあるお方であるということです。
生ける神の子
あるときイエス様は、弟子たちにお尋ねになりました。「人々は私のことをどう言っているか。」

弟子たちは答えました。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
イエス・キリストとはどういうお方なのか、預言者のひとりだと言う人、孔子、釈迦、ソクラテスとならべて、世界の4大聖人のひとりと考える人、立派な教師だと考える人など、いろいろあるのですが、聖書は、あなたはイエス・キリストをどのように受け入れるのかと絶えず問いかけているのです。

「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
イエス様に聞かれて弟子のペテロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。(マタイ16:17)

「生ける神の子」とは、人は誰でも神の子であるから、イエスも神の子であるというのではありません。人間は神の被造物ですが、イエス様は、永遠に髪から生まれられた神様ご自身の本質を持っておられる神のひとり子です。
このひとり子である神が、私たちの救いのために至福の世界である天から、この地上に人間の体をもって下ってこられたのです。
イエス様は、神としての性質と人としての性質を持っておられます。このお方だけが、罪なき人として、私たちを罪と死の奴隷状態から解放することができる唯一のお方なのです。

	

キリストの生涯と十字架

今から約二千年前、神のひとり子イエス・キリストは、この地上にお生まれになりました。そして一つの罪もない生涯を送ったあと、私たちすべての罪を負い十字架の上で私たちの代わりに、恐ろしい刑罰を受けてくださいました。私たちは、この十字架があるからこそ、罪のゆるしを受けることができるのです。十字架こそ、私たち罪人のただ一つの希望なのです。
私たちの救いの中心となる大切な十字架について、学びましよう。
十字架の上で罪の値がぜんぷ払われた

「罪から来る報酬は死」であることは、すでに知りました。聖書にはまた「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」(ヘブル9:22)とあります。血を注ぐ、すなわち命を捨てること以外に、罪のゆるしを得る道はないのです。
神の律法は、私たちの罪に対して、死を要求します。ところが神のひとり子イエスは、十字架にかかり、私たちの罪の値を、ことごとく支払ってくださったのです。今、私たちのために、神の子イエスが、十字架につけられる光景を描いてみましょう。
人々はイエスを十字架につけるため、イエスにいばらの冠をかぶせ、当時の処刑場であるカルバリの山、別名「されこうべの丘」に連れて行きます。そこは極悪人が処刑されるところで、悪人の血がしみ込んでいる、このうえなく呪われた所です。
人々は大きな木の十字架を横にして、その上に、神の子イエスを寝かせました。そして、両手と両足にくぎを打ち始めました。金づちが振りおろされるたびに、太いくぎは、肉の中に食い込んでいきます。むごいと思いますか。

しかし、イエス様は、あなたの罪のために自ら十字架の刑をお受けになったのです。
目をそむけずに、よくごらんなさい。イエスのとうとい御手と御足にくぎを打ち込んでいるのは、なるほど金づちです。しかし実際は、あなたの罪が、くぎを打ち込んでいるのです。
「罪から来る報酬は死です」。そうです。死という罪の報酬を、イエスは今、あなたのために払っておられるのです。
全身の重みのため、両手、両足の傷は次第に裂けていきます。しかし実際には、あなたの罪が、耐えがたい重荷となって主イエスの上にのしかかり、イエスの傷口を広げていくのです。
それから六時間の長い間、とうとい神の御子は、あなたの罪の値がことごとく払われるため、想像もつかない苦しみをお受けになりました。肉体の苦しみだけではなく、イエス様はあなたの罪のため、父なる神に見離されるという、文字どおり地獄の苦しみを忍ばれたのです。

十字架の苦しみがことごとく終わると、神の子イエスは「すべてが終わった」と叫んで頭をたれ、息を引き取られました。イエス様はあなたの罪の値をことごとく払って、死なれたのです。
「すべてが終わった」ということばは、何を意味するのでしょうか。それは「ごらんなさい。あなた.の恐ろしい罪の値は、一文も残らず、完全に支払われました。だから、安心しなさい。罪のゆるしは、無条件であなたのものとなったのです」ということにほかなりません。

十字架は身代わりの死を意味する

十字架は神の子イエスが、罪人である私たちの「身代わり」として死なれた所です。このことについて、聖書は「キリストも、一度罪のために死なれました。正しい方が罪人々の身代わりとなったのです。それは……私たちを神のみもとに導くためでした」(第一ペテロ3:18)と言われています。

今あなたが、死刑囚として刑務所に入っているとしましよう。あなたは、毎日自分の犯した罪を悔いしかも一方、日一日と追ってくる死を思って、恐れに取りつかれています。そうしたある日、あなたの親友であるAさんがあなたの独房に入ってきました。
そして「さあ、急いで君の囚人服を脱いで、私の服と取っ替えなさい」と言うのです。
あなたがあっけにとられていると、Aさんは、「さあ、早くしなさい」とせかし、自らあなたの囚人服を着て、「私があなたの身代わりになります。あなたはすぐ、ここを出て、しあわせに暮らしなさい」と言いました。

映画ミッションインポシブルを見ると、主演のトムクルーズは変装の名人ですが、Aさんもあなたにそっくりの変装をして刑を受けるのです。
そしてある日、あなたは、あなたが処刑されたという話を聞きます。しかしあなたは、じつはAさんがあなたの身代わりとして死なれたことを知っています。そのため、あなたは生きている間じゅう、Aさんのご恩を忘れまいと決心するのです。
そんなうまい話があるかとおっしゃいますか。しかし、それ以上のことがあるのです。全世界を支配しておられるまことの神の子イエス・キリストは、罪を犯したあなたの身代わりとなられたのです。

神の子イエスは、ご自分は罪のない義なるかたであるのに、あなたの代わりに、恐ろしい十字架の刑を受けてくださったのです。
御子イエス・キリストは、あなたが受けるべき罪の刑罰を受けて、あなたの身代わりに死んでくださいました。
キリストの十字架の血潮によって、あなたはもはや、罪の刑罰を受ける必要はありません。あなたは二度と死刑の宣告を言い渡される心配がないのです。

十字架は神の愛が現された所

十字架には、罪のゆるし以上のものがあります。それは、わたしたち人間に対する、想像のつかないほど大きな神の愛です。
ただ神は愛であると言っても、その証拠がなければ、その愛を知ることはできません。そこでまことの神は、ご自分がどんなに私たちを愛しているかを知らせようと、十字架の上で死なれた神の子イエス・キリストを、私たちの前に示しておられるのです。

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、……神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:8)。
すでに私たちは、ひとり子を与えるほど神が私たちを愛しておられることを知りました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世(私たち)を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)。

愛は、与える度合いによって、その大きさが測られるものです。あなたがだれかを愛しているなら、あなたはその人のため、喜んでものを与えるでしょう。ま
た進んで、時間や労力を提供するでしょう。しかし、ほかの人のために自分の命を喜んで与えるほどの、大きな愛を持っている人がいるでしようか。
聖書には「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハネ15:13)と命を与えることが最大の愛であると言っています。
ところで神の子イエスは、友のためではなく、罪を犯して神に敵対している私たち、(神様のおかげで生かされているにもかかわらず)神様なんか相手にしないで自分勝手に生きている私たちのため命を捨てて、私たちへの愛を示してくださったのです。
ああ、ここにこそほんとうの愛があります。ここにこそ、罪人である私たちを歓喜させる、神の愛があります。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです」(第一ヨハネ3:16)。

神の子イエスの私たちに対する愛は、きわめて大きなものでした。
十字架の苦しみを前にして、イエスは、「わたしには受けるバプテスマ(十字架のこと)があります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう」(ルカ2:50)と言われました。

いよいよ十字架にかけられる時が来ました。イエスはいやいやながらではなく、あなたを愛するため、進んで十字架にかけられたのです。
キリストの十字架によって赦されない罪はなく、キリストの十字架によっていやされない病はありません。

キリストの復活

ところで、イエス・キリストは十字架で死んで終わりになってしまったのでしょうか。死んで終わりでしたら神の子ではなく、罪人です。
しかし、イエス様は事実、三日目に墓からよみがえられました。この復活により、イエス・キリストは真の神の子であることが示されるとともに、十字架上でささげられたキリストのいけにえが受け入れられ、私たちの罪のあがないが確実であると確証されたのです。

「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(ローマ4:25)
そして、復活によって人間の最後の敵である死が克服されました。イエス様がよみがえられたことによって、イエス・キリストを私の主、私の救い主として受け入れるものはすべて、いのちの書にその名が書き記され、永遠の命が与えられ、天に国籍をもつものとされているのです。

イエス・キリストは、主を信じるものがやがて復活する初穂としてよみがえられました。そして、復活の主は、今、天に上られ、、神の右に座して、私たちのためにとりなしをし、私たちを守り導いてくださっているのです。

第7章 救いへの道

第5章で私たちは、神の子イエス・キリストが十字架の上でなされた、救いのわざについて学びました。
御子イエスは、私たちの罪がゆるされるために、十字架の上で私たちの罪の値を払い死んでくださったのです。そして今、よみがえって、私たちの救い主となっておられるのです。

しかし、ここで忘れてはならない非常に大切なことがあります。それは、神の子イエスが十字架の上で死なれたことは、すべての人が無条件で救われることを意味するのではないというのです。なるほどすべての人が救われる可能性はできました。
しかし、可能性があることと、実際に罪から救われることの間には、天地の開きがあるのです。

ジェンナーという医師が、種痘を考え出すまで、「ほうそう」は恐ろしい病気でした。しかし、種痘ができたおかげで、たくさんの人の命が守られました。しかし、種痘があるにもかかわらず、依然として死ぬ人があったのです。なぜでしょうか。それはその人たちが、腕に種痘を植えてもらわなかったからです。
同じことが、イエス様の十字架についても言えます。神の子イエスは、私たちを永遠の死から救うため、私たちの代わりに十字架にかかり、罪の値をことごとく払ってくださいました。
しかし、それにもかかわらず、ある人は救われ、ある人は自分の罪のために滅びるのです。
イエス・キリストの十字架のみわざを信じて自分のものにするか、あるいは信じないかが、このような永遠の開きを生みだすのです。
これによってわかるように、私たちを実際に救うものは信仰です。悔い改めて、罪を言い表しそれを離れるだけでは不十分です。
そのうえにもう一つのこと、すなわち信仰がぜひとも必要なのです。十字架について知っているだけでは救われません。

イエス・キリストを私の救い主として受け入れ、十字架の上でなされた救いのみわざを自分のものとする信仰によって救われるのです。
これについて、聖書には「御子(イエス)を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている」(ヨハネ3:18)といわれております。

ここではまず、このキリストの完成してくださった救いを、私たちに取り次ぎ、私たちを実際にキリストのものにしてくださるのは、これもまた神様のわざ、聖霊の働きによるのだということを確認しておきましょう。

聖霊の働き

聖霊というと、なんだかぼんやりしたものでよく分からないという方もあろうかと思います。聖書では、聖霊についてぼんやりしたものや神の影響力というようなものではなく、神そのものであると教えています。
聖霊は、三位一体の第三人格であり、父なる神、子なる神と同等、同質の神です。
三位一体の神が私たちに働かれる関係は、あえて分けて考えるなら、父なる神が救いのみわざを計画し、子が実行し、聖霊が適用、実施してくださると理解してよいでしょう。私たちの救いのために、三位一体の神が、今日も働いてくださっているわけです。
今、聖霊はキリストの救いの恵を私たちに取り次ぎ、私たちに信仰を与え、神様との関係を回復し、人間らしい本来のあり方へと私たちを導いてくださるのです。

神の召し

私たちが、主なる神に出会い、救われるみちすじをイエスキリストが切り開いてくださいましたが、その救いを私のものにするために、神様は聖霊を与えてくださいました。
あなたは自分の決断で聖書を学び、、このようなキリスト教入門講座を学んでくださっておりますが、これはあなたにそのような願いを起こさせてくださる神様の働きがあったのだということをも覚えてください。
「あなた方に願いを起こさせ、それを実現に至らせてくださるのは神です。」と言われているとおりです。私たちが神を信じて救われるのは、実は私たちのうちに働いてくださる聖霊の働きがあったのです。

それは、私たちを内側から新しくし、福音を私への福音として聞く心を与えてくださるのです。これを新生、あるいは再生とよびます。これが信仰への神の決定的な召しなのです。
聖霊によって導かれ、新生した人は、福音を聞いて悔い改めと信仰に導かれていきます。祈りをもって、聖霊のお働きに私たち自身をゆだねていきましょう。

生命にいたる悔い改め

イエスキリストが救い主であり、私たちのために十字架であがないのしを遂げてくださったことは分かりましたが、次の問題は、どうしたら私が救いを得ることが出来るのかということです。キリストのあがないを私のものにする実際的な方法です。
この点についてイエス様は、「悔い改めて、福音を信ぜよ。」(マルコ1:15)と言われました。また、パウロは、自分の説教を要約して、「神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきた。」(使徒20:21)と言っております。

私たちが実際に救いを手に入れるためには「悔い改めと信仰」が必要なのです。この二つは別々のものではなく、お互いに関係しあい、悔い改めが深ければ深いほど信仰も増していくといってよいでしょう。

悔い改めは、反省や後悔とは違います。また、いわゆるザンゲでもありません。ギリシャ語で悔い改めとは、「心を変える」ということです。つまり、今まで神のことなど考えず、自分の願いや欲望のままに生きてきた人が、神に立ち返り、神と神として生きるようになるということです。

そのためにはまず、第1に自分の罪を正直に認めることです。あの人はどうだ、この人はどうだという前に、自分は神様の前にどうであるか、正直に自分自身を見つめるなら、自分には罪がないといえる人は一人もいないでしょう。
そして、罪を赦してくださる神に自分をゆだねることです。自分の主導権を自分が握るのではなく、神に明渡していくといってもよいでしょう。このようにして、あるがままの自分を覚えつつ、神を神としていくように、神様の恵みのうちに生きるように方向転換をしていくことが悔い改めです。

	

キリストへの信仰

では、信仰とはどういうことでしょうか。

それは第1に、知るということです。
信仰の対象である神をきちんと知ることです。「イワシの頭も信心から」という言葉がありますが、このような信仰の対象をきちんとわきまえないあり方では、信仰とはいえません。

何を信じるのか、私たちが信じるに値する神様とはどういうお方であるのかということを、聖書によって、また聖霊によって正しく理解することが大切です。
「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネの福音書17:3)

第2は、受け入れることです。
信仰は単なる理解以上のものです。聖書を学んで得た知識によって、自分の罪を認め、この私のためにイエス様が十字架で死んでくださったことを認め、感謝を持って、わが主、わが救い主としてイエスキリストを受け入れることです。
歴史の年表を暗記するように、イエスキリストの生涯を知っていても、それだけでは何の役にも立ちません。このイエスキリストを私の救い主、キリストとして受け入れる信仰の決断が必要です。

第3は、信頼してお任せすることです。
イエス様を受け入れることまではしていても、信頼してお任せすることがないために信仰の喜びや確信をもてない人がいます。これは残念なことです。
本当に信頼できるもの、信頼すべきものを求めてください。
生まれて間もない赤ちゃんや幼児は、お母さんに信頼しています。誰が教えたわけでもないのに、お母さんが一番、お母さんナシでは自分が生きていくことが出来ないことをよく知っています。
イエス様は、人々が幼子たちを自分のところに連れてきた時、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われました。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。
神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(ルカの福音書18:16〜17)

信仰とは神に信頼することです。私たちの造り主であり、私たちのいのちを今日も育んでくださり、イエスキリストにおいて深い愛を示してくださっている私たちのまことの父を信頼することです。
信仰を持つようになるということは、信頼すべきものを回復させられていくことです。
幼子であったときは、両親を信頼していました。しかしやがて大きくなってくると、その両親にも限界があったり、欠けたところや弱さも罪もあることが分かるようになります。
あの人この人から傷つけられたり、裏切られるようなこともあるかもしれません。この世には完全な人などいないことにも気が付くようになります。
それである人は、「信じられるのは自分だけだ」という思いの中で、自己啓発に取り組もうとします。
心理学の成果から見れば、確かに肯定的な考え方は大切なのですが、それでも「自分がそれほど信頼できるのか」ということについては、正直に自分を振り返ってみるならば、自分のうちにもさまざまな欠けがあり、弱さも罪もあることを認めざるを得ないのです。

先に、「私たちは神に造られたのであるから、神のもとに帰るまでは、平安がない」というアウグスティヌスの言葉をご紹介いたしましたが、これは私たちはみな真実に信頼できるお方にめぐり合うまでは平安がないということでもあります。
聖書によってご自身を自己紹介しておられる私たちの父なる神を知って、この方に信頼して生きることがすなわち信仰なのです。

信仰による救い

聖書の中には、わたしたちが信仰によってのみ救われるということばがくり返しくり返し出てきます。今、その幾つかをあげてみましょう。

「この方(イエス)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」(ヨハネ1:12)。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世(私たち)を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」、
「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」、「信じる者は永遠のいのちを持ちます」、(ヨハネ3:16、36、6:47)。
「御子(イエス)を信じる者はさばかれない」(ヨハネ3:18)。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたし(イエス)のことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです」(ヨハネ5:24)。
「この方(イエス)を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる」(使徒10:43)。
「主イエスを信じなさい。そうすれば……救われます」(使徒16:31)。

信仰と希望

信仰を持って生きるということは、希望をもって生きることと結びついています。「希望ってなんですか?」といわれたら、「希望は信仰から生まれます。信仰を持つと希望が湧いてくるんですよ。」と答えます。
クリスチャンのAさんは、「あなたはガンです。それもかなりすすんでいるようなのであと3ヶ月もつかどうか」といわれました。それから4ヶ月ほどしてAさんはなくなられましたが、病院に入院している人も、お医者さんも看護婦さんも、Aさんには励まされた、といいました。

Aさんは、お見舞いに来る人にも、病院の関係者の方にも、だれにも笑顔で相手への思いやりを持って生きられました。それだけではありません。Aさんは、毎日聖書を読むこととお祈りをすることが日課となっていました。
そして新聞の生地やテレビのニュースを見て、例えば17歳の少年がバスジャックをしたという事件があると、その少年や家族のために、被害を受けた方々のために祈られました。
キリスト教海外医療協力会で、アジア、アフリカなどに行って働いているお医者さんや看護婦さんのために、今日もお金を稼ぐために働いているストリートチルドレンのために、などいろんな方々を覚えて支援をしたり祈ったりなさいました。
Aさんは、聖書の詩篇23編を愛読しておられましたが、それは次のようなみ言葉です。

「賛歌。ダビデの詩。 
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。 
主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。 
あなたがわたしと共にいてくださる。 
あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。
わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。 
わたしの頭に香油を注ぎ わたしの杯を溢れさせてくださる。
命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。 
主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。」

イエスキリストが私の牧者であるから、私を導いてくださるから、私にはなんの乏しいこともない。死の影の谷を行くときにも、私は災いを恐れない。あなたがわたしとともにいてくださる。」
クリスチャンになれば、何の困難も苦しいこともないとくことではありません。困難なことや試練はあるのですが、そのようなときにも変わることのない希望をもって生きることが出来るのです。この希望は失望に終わることはありません。

第8章 救いの恵みと祝福

最初に、ヘレン・ケラーとマルチン・ルーサー・キング牧師と同志社大学創立者新島襄の言葉を紹介いたします。

ヘレン・ケラー女史

運命に打ち勝つためには、仕事と友人の慰めと、神は必ずよきように導いてくださるという括弧たる信仰とが必要です。
この信仰がなかったら、私の生活は無意味なものとなり、私は「闇の中の黒い柱に過ぎないもの」となるでしょう。人々は私を哀れみますが、それは私の生活の中に私が喜んですんでいる黄金の部屋があることを知らないからです。
私の行く手は暗黒のように見えますが、実はその反対に、心の中に魔法の光を宿し、強力な探照燈である信仰が前途をてらしてくれるのです。

マルチン・ルーサー・キング牧師

神は、われわれが人生の試練や重荷のただ中でまっすぐ立つための、内面的な平衡を与える能力を持っておられる。イエスが「わたしは平安をあなた方に残していく」(ヨハネ14章)といわれた通り、不滅の贈物を賜うのである。
これこそ人知でははかり知ることのできない平安なのだ。われわれが再発見しなければならないのは、唯一有能な神にたいする信仰である。この信仰によって、われわれは、寒寒と荒れ果てた谷間を、日のあたる喜びの小道に変え、悲観論という暗い洞窟に新しい光をもたらすことができる。

新島 襄

「人間の偉大さ。人間の偉大さは彼の学問にあるのではなく、自分自身にとらわれないことにあるのである。学のある人は、よりいっそう利己的になりやすい。十字架上のキリストを仰ぎ見よ。
キリストこそがわれらの模範である。ああ、キリストは何と気高く、偉大で、やさしく見えることか。自己を忘れ、真と善の大目的のために、自分自身を進んでささげようではないか。心から悔い改めて謙虚になろう。これを私は人間の偉大さと呼ぶのである。」
「友よ、どうかキリストがどういう方かをよく考えてください。キリストこそ、暗黒に閉ざされた邪悪な世界を照らし、救いの道へとぼくらを導く光であります。ローソクの光は消えますが、この光は永遠に消えません。」

それぞれの方々が、イエス・キリストを信じて生きる救いの恵みは、いつまでも変わることのない光であり、私たちに終わる事のない光と希望を与えるものであると言っておられます。

救いの恵みとは

聖書がいっている救いとは、人間にとってもっとも根源的、根本的な救いであり、それはどうしてもなくてはならないものです。
あなたは「救い」ということをどのようにお考えでしょうか。
「病気が治ること」「目指す大学に合格すること」「気持ちが休まること」「家庭が円満になること」・・・このようなこともある意味では救いであると思われますが、神のみ子イエス・キリストは、私たちのために十字架にかかってくださり、罪を赦し、いのちを与えるためにこの世にきてくださいました。
聖書は、神様の自己紹介であるといいましたが、この聖書が私たちに教えている救いは、一言でいえば、私たちが主なるまことの神様と仲直りし、神とともに生きる人間本来のいのちある関係が回復させられていくことです。
今回は、この救いがどのようなものであるか。信仰によってどのような恵みを与えられるのかを考えてみましょう。

信仰義認とは

「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」(ローマ3:21~26)

聖書は、私たちが罪と死から救われるのは、「行いによってではなく」「信仰によって」救われるのであると教えています。ここにも、「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」といわれています。
私たちは、イエス・キリストをわが救い主と信じて受け入れるとき、神様のあらゆる救いの恵みに与るようになるのです。
信仰によって、神との関係がまったく変わります。今まで罪びとであり、神の律法によって有罪とされていた私たちが、無罪と宣告されるだけでなく、義人(神と正常な関係にあるもの)とされるのです。これが義認です。

義認には二つの面があります。

一つは、神の目から見て、罪と死の奴隷、滅びに向かう者、有罪とされていた身分を帳消しにしていただく「罪の赦し」です。罪のないものはひとりもいません。すべてのものが罪のために神のさばきを受けて滅びに向かうべきものであり、罪の奴隷の状態でありましたが、私たちが受けるはずのさばきを、神のみ子イエス・キリストが身代わりに受けてくださったのです。
このイエス・キリストによって、罪の負債は既に支払済みなのです。「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはない」のです。(ローマ8:1)

もう一つはさらに積極的な面です。それは義人と認められることです。
もし、罪の赦しだけであれば、マイナスがゼロになったということで、ゼロから再びやり直さなければなりません。
神が私たちに与えてくださる救いの恵みは、罪の赦しだけでなく、義人として私たちを招き入れてくださいます。それは、イエス・キリストがこの世の生涯においてなされた生涯(神のみ心に完全に従い、まさに義人として歩まれました)を私たちのもの、私たちの服従とみなしてくださるのです。
こうして、神のみ心に服従したものに与えられる「永遠の命」が、イエス・キリストを信じるものに与えられるのです。

	

子とされる

キリストを信じる信仰によって与えられるもう一つの恵みは、「神の子としていただく」(養子縁組)ということです。
本来「神の子」と呼ばれるべきお方は、永遠の神のみ子イエス・キリスト以外にはありません。私たちは、神によって造られた被造物でしかありません。
けれども、イエス・キリストと一つになった結果、私たちは、キリストにあって新しい身分が与えられたのです。

すなわち、キリストとともに、神の国の共同の相続人とされたのです。
「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。」(1ヨハネ3:1)

「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(ローマ8:16〜17)

先に、私たち人間は神に似せて、神のかたちに造られたことを述べました。神に似せて造られたからこそ、喜んだり悲しんだり、笑ったり泣いたり、美しいものを見て感動したり、自分の意志で決断することもできるのです。
なぜ神さまが、そのように神のかたちに私たちをお造りになったかと言えば、神さまは私たちとともに生きることを望んでおられたのです。神様とともに愛し合う生活を願って私たちを創造されました。

それは、何かお客様のようでよそよそしい態度の付き合いではなく、心からの交わりを願っておられたのです。聖書のローマの信徒への手紙8章14、15節には、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。」と言われています。
「アッバ、父よ」というのは、子供が父親に向かって「お父ちゃん」と呼ぶような父と子の関係を表しています。
親しく呼びかけあうような意味での「子」として、神様は私たちを迎えてくださるということです。

子としての訓練

イエス様は、石にあるように「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。 彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」(イザヤ書53:3,4)という歩みをなさいました。

また、ヘブル書に言われているように、「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブル4:15)、
また「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」
イエス様自身、苦しみや痛みを経験なさったからこそ、苦しみにある人を思いやることが出来るのです。

もしあなたが、自分の思い通りの生活がいつも出来たとしたら、私たちは謙遜になれるでしょうか。弱さや痛みを覚える人の心の叫びを聞き届けることが出来るでしょうか。
自分の思い通りに大学に行き、思い通りに就職し、思い通りに出世コースを歩いて健康で裕福な生活をしている。そのように挫折をすることがなかったら、私たちは人々の心の痛みを知ることもなく、人を分け隔て、愛することも分からないままに、傲慢になっていくのではないかと思います。
神は父であり、私たちが子である以上、父なる神は、子に対する自愛に満ちた配慮や保護を与えてくださいます。それとともに、父は私たちを子として訓練なさることも忘れてはなりません。

「また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」(ヘブル12:5〜6)

聖書を見ると、信仰のヒーローたちは、みんな忍耐や試練の時期があったことが分かります。どうして私はこんなところでこんなことをしているんだろう、というようなときもありましたし、試練に遭うこともありました。

ヨセフも13年間ありました。奴隷の家で、あるいは監獄でそれを経験したわけです。ダビデは15歳のときに、あなたはいずれ王様になるであろうと神様に言われたのですが、実際におうになったのは40歳のときですから25年かかっているわけです。
モーセはエジプトの王家の娘の子供として育てられましたが、その後エジプト人からもユダヤ人からも非難されるようになって、荒野で40年間羊を飼うようになりました。私はここで何をしているんだろうかと思うこともあったと思います。
神さまは私たちに忍耐の時期を与え、私たちを深め、私たちの信仰を強め、私たちの忍耐力、私たちの品性を育てようとなさるのです。そしてより多くの祝福に導いてくださるというのが聖書のパターンです。

「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。
この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。
あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。
あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。
あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。それは、平野にも山にも川が流れ、泉が湧き、地下水が溢れる土地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地である。」(申命記8:3〜8)

聖とされる

信仰によって与えられる恵は、さらに「聖くされる」ことです。
信じてクリスチャンになったからといって、完全な聖人になったわけではありません。クリスチャンになれば、何も悪いことは考えないし、することはないなどということはありません。
クリスチャンになってもこの世の生涯の間は依然として罪も弱さも自分のうちにあることを覚えます。

パウロは自分自身を振り返ってこのように告白しています。
「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。
「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。

わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。
従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」(ローマ7:19〜8:2)

これは、クリスチャンになった後の、正直なパウロの告白です。彼は自分のうちに依然として罪があることを認めています。これはパウロだけではなく、クリスチャンであれば誰もが感じることでしょう。
しかし、このように罪のうちにある自分自身をきちんと見つめ、自分の罪を自覚し、へりくだり、助けを求めることこそ、自分が神によって清められている一つの姿ということができます。

きよい神に出会うことによって、私たちは自分の暗い部分が分かるし、それをありのままに、ごまかさないで見つめることが出来るようになるのです。
パウロは、イエスキリストの福音を聞き、イエス様が私のために十字架で死んで復活してくださったことを信じたとき、恐れることなく、自分のありのままの姿を見つめることが出来るようになったのです。

また、聖とされるもう一つの面は、それまでは自分を中心に(自分が王様であり主人)考えてきたものが、神さまを中心に(神さまが王様であり主人)、神を神として生きていこうという思いを与えられていくようになるということです。自分の願いではなく、神さまは何を願っているかを考えるようになるということです。
イエス様は、生涯父なる神さまのみ心を求めて生きられましたが、イエスキリストを信じるものはこのイエスキリストに似たものとされていくのです。

永遠のいのち

聖書がかかれた目的は、「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(ヨハネの福音書20:31)ということでした。

神によってすくわれたものに対する最も大きな恵は、まことのいのちを受けることにあります。このいのちは途中で途絶えてしまうものではなく、何かの事情で変更されてしまうようなものではありません。

本来、いのちとはいつまでも続く喜びであり祝福なのです。
イエス様は私たちに、「神の国とその義とをまず第1にもとめなさい。」といわれました。これは言い換えれば、あなた自身の命をまず第1にもとめなさいということであり、神とキリストを知ること(ヨハネ17:3「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」)、キリストにつながりつづけること(ヨハネ15:5「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。

人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」を意味しています。
そのようにして私たちは、この世の人生の荒野を、神とともに、神が備えていてくださる神の国というゴールを目指し、信仰と希望をもってこの世を生きるのです。
「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。
このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。

ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブル11:13〜16)

第9章 聖霊と教会

私たちと聖霊
  1)神とのかかわりをもたらすもの

 罪は〔いのち〕の源である神との断絶をもたらすものであり、神との関係がそこなわれることは[罪と死]に向かうものだということを見てきました。しかし、罪ある私たちが神様との関係を回復するために、イエス・キリストが救いのみわざを果たして下さったということも見てきたのです。
 ところが、どんなに神様がすばらしい働きをもって、愛をもって私たちを救おうとされても、私たちがそれを理解できないままであれば何にもなりません。
神様のお働きがどんなに素晴らしいものであっても、それが私のものとならなければ意味がないのです。「豚に真珠」のようなことになってしまいます。

 これを分からせてくださり、この恵みのうちに、神とともに生きるようにしてくださる。私たち自身の〔救い〕、自分自身の〔福音〕としてくださるのが聖霊なのです。

 イエス・キリストのことは、たいへんはっきりしていてよく分かるのですが、〔聖霊〕というのはよく分からないと言われることがあります。しかし、実はイエス・キリストのことが分かるようになったことが、聖霊の働きの中にすでに生かされているということなのです。イエス・キリストのことがよく分かるということは、決してあたりまえのことではありません。

 もともとイエス・キリストと私たちの関には、いろんな〔へだたり〕があるのです。例えば、そこには二千年という時聞のへだたりがありますし、あのパレjスチナの世界と私たちのいる日本という場所との間の、空間的なへだたりもあります。その上、あのナザレのイエスが、実は生ける神の子キリストであるという。信仰の決断をもってしか越えることのできないへだたりもあるのです。
 このようないろいろなへだたりをこえて、イエス・キリストと私(たち)を結びつける神の〔かかわり〕の働きが聖雷の働きなのです。ですから、イエス・キリストのことがよく分かる、という場合には、実は、聖霊の働きが私たちに及んでいるということなのです。                       
 このように、聖霊は〔過去〕のイエス・キリストと、〔現在〕の私たちとの間にあるさまざまな〔へだたり〕をのりこえて、キリストをわたしと結びつけてくれる神の〔かかわり〕の働きであり、「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」ということができない」(コリント人への第二の手紙12章3節)のです。
そしてまた、聖書には、イエス・キリストはふたたび来られる主であるということも伝えられています・新約聖書の最後の言葉はこれです。「これらのことをあかしする方が仰せになる。『しかり、わたしはすぐに来る』。アーメン。主イエスよ来たりませ」(ヨハネの黙示録22章20節)。

 ですから、パウロは次のように語っているのです。
「この幕屋に住む私たちは、重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。私たちをこのようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として[霊]を与えてくださったのです。」(コリント人への第二の手紙5章4~6節)。
 「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、私たちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、私たちはあがなわれて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです」(エペソ1章13~14節)。
 このように、将来のキリストを現在の私(たち)と結びつけ、私たちに希望を与え、すでに始められている救いがやがて完成されることに対して、〔保証〕を与えるものが聖霊です。 
                         
 聖霊とはこのように、過去のキリストおよび将来のキリストを、現在のわたししとを結びつける〔神のかかわりの働き〕に他ならないのです。聖霊によって私たちは、過去と現在と未来の神の働きを知るとともに、神によって新しくされ、先に述べたような祝福に与らせてくださり、神の民として生きるように導いてくださるのです。   
                            
   2)聖書と聖霊                           

 どんなに神様が、教いのために働いてくださっていても、神を離れてしまって、罪のうちにある人間は、そのままでは神の働きを認めることができません。神の真実を分かるようにして下さるのは聖霊の働きによってです。そして、キリストは聖書によって表されていますから、キリストと私たちとの結びつきは、聖書と私たちとの結びつきであるといってもよいでしょう。

 宗教改革者のジャン・カルヴァンは、「神は聖書をとおして私たちに語りたもう」といいました。神の啓示が完結した今、神は何よりも〔聖書〕をとおして、具体的に、そして私たち自身に分かる言葉で、歴史の事実を通して私たちに語ってくださいます。
 聖書は先に述べたように、今から何千年も前の出来事を記しています。これが記されたところの舞台も日本ではなく、文化も習慣も違う外国で起こった事柄です。しかし、この内容と意味を理解していくと、ここにはまさにわたしへの神の語りかけがあることに気付かされるのです。「あっ、ここに書いてあることは私のことだj「ここに書いてあるのは今の日本の事柄そのままだ」ということに気付かされます。

 なぜなら、ここには時代が変わり、民族が異なり、境遇が異なったとしても変わらない人間の真実の姿と、そのような人間を救おうとなさる、今もなされている神のみわざを語っているからです。本質的な「真理」というものは、時代が変わっても変わらないものです。どの時代にも、どの人にもあてはまる「真理」のみことばとして聖書は、今も私たちに語られているのです。
 聖霊は、この聖書を通して私たちに語りかけ、神と私たちとの間に架け楊を渡してくださるのです。私たちは聖書を読むということは、言うまでもありませんが、ただ頭の中で神様についての知識を得るということだけではありません。
神との出会いによって、私たちが新しく変えられていくのです。神を知るということは、ただ知るということだけにはとどまりません。神を知るということはすなわち私たち自身を〔神のご覧になる目〕によって真実に知るようになる。自分を知るようになり、自分にとっての救いと望みを知るようになり、私たち自身が変えられていくことと一つなのです。

 聖霊が聖書をとおして語りかけてくださることは、単なる知識ではなく、私たちが人間として生きていく生き方や救いということと深く関わっているのです。
 聖霊は、私たちが見えていなかったものを見えるようにさせ、自分が神のように振る舞っていた罪を自覚させ、悔い改める心を与え、主イエス・キリストにおいてあらわされているまことの神に信頼する信仰を与え、私たちを神の救いのいのちに生きることができるように導いて下さるのです。
 先に、[祈り]とは神との対語であると述べました。聖書を読むときにも、神ではこの〔対話〕を求めておられます。祈りの心で聖書のみことばを聞き、自分にあてはめて受けとめ、なぜ、イエス様はここでこんなことをいわれたのだろう」とか「このみことばは、わたしに何を言おうとしているのか」というように、いろいろな〔問い〕をもって読むことも大切なことでしょう。表面的なできごとだけでなく、そこで語られている普遍的真理が必ずあるのです。それを〔なぜだろう〕という思いで追求していくことも大切です。受け身ではなく積極的に求めることです。                                

 そして、実は聖書を読んで理解していく中で、必ず教えられることは、自分が問うだけではないということです。むしろ、神が聖書を通して私に問うておられるということに気がつくでしょう。この人生において私たちがいろいろと疑問に思っていることへの回答と希望が聖書には告げられています。それだけでなく神は私たちに聖書を通して根本的な〔問い〕を投げかけておられる。それに対して〔答え〕る決断をすることを期待しておられるということに気がつく時が来るに違いありません。そして、神様の〔問い〕に答えていく生活の中で、あるいは答えようとする歩みの中で「だから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの「外なる人」は衰えていくとしても、私たちの「内なる人」は日々新たにされていきます」(コリント人への第二の手紙4章16節)ということ
を経験するようになると思います。 
                    
3)教会の誕生                        

 聖霊によって、聖書と祈りを通して神を知り、キリストを知るようになると、
 「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。」
古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(コリント人への第二の手紙5章17節)という新しい世界が、私たちの前には開かれるのです。この意味で聖霊はまた〔新しい創造の霊〕なのです。ヨハネの福音書によると、イエス様はこの地上の生涯を終えるにあたって、〔助け主〕としての聖霊をおくることを約束しておられます(14章15~81節・16章26節・16章1~15節など参照)。    
 そして、この聖霊は、「わたしが去って行かなければ、助け主はあなたがたのところに来な。いからである」(ヨハネ16章7節)と言われています。    
 十字架に死んで’よみがえられたとしても、イエス・キリストが、人間の肉体のままであれば、イエス様がおられるところは限られた場所に限定されてしまいます。しかし、天に昇り、聖霊においてともにおられるならば、よみがえりの主は、この時代の、日本にいる私たちとともにおられることができるのです。
 イエス様が〔助け主〕として聖霊を送ってくださるということは、神がすすめてこられた救いのわざが、イエス・キリストの地上の生涯を終えることによって決して中断されることはないということです。聖霊によって、神の救いのみわざはさらに完成に向かって続けられていくのです。
 
 新約の教会が、いつ誕生したのかといえば、使徒言行録の2章に記されている聖霊降臨(ペンテコステ)の出来事を通して聖霊が与えられ、キリストのからだとしての教会が誕生したといってよいでしょうが、その前のキリストのよみがえり、キリストが弟子たちにいわれる、当時の指導者たちの手に渡され、十字架につけられ、葬られたころ、弟子たちは、主イエスを捨てて逃げてしまいました。
 
 「おまえはあのイエスという者の弟子ではないのか」と聞かれた時にも、「わたしは弟子ではない。イエスなどという者は知らない」と答えていたのです。自分たちの主が当時の権力者たちに捕らえられてしまって、しかも極悪犯罪人として十字架に付けられて死ぬという事態です。それにこれまで主イエスによっていろいろなかたちでいやされたり、神の言葉を聞き、慕ってきたはずの民衆たちも 「イエスを十字架につけよ」と叫んでいる状況です。もうだめだという思いもあったでしょう。主人が殺されたように、自分たちも殺されるかも知れないのです。彼らはそんな中で、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(ヨハネの福音書20章19節)といわれています。 

この状況の中で、弟子たちが恐れる気持ちは私たちにもよくわかります。しかし、この恐れは、弟子たちが、イエス様とそのお言葉をも君じることができなかったということでもあります。イエス様は、そのご生涯の中で、いろいろな形で、ご自分が約束の救い主であることを示されました。そして十字架に付けられること、死んで後よみがえることをもあらかじめ予告しておられたのです。

 例えば、ルカの福音書9章22節には、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者だちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」といわれています。旧約聖書から新約聖書に至るまで、実に数多くの預言がなされましたが、そのすべてが言葉のとおり実現されました。
 そのようにして、聖書が語る神は、生きておられる神、この歴史を支配しておられる神、約束に忠実な神であることを示しておられます。どのような妨害があり、どのような暗い罪があろうとも、おそるべき死に直面する時にも、それを克服し、それに勝利し、みことばを実現して下さるお方なのです。

 全くの絶望を感じていた弟子たちの中に、よみがえりのイエキリストが立たれました。「弟子たちは、ユダヤ人を恐れ自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが真ん中に立ち、「あなたがたに平安があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(21節)
 このようにして、キリスト教会は、恐れ、弱さを覚え、無力感を感じているひとにぎりの弟子たちのうちによみがえりのキリストが立たれたところから始まるのです。イエス・キジストのよみがえったのが日曜日でしたから、日曜日を主の日と呼んで、この日ごとに礼拝をささげるようになりました。この復活のキリストは、やがて大勢の人が見ている前で天に昇って行かれましたが、〔助け主〕である聖霊においてキリストは私たち(神の民)とともにおられるのです。

 この約束の聖霊が〔聖霊降臨〕(ペンテコステ)の時に与えられ、復活のキリストとともに、〔キリストのからだ〕としての教会がこの地上に生まれました(使徒言行録2章以下参照)。
  教会はキリストのからだ(エペソ人への手紙1章22節)と呼ばれてきました。〔キリストのからだ〕は、キリストの霊である聖霊のやどる器です。この教会をとおして、神はそのみこころを伝え、そのみわざを継続して果たされるのです。
 ですから、教会は、絶えず神のみこころを求め、自分の願いや自分の知恵によってではなく、神を神として、神の栄光のために歩むべきです。歴史を振り返ると、教会は必ずしも神を神として歩んできたとはいえません。自らが神であるかのようにして、自らの願望を満たすために、時には争ったり憎み合ったり、尊い血を流し合ったり、差別や抑圧の首謀者になることさえあったのです。こうしたことがどんなに神の御心を悲しませたことかと思います。
 教会は真実の意味で神が神としてあがめられるようなあり方が求められています。ですから、教会でみことばが正しく語られるということが非常に重要なのです。

 教会についてもう一つ言われることは、使徒信条のなかにもありますが、〔聖徒の交わり〕ということです。これは言ってみれば、教会は聖霊によって与えられるキリスト者の交わりであるといってもよいでしょう。あるいは聖霊によってキリストと結び付けられている者の交わりであるといってもよいでしょう。
  このキリストは、時間や場所には限定されません、聖霊はそのようなものをこえて働いてくださいますから、聖徒の交わりは、時代や場所をこえた交わりなのです。このことは、私たちに大きな慰めと励ましを与えてくれることであるに違いありません。キリストをかしらとして歩もうとする多くの信仰の友を、神は世界中に起こしていてくださいます。
 私たちはうっかりすると、教会というものを私たちの目の前に見える形でだけ考えてしまいがちです。確かに見える交わりは大切ですが、聖徒の交わりということは。各個教会の見える交わりをこえて、時間と場所をこえた交わりの中に、
私たちが置かれていることを示しているのです。
 困難な迫害の中にいた信徒に対して、「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに固まれている以上、すべての重荷やからみつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走りぬこうではありませんか」(ヘプル人への手紙12章1節)といわれています。
 このように私たちが、すでに召された代々の聖徒、全世界の聖徒に、見守られているという励ましに満ちた事実が〔聖徒〕の交わりなのです。

永遠のいのち(まことのいのち)

 聖書の中には、よく「永遠のいのち」という言葉が出てまいります。まことのいのちとは永遠のいのちであるということもできます。
 永遠のいのちなどというと、例えば、不老長寿の薬を求めた人の話とか、オカルトものの物語に出てくる架空の人物などを思い浮かべる方もあるのではないでしょうか。しかし、聖書は決して架空の物語をここに述べているのではないのです。
 歴史の中の出来事として、事実として私たちに神による救いを告げているのです。「死」はもう、どうしようもないものだ。われわれの手にはおえないと私たちは考えています。それはそのとおりです。死が手に負えないということは、自分の罪は手に負えないということでもあるのです。自分の罪は自分ではどうしようもないということです。しかし、私たちがどんな人生を送ったとしても、結局は(永遠め)死に至る、結局は(永遠の)滅びに至る、(永遠の)刑罰に至るとするならば、この人生は空しいことになってしまいます。

 もしも、死が私たちのすべてを飲み込んでしまうとしたら、私たちの人生なんだったのかと思います。ましてや、死の向こうにはさばきがあるならば、たちは、すべてをごらんになっておられる神様の前に、自分の罪の責任をどのように言い開きをすることができるでしょうか。「わたしはこんなに正しい人間です」と胸を張って言えるでしょうか。
以前に書いたように、神の堅さとは、完全を求める堅さなのです。心の中の隠れた思いさえも神は知っておられるのです。とうていそのような神様の前に立つことができない者であることを認めざるを得ないのではないでしょうか。だからこそ、神は、私たちをその罪から救い出すために、イエス・キリストを遣わしてくださったのです。
 「死」で終わるような人生ではない、一度死ぬことはあっても、それは復活のいのちへの門ロとなるような、新しいいのちを人生を私たちにもたらすためにイエス・キリストは来て下さり、十字架に向けて歩んでくださったのです。

 人間は、自分の力では決して罪に勝つことはできません。自分の罪を自分ではどうしようもないのです。しかし、神はみ子を十字架につけ、(罪のない)キリストの上に刑罰を下されました。そして、死に打ち勝ってよみがえられたのです。この方の恵みを受け入れる者は、神のさばきにあう時にも、罪に定められることがありません。
 わたしが受けるべき刑罰をキリストが負ってくださった。そして、キリスが歩まれた生涯がわたしの生涯と見なされるからです。このことが、ローマ人の手紙8章82節以下には次のように述べられています。
 
 「私たちすべてのために、その御子をさえ借しまずに死に渡された方は、子と一維にすべてのものを私たちにたまわらないはずがありましょうか。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活された方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのためにとりなしてくださるのです。だれが、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。顛難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために、一日中死にさらされ、ほふられる羊のように見られている。」と書いてあるとおりです。

 しかしこれらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、今あるものも、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低いものも、他のどんな彼造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛からくわたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ人への手紙8章32~39節)。

 キリストを信じて受け入れる者は、罪から解き放たれるのです。だれが、キリスト。の愛から私を引き離すのか、全宇宙のあらゆるものに向かって呼びかけて、だれも神の愛から私を引き離すものはない。神がその御手をもってわたしをとらえていてくださるからだというのです。だれも、私たちを罪に定めることはできない。有罪とすることはできない。死の中に閉じ込めることはできない。というのです。
 イエス・キリストがよみがえった時のことは、使徒の働き2章でもペテロが説教の中で述べています「キリストは死の中にとどまってはいない。神は彼の上に(私たちが受けるべき)さばきを下されたけれども、イエス・キリストはよみがえってくださった。それは死に対する勝利です。
 キリストは、初穂としてよみがえられたといわれています。死に打ち勝ってくださったこの方によって、信ずるすべての人は、キリストのいのちと勝利にあずかることができるのです。

 だから、このキリストの恵みのうちに死ぬ者にとって、死はいのちへの出発です。わたしの罪がゆるされているという確信は、同時に永遠のいのちへの確信なのです。
 ドイツの神学者で、ボンペッファーという方がおります。この方は、第二次世界大戦の時、ナチスドイツの軍政の中で、多くの教会もキリスト者も戦争に加担してしまうようになっておりました。そういう時にドイツでは告白教会という教会の組織を作りまして、戦争に加担したり、ユダヤ人など多くの人々が虐殺されていくのをそのまま見過ごしにするわけにはいかない。われわれはまことに神が神としてあがめられ、神のみこころが行われる教会を立ててこうとしたのです。

 当然この教会は、ヒットラーなどからの激しい弾圧を受けるようになりました。ボンヘッファーは、この告白教会の牧師養成所の所長として働いておりましたが、地下抵抗運動に加わっていたとして捕らえられ、監獄に入れられ、ついに処刑されてしまうのです。この告白教会の働きが、戦後の教会のみならず、ドイツ国家再建の大きな原動力になったといわれています。また。こうした背景からあのワイツゼッカー大統價の有名な演説が生まれてきているということもできます。
ボンへッファーには、獄中において書いたたくさんの著作がありますが、次の、「良き力に」という詩は、キジスト者として歩んだ彼の歩みをよく表しているというととができます。この詩を作ってから4か月後に彼は処刑されるのですがこの詩には、本当に信仰における平安がよく表れています。

よき力に(フオンゴーテンネヒテン)

良き力に真実に静かに取り巻かれ、不思議にも守られ慰められて、
私はこれらの日々を君たちと共に生き、
そして、君たちと共に新しい年へと歩んでいく。

古い年はわれらの心をなおも悩まし、
悲しき日々の重荷はなおもわれらにのしかかるであろう。
主よ、このかりたてられた魂に、あなたが備えたもうた救いを与えたまえ。

われらに苦き杯を、溢れるばかりに満たされた苦しみの苦き杯を、
あなたが与えたもうなら、
われらはそれを恐れずに感謝して、
あなたのいつくしみ探き愛する御手から受け取ろう。

しかし、あなたがなおもこの世に対する喜びと
その太腸の輝きをわれらに送りたもうなら、
われらは過ぎ去ったことを思い出そう。

その時、われらの生は全くあなたのものとなるのだ。
あなたがわれらの闇の中に持ち来たりたもうろうそくを、
今日こそ暖かぐ静かに燃えしめたまえ、

もし出来るならわれらを再び結び合わしめたまえ。

われらはあなたの光が夜の中に輝くことを知っている。
静寂が今や深くわれわれの回りを包む時、相共に聞こうではないか
目に見えずにわれらの回りに広がる世界の豊かな調べを。

あなたのすべての子らの高らかに歌う讃美の歌を
よきカに不思議にも守られて、われらは心安らかに来るべきものを待つ。
神は夜も朝も、そして新しい日々も、必ずわれちとともにいましたもう。

 獄中における書簡を読むと、あの厳しい戦争の時代、その中でも獄中にあって、ボンヘッフアーは、度重なる人々のうめきの声、あらゆる罪と裏切り、そして、自らの罪人としての姿を告白しています。まさに死の影の谷を歩くような経験の連続であったことが分かります。
 自分の力では立つことができないことを知っているのです。それだけに、主のよきカに守られて生きることの幸いを。覚えているのです。
 この神の愛と勝利を覚えているが故に、彼らはこのいのちある人生を他の人々にも告げることができました。そればかりでなく、いのちを守り、神のみこころがこの地にもおこなわれるようにという祈りを実現するために立つことができたのです。

 例えば、ユダヤ人が収容所に送り込まれて大量に虐殺されていく、侵略によって多くの血が流されていく、神が、この世界よりも尊いといわれたいのちが失なわれていく…このようにいのちが疎外されている。神のみこころが踏みにじられているという現実を見て見ぬふりをするということはできなかったのです。
 死がすべてではない。死は終わりではない。主イ主スが、死に勝利し、私たちのために罪のゆるしを与え、まことのいのちを与えて下さったという事実は、私たちに望みを与えます。そして、生きるカを与えられるのです。どのような時にもあきらめないで、生きることを教えられるのです。

 実は、自分の最も根本的で致命的なこの現実の(罪と死の)問題を解決しないままに生きている生は、本当の生ではないのです。それはあたかも自分は滝つぼに向かう船に乗っているのに、その船から降りようとはしないで、どうすればもうかるか、どうすれば自分は幸福になれるかと考えたり、好きなことをして過ごしているのと同じです。
 私たちは自分の持っている問題に気付かなければなりません。
 それとともにまことのいのちとは何かを追求していくべきなのです。

  「永遠のいのちとは、父なる神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キジストとを知ることです。」(ヨハネの福音書17章3節)

 ここで言う、神を知る、キリストを知るというのは、頭で、知識として知るということにはとどまりません。これは「祈りについて」という小冊子にも書いたように、人格的な関わりにおいて知るということです。神を知ることが(私たちを含めたあらゆるものの)いのちを知るということでもあるのです。
 失意の中にあり、恐れと絶望の中にあった弟子たちは、よみがえりのキリストに出会って、人生の新しい意味を教えられました。そして、主イエスはその後10日もの間弟子たちを始め、多くの人とともに過ごされ、食事をしたり、聖書のことを解き明かされたりして、その後多くの人の見ているところで、天に昇っていかれました。
 このことは使徒の働き1章のはじめに次のように書かれています。

 「イエスは、苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠を|寺って使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。
そして、彼らと食事をともにしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたもの(聖霊)を待ちなさい。ヨハネは、水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」さて、使徒たちは集まって「主よ、イスラエルのために国を建て直していてくださるのは、この時ですか」と尋ねた。

イエスは言われた。「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が下ると、あなたがたはカを受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」こう語し終わると、イエスは、彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って言った。
 『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。(使徒の働き1章3~11節)

 主イエスは、弟子たちが見ている前で天に昇って行かれました。しかし、それは主が弟子たちから離れたということではありません。復活の主は、その後弟子たちに聖霊を与えてくださいました。そして、聖霊において主は彼らとともにいてくださるのです。
 生きる時も死ぬ時も、キリストとがともにいてくださること、ここに私たちの希望があります。

第10章 キリスト教会について

ブルーダーが「嵐の中の教会」(新教出版社)という書物を書いています。
第2次世界大戦のさなか、ドイツでは、ヒットラーを総督とするナチス政権の下で戦争への道を突き進んでいきました。戦争に反対する人たちは次々に捕えられ、拷問を受けたり収容所に送られたりしました。
ドイツのある村の教会の牧師もこのために捕えられ、小さな教会は厳しい試練に遭遇するのです。ドイツの多くの教会は戦争に加担していくことになるのですが、聖書の教えに立つならば、私たちはこのような戦争をすべきではない。

ポーランド人やユダヤ人などの弾圧を止めるべきだと訴えるクリスチャンたちは、告白教会を組織して、地下抵抗運動をも繰り広げるようになりました。
「嵐の中の教会」には、この村の教会が受けた試練の数々と、それを聖書に立ち、神への信仰によって乗り越えていった様子がかかれています。
彼らは多くの人々が戦争になびいていく中にあって、神の願いは何かということを祈り求め、神の導きと支えを信じて、キリストの教会を立てあげていこうとしたのです。

	

キリスト教会の歴史

教会の歴史は、神が人間をお造りになった時から始まるということもできますが、ここではイエス・キリストの弟子たちから始まった、いわゆる初代教会からの歴史を簡単に述べておきたいと思います。
初代教会の様子は、4つの福音書や使徒の働きなど、新約聖書の書簡を見ればだいたい分かります。
ヨハネによる福音書20章19節以下に言われているように、弟子たちは、イエス・キリストが十字架につけられ葬られたあと、まったく絶望と不安と恐怖の思いに打ちひしがれていたようです。

自分たちの無力さを痛感し、将来を案じながら、人々を恐れて戸を閉じて部屋の中にこもっていました。
そのような弟子たちのところに、よみがえりのキリストが立たれたのです。
「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(ヨハネによる福音書20:19〜21)

ここにキリスト教会の原点があるといってもよいでしょう。私たちのために十字架にかかってくださった方、そして私たちに先立ってよみがえり、今も私たちとともに働いてくださるお方に出会うところから、キリストの教会はやがて世界中に広がっていくようになるのです。

キリスト教会の歴史は迫害の歴史といってもよいくらいに、厳しい迫害や困難を乗り越えて今日にいたっています。
福音書の続編といわれるものが使徒言行録ですが、これを読むと生まれたばかりの初代教会がはじめはユダヤ人たちから、そしてローマ帝国から、厳しい迫害を受けつつ、しかし、どんどん広がっていったことが分かります。不思議なことですね。神様が働いてくださったとしか考えられません。

なぜ迫害が起こるかといえば、日本の場合も同じことですが、ローマ皇帝や権力者にとっては常に自分に忠誠を尽くすことを求めるのですが、クリスチャンたちは、「人に従うより神に従うべきです」といって、必ずしも皇帝に従わないこともあったからです。当時では、帝国内の各地に皇帝の像が建てられて、ローマ皇帝が神であると考えられて「皇帝礼拝」が強要されました。日本でも戦時中には神社参拝や皇居遥拝が強要されたようなものです。

クリスチャンたちはこういうことをしない。理不尽な命令には従わなかったのです。こういうわけで、キリスト教は権力者にとっては煙たい存在になりました。
しかし、帝国内にクリスチャンが増えていって、キリスト教を否定していたのでは国がやっていけなくなり、395年には、キリスト教はローマ帝国の唯一の公認宗教となるのです。

この頃の教会の歴史で重要なことは、異端との戦いの中で生まれてきた、ニケア、カルケドン、アタナシウス信条などが生み出され、教会の信条として確立されてきたということです。
325年から451年にかけて相次いで行われた教会会議において、これらの信条が生み出され、神について、キリストについて、聖霊についての基本的な理解(①三位一体の神、(②キリストの二性一人格など)が確認されました。
歴史を支配なさる神が、聖霊によって、教会を正しい理解へと導いて下さったのです。
簡単に説明すると、
①は、キリストは永遠の昔から父とともに存在し、人格は異なるが、父と同質の本質を持っている。
②は、「キリストは、完全な神性であって、完全な人性であり、真の神であり、真の人であり、この二性は混乱もせず、転化もせず、分割もせず、分離もしない」ということが確認されました。

また、人間はどうしたら救われるのかということをめぐってのアウグスチヌスなどの果たした貢献は大きなものがありました。
しかし、教会の勢力が強大になるとともに、教皇など教職者たちの権力争いが起きるようになったり、聖書とともに教会の伝承も同じように重んじるべきだということになり、ローマ・カトリック教会では、聖書に教えられていない数々の伝承が聖書と並んで重んじられるようになりました。

セント・ピーター寺院の改修工事の費用などをまかなうために、免罪符を販売するようになり、これを購入すれば、罪の償いを免れることができるなどと教えるようになりました。これに疑問をもった修道士マルチン・ルターは、ウィッテンベルク城教会の扉に95カ条の提題(質問状)を掲げて、聖書に帰ることを訴えました。
ルターによって宗教改革が起こり、ローマ・カトリック教会に対してプロテスタント教会が生まれました。宗教改革は、教会の権威から聖書の権威を解放した運動であるということができます。聖書の権威を本来の姿に戻そうとしたのです。

①聖書のみ(聖書だけが信仰と生活の唯一の基準である)。
②信仰のみ(人間の功績によらず、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ救われる)。
③万人祭司(どの人も直接神との交わりに生きることができる)を主張し、聖書に基づいた教会を形成していこうとしたのです。

一般の人も聖書が読めるように、聖書を翻訳したり、聖書の註解書を出版したり、聖書に基づいた信仰の告白である信条を作ったりなどしていきました。
このように、ローマ・カトリック教会とプロテスタント教会は、分離してきましたが、共に聖書を土台にしていますし、基本信条においては一致していますから、福音理解の中核においては共通点を持っており、現在では、「新共同訳聖書」など、カトリックとプロテスタントの協力の動きも盛んになってきています。

信条について

信条は、教会の歴史から見ると、聖書を誤って理解する翼端が表れると、それに対して、教会がその問題を真剣に闘っていく中で、「これが聖書の教えだ」という神学的な立場を確認してきたものです。

主な信条としては、使徒信条、ニケア信条、カルケドン信条、アタナシウス信条、ハイデルベルク信条、ウエストミンスター信条、ドルト信条などがあります。
教会のこれまで2000年余りにわたる聖解釈の歴史は、単なる人間のわざではありません。この歴史を考える時、神は聖霊によって、正しい聖書の理解へと導いて下さったということが分かります。また、聖書的な教会をたてようという時には、どうしても「私たちは聖書をこのように理解する」という共通の信仰の告白の上に立てていくことが必要なのです。ですから、信条を重んずるということは、この歴史に働く聖霊の導きを確信し、聖書の歴史とともに教会の歴史を重んじるということです。
ここで注意したいことは、あくまでも聖書が信仰と生活の唯一の基準であり、聖書によってのみ立てられる教会を形成するということです。聖書的な教会を形成していくために信条が作られるのです。

聖書が第一基準であり、信条は第二基準です。

教会の政治

教会の政治形態は、大きく分けて監督政治と長老政治と会衆政治の三つに分けることができます。一言で言えば、監督制は監督がリーダーシップをとって治める。会衆制は会衆が全員で教会を運営する。長老制は一つの監督ではなくて共同監督という考え方です。これは教会の運営のやり方ですが、どれでなくてはならないというわけではありません。

1)監督制

監督制は、地域を教区として区切り、その教区に一人の司教をおいて、その司教の監督のもとに教会を運営するというものです。監督制の特色は、?一般信徒と教職との区別の強調、?教職の中に階級を立てるということがあります。これは、治めやすいという利点があると思われますが、監督である教区の司教が聞違った聖書理解を持っていたりすると困ることになります。あるいは一人の司教の意のままになってしまうという危険性もあります。

2)会衆制

会衆制は、一つの教会会衆全体で教会の運営をしていきますから、この政治形態をとる教派の教会は、実質的にはそれぞれの教会は独立した教会になります。このため、教職も信徒もともに自分たちの意見を反映させて教会を運営していくことができますが、教派の共通の信仰規準を持つことは難しいために、各々の牧師はかなりの幅を持った神学理解を持つことになります。
それで牧師が変わるとそれまでとはかなり違った聖書解釈になるという可能性があります。教会形成の積み重ねが出来にくいという面を持っています。

3)長老制

長老制は、世界的な広がりをもって、他の改革派教会とともに連帯し、教理の純潔を保つとともに、信仰告白(信条)が教会全体にゆきわたるようにするための形態であるといってもよいでしょう。各教会が代表を出して、中合をつくり、それを共同監督するという制度です・各教会は独立性を持つとともに他の教会と連帯し束縛されるものです。中会が一つの教会であるといってもよいのです。
静岡キリスト教会は、改革派教会の群れとして長老主義政治を採用していますが、これはどの政治形態でなければならないというものではありません。
どの教会も、ひとりの主なる神がたててくださり、イエス・キリストを信じる信仰の告白の上にたてられていることを忘れてはなりません。

教会やクリスチャンのことを考えるときに重要なみことばが、以下に記されております。ここでイエス様は、「あなたはわたしのことどう思うか」と質問なさったときに、シモン・ペテロは、使徒たちを代表して次のように答えました。
「あなたこそ、生ける神の子キリストです。」(マタイ16:13)そして、イエス様は、この信仰の告白の上にわたしの教会を建てると言われたのです。
世界中のどの教会も、イエスをキリストと告白する教会は、すべて主イエスによってたてられた、キリストの教会です。だから教派を越えて国籍や民族の違いをこえて兄弟姉妹とよぶことができるのです。

「シモン・ペトロが、『あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子です。と答えた。
すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。
あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる』」(マタイの福音書16章16〜19節)。

第11章 生きた信仰をめざして

信仰のリアリティ

インドネシアで宣教師をしておられた入船尊先生は、"インドネシアで最も大きな発見は、実は宗教であった。…今日の日本では、宗教を持つでるというと、何か人生の深刻な悩みがあったのではないか、というように考えられがちだが、インドネシアのような社会では、人間が人間であるための当然のことのように考えられている。…日本で一番欠けているのは、神との関係のリアリティである。」といっておられます(「宣教師としてインドネシアに遣わされて」より)。
人間が人間らしく生きるためには宗教が必要だということでしょう。
このような宗教に対する受け取り方は、インドネシアだけではなく、アジア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカ、オセアニアなど世界のほとんどの国々に共通するものということができます。

日本にも宗教はたくさんあるのですが、仏教はほとんど葬式仏教といわれように、ビジネスのための仏教のようになってしまっており、神道も地の新興宗教も人間の現世利益と欲望に仕えるものになってしまっている感があります。
人間が神のようになろうとする宗教は、時代や風潮に流されやすく、ある民族に偏ってしまう傾向があります。確固たる人生の基盤や、人生の目的を見極ることが難しいのです。
信仰とは、自分の人生のよりどころをどこに持つかということであり、自分や人間を超えた神により頼んで生きることです。
真に頼りがいのあるお方、私たちの弱さを受け入れてくださる方、そしてイエス・キリストにおいて深い愛を表して下さる神こそが私たちの主であることを聖書は教えています。

実に不思議なことですが、聖書において言われている神の約束の言葉は、これまで一つ残らず実現してきています。
私たちは弱さがあったり、限界があったりしますが、神は決して私たちを裏切ることはありません。
生きた信仰のために
生きた信仰というからには「死んだ信仰jもありそうですが、あなたも是非、生きた揺仰を追及してください、そうすれば、信仰は人生の力の源であるということが実感できるようになるでしょう。
生きた信仰をえるためにはどうしたらよいのか、いくつかのことをあげてみます。

1)神の前にひれ伏すこと
2)神を父として認めること
3)神によって自分のセルフイメージを回復すること
4)私の救い主としてイエス。キリストを受け入れること
5)私の人生のモデルとしてイエス・キリストを抑ぎつづけること

以上のことが、これからのあなたの生涯において、大きな生きる力になると確信しています。これらを簡単に説明してみましょう。
神の前にひれ伏すこと
人間が失敗をするときはどういうときかというと、自分が神のようになろうとしたときです。人と人とを比較して相対的な自分の物差しを持って生きていくときの人生の土台は頼りないものです。
しかし、変わることのない神、私たちを超えた方のうちに自分をゆだねて生きる人生には安心があります。
神の前にひれ伏すとは、神を神として受け入れ、自分の心のうちに、イエス・キリストをわが主、わが神としてお迎えすることです。自分の心の王座を神に明け渡していくことです。

具体的には、聖書を人生の基準とし、礼拝において絶えず自らを振り返り、みことばを聞き、祈りながら人生を生きるようになることです。
私たちは、聖書において表されている私たちの神が、どのような神であるのかを知れば知るほど、感謝と喜びがその心を包むようになるでしょう。
聖書が分かるために何よりも大切なことは,神の前にひれ伏すことです。
これがなくては,たとえ聖書に関する何万冊の本を読んで,聖書を全部暗記したとしても,聖書が分かったことにはなりません。
聖書は,私たちにいのちを与えるために書かれたのですが,聖書によって私たちがいのちをえるためには,神を神として認め,神を信頼して自らをゆだね、神の前にひれ伏すことが必要なのです。
神の前にひれ伏す姿として,具体的には「祈る」ことがあげられます。「絶えず祈りなさい」(1テサロニケ5:13)といわれているように,絶えず神に心を向けて祈りましょう。
「人よ、何が善であり主が何をお前に求めておられるかはお前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛しへりくだって神と共に歩むこと、これである」(ミカ書6:8)

2)神を父として認めること

今に限ったことではないかもしれませんが,精神的な病を持った人が増えています。こうした人たちの多くは人を信頼することができません。自分は生まれてこないほうがよかった」自分の将来は暗い」というように考えている人がたくさんおられます。
ところが,こうした人たちが「親換え」を経験して,自分の父は聖書が教えている神様だということが分かってくるにつれて,しだいに癒されていくのです。
微笑みと希望が心のうちに生まれてくるようになります。
神を自分の父として受け入れるということは、自分はどういうものであるか、というアイデンティティに関係してくることです。

実は,私たちが何によって生きる力を与えられるかというと、それはアイデンティティによるのだといってもよいでしょう。アイデンティティは,自己同一性と訳されていますが,わたしはあの人に所属している,わたしはあの人につながっている,あの人と一つだという気持ちを持つことをアイデンティティといいます。
自分は誰であるかということを理解するときに,自分は誰とつながっているかということによって書自分が誰であるかがわかるのです。
自分の心を一生懸命調べて,分析して,自分は誰だといってもなかなかわからないのですが,自分の家族のつながりや,友人とのつながり,教会にきているというようなつながりを理解することによって,初めて自分が誰であるかということがわかるようになるのです。

イエス様の力がどこからきているかというと,それは間違いなくアイデンティティです。わたしは父なる神とつながっている。わたしが話した言葉は,わたしが語ったことではなくて,わたしのうちにおられる父が語ったんだ。といっておられます。
3)神によって自分のセルフイメージを回復すること
セルフイメージというのは,私は自分のことをどのように考えているのか、自分とはいったいどういうものであるのかという理解のことです。
聖書は,私たちのセルフイメージについて,私たちは神のかたちに造られたのだというのです。
創世記1章26,27節には次のように言われています。
「神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」
セルフイメージを考えるときに・私はどこから来たのかということをきちんと理解していくことは非常に重要です。

例えば、私たちは、自分のコンピューターがどこのメーカーのものであって、どこから来たものであるかを知っています。
しかし、自分自身がどこから来たのか、すなわち、どこに所属しているのか、多くの人はその大切なことを知らないままに、あるいはあいまいなままに過ごしているのです。
そういう私たちに神様は、イエス・キリストを通して,あなた方を創造したのはこのような神なのだと教えてくださっています。
私は偶然に存在するのではない。神様の深い配慮によって、神様によっていのちを与えられ,育まれているのだということです。

セルフイメージはどのようにして出来上がってくるかというと,大きな要因としては、家庭で親が子供にいろんな言葉を語る中で作られていきます。
親が子供に語る言葉の中で90%は否定的な言葉であるといわれています。
「おまえはのろまだj,「おまえは出来が悪い」、「あれがいけない」、「これがいけない」、「まだ分からないの」
細かく注意をされるごとに,自分はダメだという思いが,無意識のうちに自分のセルフイメージとなっていくのです。
そして言葉だけではなくて,親や友人や,この世のいろんな人々の言動を通してそれは自分の身についていきます。

もちろん,失敗することもあれば,注意が必要なこともあるでしょう。このときに親が人間というものをどのように理解し,自分をどのように受け入れているかということによって、子供の意識はずいぶん変わってくるものです。
では、聖書はどう言っているでしょうか。
イザヤ書43章をご覧下さい。
この43章が語られたとき、イスラエルの人々は、神様に対して、人々に対して数々の罪を重ねていました。

それで神様は罰をお与えになったのがバビロン捕囚でした。
イスラエルは、外国の国に滅ぼされ、主だった人たちは、外国の奴隷として、「バビロン捕囚」として捕らえられてしまいました。
いわば自業自得というような状況でしたが、そのバビロン捕囚中に語られたのがこの言葉です。
みじめな状態になって、心も件もぽろぽろになっているようなイスラエルの人たちに、神様はこの言葉を語るのです。

「ヤコブよ、あなたを創造された主はイスラエルよ、あなたを造られた主は今もこう言われる。
恐れるな、わたしはあなたをあがなう。
あなたはわたしのもの心わたしはあなたの名を呼ぶ。
水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。
大河の中を通っても、あなたは押し流されない。
火の中を歩いても、焼かれず炎はあなたに燃えつかない。
わたしは主、あなたの神イスラエルの聖なる神あなたの救い主。
わたしはエジプトをあなたの身代金としクシュとセパをあなたの代償とする。
わたしの目にあなたは値高く、貴くわたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え人々をあなたの魂の代わりとする。
恐れるな、わたしはあなたと共にいる。
わたしは東からあなたの子孫を連れ帰り西からあなたを集める。
北に向かっては、行かせよ、と南に向かっては、引き止めるな、と言う。わたしの息子たちを遠くから娘たちを地の果てから連れ帰れ、と言う。
彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために
創造し形づくり、完成した者。」

神様がどのように私たち人聞のことをご覧になっておられるかお分かりになるでしょうか。神様はいつも私たちに語りかけて下さいます。
「私はあなたをあがなった、そのためにイエス・キリストを遣わしたのだ。
わたしの愛するみ子があなたのために血を流して死んだ、
このような代金を払ってあなたをあがなった、あなたを買い取ったのだ。」

私たちの人生の内にも、苦しいことや大変なことを経験するときもあります。
順境の時もあれば、逆境のときもあります。パピロン捕囚をしたイスラエルの人々のような経験をすることもあるかもしれません。
しかし、そういう私たちに、神様は言われるのです。
「あなたはわたしの目には高価で尊い。
私はあなたを愛している。」
これが神様のみこころです。

I am a child of god. 私は神の子供です。
1 am forgiven. 私は赦された。
I am a position of god. 私は神のものです。
I am created in the image of god. 私は神のかたちに造られました。
4)の救い主としてイエス・キリストを受け入れること
「生き生きとした生活」などというと私たちが先ず思い浮かべることは、どうしたらよいか(How),そして自分の努力で何かをやろうとする、ということではないでしょうか。

しかし、パウロの焦点は「だれが(Who)」でした。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか(ローマの信徒への手紙7:24)。
自分がほんとうにみじめな人間だと知って落ち込むまで、私たちは方法論を追求し続けます。
自分の努力に頼ります。ああすべきだ、こうすべきだと自分の
力に頼ります。自分には何かできると思い込んでいるのです。
あるいはそういう思いで人と人とを比較したりさばいたりするのです。これこそ律法を行なう態度なのです。
現在人気のある新興宗教や、自己啓発セミナー、ある種のカウンセリングなども実はそのようなことを教えています。

あなたにはできるというような積極思考や可能性思考などを教えているのです。
パウロも、積極的思考と可能性思考にかけては彼の右に出る者はないほどの人でしたが、ついに私にはできない。私はみじめな人間だと告白したのです。
イエスさまも、「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのですj(マルコ12:17)とおっしゃいました。
私たちは本来、信仰の世界に生きるのであって、すべてのことにおいて神さまに信頼する生き方をすべきなのですが、そのことがひつくりかえってしまって、あなたにはできる、あなたがやらなければということを教えがちです。

しかし、パウロが告白したように、私たちにはできないのですから、私たちが何かをするのではなく、私たちがだれに頼るかということが大切です。
神さまを喜ばせることはできない。
パウロの答えは、25節に書かれ,ています。

「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。j
つまり、パウロが言う解放とは何かというと、イエス・キリストなのです。
律法からの解放、方法論からの解放は、イエス・キリストにあるのです。
ですから、イエス・キリストに感謝しているのです。自分がどうあるべきだとか、何をすべきかではなく、イエス・キリストを受け入れ、イエス・キリストのみに頼って生きていくという恵みの世界に生きることが聖書の答えなのです。
あるがままでいい,そのままでいい,罪があっても,弱さがあっても,過去にどんな失敗をしていたとしても,そのままで私のところに来なさい,私の下に重荷を下ろしなさい、とイエス様は私たちを招いてくださいます。

5)私の人生のモデルとしてイエス・キリストを仰ぎつづけること
あなたの人生のモデルは誰でしょうか。私はこの人のように生きていきたいというような人がありますか。
私は人生を豊かに生きるためには,モデルを持つということが非常に重要であると思います。私たちがモデルを持つということはどういうことかというと、
まず第1に私たちの心の中に具体的な絵が描かれることで、これは非常に力があることなのです。
オーストリアの精神医学者フランクルは、「元来精神的に高い生活をしていた感じやすい人間」が,「頑丈な身体の人々」よりも,収容所生活をよりよく耐えた」と述べています。(「夜と霧」)

精神的に高い生活をしていた人というのは、さらにいえば、希望のイメージを描いて生きることができた人です。
今はこのように厳しい状況にある,しかしそのときにも将来得られるであろう豊かな世界をイメージして生きたのです。
イエス・キリストヘの信仰とはそういうことです(ヘブル11章参照)。
イメージするときに,誰を自分のモデルとするか。誰のことをいつもよく考えているか、ということが大切です。

自分は何をやってもうまくいかない。ことごとく失敗するだろう。そういうイメージトレーニングをしているとそういう人になっていくのです。
人の批判ばかりしている人は、そういうふうなモデルを自分のうちに持っているのです。あの人はだめだ、あの人はこんな失敗をした、こういう態度にはむ力づいてくる、というような面をいつも意識して、イメージトレーニングをしている人は、自分もそういう人になっていきます。それが自分のモデルになっているからです。
私たちはイメージを描くと、自分の描いたイメージに近づいていくことが出来ます。

2番目には、イメージは私たちにアイデンティティを与えるのです。
自分が描いているイメージによって、自分が誰かということがわかってきます。
自分がなんとなくイメージを持っている、モデルを持っていると、そのモデル自身に自分が似てくるわけです。
そのモデルにおこったのと同じようなことが自分の人生にも起こるようになってきます。

3番目に、イメージを持つと、あるいはモデルを持つと目的がわかってきます。目的というよりも終着点が見えてくるのです。
人生、今30歳であるかもしれないけれど、80歳になっている自分が見えてくるようになります。
私たちの終着点を見たいと思ったら、黙示録の21,22章をご覧下さい。神様は、私たちに、私たちの終着点を見せてくださっています。

4番目に、モデルは私たちに方向性を与えます。
決断しなくちゃならないとき、選択しなくちゃならないとき、さてどうしょうかな、どうしたらいいだろうかというときに、自分の持っているモデルが助けてくれるんです。
自分が持っているモデルのように、考えたり、選択したりする傾向があるんですね。

第5番目に、自己吟味ができる、モデルがあると自分がどういうものであるかということが分かります。
イエス・キリストをモデルとしてもつと、自分はどこにいるのだろうか。自分が今どこにいてどういう道をたどっているのかということが、分かってきます。
聖書は,あらゆる面で,イエス・キリストをめざしていくことを教えています。

「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。
こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤
りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、
むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、俸全体は、あら坤る節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられていくのです。

第12章 感性を豊かに

「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」(ルカによる福音書6:36)。

はじめに
1、心と出会うこと、感情の大切さ
2、福音が分かるとは
3、豊かな感性を祈り求めましょう!

はじめに
現代は「人間性喪失の時代」と言われています。苦しんでいる人がいても、そんなことは見てみぬふりで、人の痛みが分からない。分かろうとしない。
アパートのとなりで亡くなってから何日もたっているのに、「そんなこと知りませんでした。」親が赤ちゃんをコインロッカーに置き去りにしたり、子供を平気で虐待する。そして、そうした感情をコントロールすることができない。
一緒に笑ったり、泣いたり、悲しんだりすることができない。世代間のギャップ、心と心のふれあいやきずなというものが、次第に失われつつあるように思われます。
マザー・テレサが来日したときに、私も彼女の講演を聞く機会を与えられましたが、そのとき次のように言われた言葉が印象に残っています。
「この国は豊かになったと聞いたが、愛に飢えている人たちがいっぱいいることを、私は知った。愛に飢えている人が多いこの国は、私は貧しい国だと思う。」
これはもう20年以上も前にマザー・テレサがいわれた言葉ですが、日本のありようを見るときに、愛に飢えた人がどんどん増えているというのが実情であるように思われます。
これはキリスト教会の責任であるということもできるのではない
でしょうか。

「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」(1ヨハネの手紙4:7〜9)
1、心と出会うこと、感情の大切さ
私たちキリスト者はイエス・キリストを目指して成長していくものであると聖書に記されていますが、聖書を読むと、イエス・キリストが非常に感性の豊かなお方であったことが分かります。

はじめに感性」とは何かということを考えておきましょう。
広辞苑によれば、感性」とは、
1)外界の刺激に応じて感覚、知覚を生ずる感覚器官の感受性
2)感覚によって呼び起こされ、それに支配される体験。したがって、感覚に伴う感情や衝動、欲望をも含む

また、「感受性」については、
1)外界の印象を受け入れる能力、ものを感じ取る力
2)生物体において、環境からの刺激により感覚及ぴ反応を誘発されえる性質。
以上のように説明されています。
これだけの説明ではよく分かりにくいのですが、感性は人間の心と密接な関係があります。
感性の豊かな人とは、喜怒哀楽の感情が豊かな人であり、喜び、
悲しみ、痛み、感動、愛の心が豊かな人であるということができます。
エゼキエル書36章26節で、「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお敵たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。」と言われておりますが、キリスト者になるとは、神によって新しい心と新しい霊を受けることです。

それは、キリストの霊を受けることであり、キリストのように愛し、キリストのように憐れみ、キリストのように人々の喜びや悲しみを自分のこととして覚えていける霊を受けることであるということができます。
福音書を見ると、例えば、目の見えない、人、悪霊につかれた人、身体の不自由な人、らい病を患っている人、幼児などがよく出てきます。なぜならば、イエス・キリストは憐れみ深いお方であり、感性の豊かなお方であって、そうした人々の心の叫びに心をとめられたからです。
イエス・キリストは、人の心との出会いを非常に大切にされました。
スーザン・タマールという心理学者は次のように述べています。
『流されなかった涙は、心の中にたまり、やがて心を覆い、心の動きを麻痺させてしまう。』

悲しみの感情が解放されないと、自分の存在そのものを悲しむようになってしまいます。これは、気持ちを表すという事がとても大切なのだということです。
笑うということも同じことで、笑いが表現できるという事は非常に大切な事です。イエス様は、誰でも幼子のようにならなければ神の国を見る事ができない、と言われましたが、幼子は自分の心をそのままに表現することが出来るやわらかい心をもっています。
笑える状態、泣ける状態、見て驚いたり、触って感動したというのは無心になっている事です。

童心に返るというときには、その人の年齢も肩書きも忘れさせ、何のわだかまりもない精神状態にしてくれるのです。
イスラエルに行きましたとき、ユダヤの方々と一緒に食事をした後で、手をつないて賛美の歌を歌ったり、手をつないでダンスをしたことがありましたが、彼らは感情表現が豊かであり、互いの感情をともにすることをよく知っている人たんだなあと思いました。
彼らはよく笑う人ですが、歴史的を振り返ってみるならば、彼らは最も苦しんだ人たちだといえるかもしれません。幾度も迫害にあった人、虐げられた人であり、2000年にわたって自分の国を失ってしまったのはユダヤ人でした。
しかし彼らはよく笑う人たちです。アメリカのコメディアンの何と80%はユダヤ人だといわれています。

牢屋に入れられても笑う。迫害にあっても笑う。つらい目にあってもストレス状況のもとでも、あるいは難しい人間関係の中でも、笑う。笑う事によって乗り越えて行く。笑う事によって神の民である事、笑う事によって神の購いを表現Lていくわけですから、私たちキリスト者はもっと笑い、もっと泣いてもいいんだろうなと思います。
イエス・キリストは、「多くの痛みを負い、病を知っている。」お方であるとともにユーモアと喜びに満ちたお方でもありました。

同じユダヤ人の中でも、聖書に出てくる律法学者、パリサイ人たちは、いわばエリートであり、合理的な人でした。
厳格に聖書の戒めを守ろうとした宗教家でした。
しかし、彼らのこころは石のこころであり、他の人の心の思いに
ふれることが出来ない人であり、キリストのように人の痛みを覚えて泣いたり、喜んだりすることができない。
こころと出会うことが出来ない人たちであったように思われます。
よきサマリや人のたとえといわれるイエス様のたとえ話に出てくる祭司やレビ人は怪我をして倒れている人の心を分かろうとしない、感性の乏しい人たちでありましたが、サマリや人は、人の痛みを自分のこととして受け止める豊かな感性を持っていたのです。
「あの人、知的ですね」と言うと何かよく聞こえますが、「あの人感情的な人ですね。」というのは誉め言葉ではありません。

確かに、感情的に怒るとか、情におぼれるといったことは避けたいことですが、感情そのものは非常に大切なものであり、感情のない人間というものは、人間らしさを失ってしまうのではないかと思われます。
神のかたちに造られた人格を持つものとして、感情が与えられ、喜びや悲しみや感動などを共有できることも、神から与えられた大きな恵みといえましょう。
なぜ感情がかれていくのでしょうか。

第1に、私たちが大切な人生槻観、生きる目的を持たなければ私たちの感情はかれていきます。
いつも自分は中立でいる。いつも白か黒かはっきりしない。
私はこういう人生観のうちに、自分をかけて生きていくんだ、というものを持たないと、私たちの感情は枯れていきます。

第2番目に、愛する人を持たなければ、私たちの感情は枯れていきます。
私たちは、愛する人を思う。そして愛する人に触れる。愛してしまうとその人のことを心配する。そして悩む。その人のことで傷つく。その人のことで痛む。
だから、愛する人を持たない。愛する人を持たなければ笑う事も少ないだろうけれど、傷つく事も悲しむ事も少ないことになります。

第3番目に、信じるものをもたなければ感情は枯れていきます。
私たち日本人は、いろいろな出来事に直面したとき、よく考えなさいとよく言いますけれど、信じなさいということは少ないようです。
信じるということと考えるということはどういう事でしょうか。
私たちは、礼拝の時によく使徒信条を告白します。
『われは天地の造り主、全能の父なる神を信ズ。われぽそのひとり子イエス・キリストを信ズ。われは聖霊を信ズ。われは公同の教会を信ズ』
どうして私たちは、われは天地の造り主、全能の父なる神を考える』と言わないのでしょうか。イエス・キリストを認めますとは言わないのでしょうか。
私たちは考えますとか認めますとは言わないで、信じるというのですが、考え〜というのは私たちの頭の行動なのです。

考えるという場合には、私たちは、考える対象も、自分の考えもころころかえています。考えるという領域においてはそれでもかまわないわけです。
ところが信じたらどうでしょうか。
信じます、ということは頭の行為ではなく心の行為であり、信じるどいうことは自分自身を投げかける、自分の存在をかけて信じることになります。
ある方が証の中で、「私はなかなか神を信じる事が出来なかった。それは神がどういう方かわからないからというのではなくて、この神様を信じたら自分が変わらなければならない。

すなわち、自分よりうえの存在である神に自分が従わなければならない。という事がよく分かっていたからだ。」とおっしゃいました。
考えても自分はそのままです。認めても自分はそのままです。
しかし信じたら自分が変わらざるをえないのです。
この神様を信じたら自分が変わっちゃう。変わらざるをえない。そういう自分の気持ちと葛藤しながら、み言葉によって、くだかれて信じるようになられたわけですが、信じるとか愛するということは、もちろんそこに考えるということも含まれますが、それよりも深いところでは心の領域であり、自分をかけることであります。

それは合理的に考えて、自分の枠内で、自分の世界の中だけで考えてやるということではありません。愛したり信じたりすると、その相手によって自分が変わってしまいます。その人のことを心配する、その人のことで傷つく、その人のことで痛む、その人のことで失望したり絶望したり、喜んだり笑ったり、泣いたりする、そして自分が変わってしまうわけです。
しかし、信じるものを持たないならば、評論家や傍観者でいるならば、感情は枯れていきます。

イエス・キリストが、例えば目の見えない人のとごろに出かけでい
ったのに対して、パリサイ人や律法学者たちは傍観者でした。
彼らは、参加しない。手を汚さない。中に入っていかない。だから感情はかれていくわけです。

ですから、心を豊かにするものは何だろうかというと、かけがえのない大切なものを持っているということです。愛する人を持つ事です。私はこの人を愛する。愛する人を持ったら泣くことのあるし、傷つく事もあります。
心が痛みます。喜びもあるが悲しみもあります。満たされる事も多いが傷つく事も多いものです。

そんな人聞がすばらしいと思います。
聖書の中には、感情の表現がたくさん出てくるとともに、そうした感情を表すことも随所に述べられ勧められています。例えば、
「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」(フィリピ4章4節)。
「わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって聖なる御名をたたえよ。」(詩篇103:1)。

「憐れみのこころ…寛容を身につけなさい。」(コロサイ3:12)。
「恵み深い主に感謝せよ。j(歴代誌上16:34)。
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマ12:15)。
「踊りをささげて御名を賛美し太鼓や竪琴を奏でてほめ歌をうたえ。」(詩篇149:3)。

2、福音が分かるとは

本当の意味で神の恵みが分かり福音が分かるということは、考えて頭で分かるというだけではなく、体験によって、愛され愛することによって『こころでわかる」ということを意味しています。
使徒ペテロはどのようにしてキリストの福音を知るようになっていったのでしょうか。
彼はユダヤ人ですから、子供のころからシナゴーグでの礼拝や学び、家庭における礼拝、国を挙げてのお祭りなど、数々の聖書に親しみ、聖書を学ぶ機会がありました。そうした中で彼はイエス・キリストに出会います。

福音書に記されているように、ペテロは漁師でありましたが、イエス様のふしぎなみわざを見、「わたしについて楽なさい。人間をとる漁師にしよう」(マルコ1:17)という言葉に従って主の弟子として歩むようになりました。
イエス様が弟子たちに教えたり、訓練する方法は、非常に実際的なものであり、イエス様ご自身の生き様を通しての教えであり、実生活のたとえを用いての教えが多くを占めていたようです。

しかし、弟子たちは、「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。」(マルコ8:17)といわれているように、なかなかキリストの言葉も福音の意味も理解できていなかったようです。

ペテロはたいへんな自信家であったようで、イエス様がペテロの離反を予告なさったときにも、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」と力をこめて答えました。
その結果は主が言われたとおりにべテロは、主を裏切り、3度イエスのことは知らない、と主を否んでしまいます。
こうした体験を通して、彼の心はまったく打ち砕かれて、自分の惨めな姿、弱さを持つ自分自身の姿をはっきりと見るようになるのです。
今までは、一番弟子で、自信を持って自分は大丈夫だ、あれもできるしこれもできると思っていたかもしれません。
今までは、自分は信仰の男であり、裏切りなど絶対にしない男だと自分を見ていたのですが、突如として自分の裸の姿が見えてくる。
そして彼は激しく泣くわけです。

興味深いのは、イエス様が、ペテロよ、おまえの為にお祈りした。サタンが麦のようにおまえをふるいにかけるけれど、私はおまえの信仰がなくならないようにお祈りした。
おまえが立ち上がったあとで、弟子たちを励ましなさいといわれ
ました。このときも主が守り導いてくださいました。
大失敗を犯してしまった。しかしむしろその事によって、彼は本当に謙遜な者となって、自分を深く見つめるもの、信仰によって生きるもの、指導者として整えられていくのです。
神の恵みが分かり、福音の真理が分かるようになるためには、そして彼が指導者として整えられていくためには、このような試練を通して自分の心が打ち砕かれていく必要がありました。頭で理解しているだけでは、本当に分かったということではありません。
信仰によって生きた神の民として、ペテロのほかにも、例えば、アブラハム、モーセ、ダビデ、パウロ、などあげることができるでしょう。
彼らはどういう人たちであったかというと、
彼らはまず第1に、神様に深く深くつながった人たちです。
時には逃げ出したいと思うこともあったかもしれません。
しかし、逃げ出したいと思っても逃げ切れなかった。
神様がしっかり捕らえているものですから、神様から逃げ出せなかったのです。
つらい、苦しい中で、試練の中で、砕かれた中で、失敗した中で、罪を犯した中で、罪を犯したから神様から離れてしまうのか、失敗したから神様から離れてしまうのか、不幸なことが起こったから神様から離れてしまうのかというと、
彼らはむしろそのことによって神様に近づいて、より深くつながった人たちです。
そのように神は彼らを捉えていてくださいました。
第2に、彼らは失敗しなかった、罪を犯さなかった人たちではありません。
数々の罪を犯したのです。しかし、そのような大失敗の経験を通して、被らの心が新しくされました。そのようにして彼らはむしろ深く神様とつながった人たちであります。
そして第3番目に、彼らは再起した人、再び立ち上がった人たちです。
これらの人たちの特徴は、全員が死を経験した人たちです。
讃美歌532番には、「ひとたびは死にし身も、主によりていま生きぬ」とうたわれます。これらの人たちの特徴は、人生のどこかで、死ぬという経験を最低1度、ある人は幾度も繰り返しています。
そして新しい人になるということは、一度古い自分に死んで、新しく再起したという人たちで、これらの人たちは全員死を経験した人たちです。自分を十字架につけるという経験をしたのです。
昔の私はもう生きていない。私は十字架につけられた。私が生きているのは、私のうちにあるイエス・キリストの力によって生きているのだ。
そうした信仰的な理解があるのですが、これらの人たちは、全員その生涯において自分の死を経験いたしました。
彼らは、霊的に自分に死んでまた生き返るという経験をしました。
ですから、これらの人たちから、復活の信仰、復活の希望についても教えられます。
そして最後には神様によって練られて、神様が芸術作品を作るように、主がともにおられて、その人を作り上げていってくださるわけです。
この場合、人格的に立派な人になるというよりは、福音の種を豊かに育てていけるよい土地のように神の言葉を聞く心を育てられていくのです。
以上述べたことからも分かりますように、人は心で、人格的な神様との交わりの中で神に出合って初めて謙遜にされていきます。
イエス様はあるとき、パリサイ派の人と徴税人のたとえをなさいました。
ルカの福音書18章9節以下に書いてあります。
自分は正しい人間だとうぬぽれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
パリサイ人は、「『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』という祈りをささげるんですが、徴税人は、「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
そして、神に義と認められたのは、この徴税人のほうだと言われたのです。
このパリサイ人のようなかたくなな心を神様は望んでおられません。そうではなくて、自分の罪を認め、自分の弱さを正直に認めて、神に自分をおゆだねする心を求めておられるのです。
3、豊かな感性を祈り求めましょう
イギリスのダイアナ妃は、幼いときに両親が離婚し、父の再婚相手の継母とは折り合いが悪く、寂しい子ども時代を過ごしたと言われています。
その時の不安や悲しみがその後の彼女の人生に影を落とし、さらに結婚当初からすでに破綻していた夫との関係に悩んだダイアナ妃は過食症に陥ってしまいました。
そしてあれだけ美しく魅力的な女性でありながら、自分は愛される価値のない者だという強迫観念から彼女は逃れることができなくなって、ある時から彼女は心理療法医に会ってカウンセリングを受けるようになります。
そこで自分と同じような悩みを抱えている人が数多くいることを知って驚くのです。人から愛されない、必要とされないと思っている人は自分だけではないことを知ったとき、彼女の目は社会的に弱い立場にいる人々へと向けられてい<ようになりました。
そのような折り、彼女の人生を変える出会いがありました
それが敬愛するマザー・テレサとの出会いです。
この出会いの中で、彼女は
「人をいやすためには、あなた自身が傷つかなくてはなりません」というマザーの言葉に心を動かされます。
その言葉を聞いてダイアナ妃は、深く傷ついた自分ゆえに人に与えられるものがあることを発見し、多くの慈善事業に従事するようになっていくのです。
人々から拒絶され、必要とされない人たちの内に、ダイアナ妃は自分の姿を重ねて見ることができました。彼女は、傷つき苦しんでいる人の心にふれることができた人でした。
ダイアナ妃は自分の辛い過去を嘆き、人々から愛され慰められることを一生求めながら生きることもできたはずです。
しかし、かえってそのような負の経験を生かし、人々を慰め励ます生き方を選びました。
彼女がこのような人生を選ぶようになっていく背後には多くの人の祈りがあり、愛する人との出会いがあり、主なる神様の導きがあったに違いありません。
こうして愛されることより愛することを選んだとき、彼女自身もいやされ、生き生きと輝いていくようになりました。
自分の心と出会い、他者の心と出会っていき、その思いを共有していくという感性がとても大切なものであることが分かりますが、日本においてはこうしたことがあまり重要視されてこなかったように思われます。

横浜市立大学名誉教授の伊藤隆二氏は、日本の教育の現状について次のように述べています。「いまの教育は、知識の伝授と理解力の育成に、あまりにも偏りすぎていることを嘆かざるをえません。教育基本法の第九条第二項で、国公立の学校は、特定の宗教のための宗教教育をしてはならない、と規定されているものの、自然な、敬虔なこころをはぐくむ教育までもほとんど完全に除外してしま
った学校が、偏った理性の啓培場になりさがったのは当然です。」
「こころの教育14章P191」(伊藤隆二)

伊藤氏が指摘しておられるような日本の教育の現状は、障害者と健常者を分けて教育をする。もっといえば障害者は一般の学校に行って学ぶことが出来ないような制度、設備、体制になっていることにも現れています。
障害者との出会いがなぜ私たちの感性を育てるのかといえば、

1)自分が変わらざるをえない
ハンディキャップのある人とない人がいますが、ハンディキャップのある人と生活しようとすれば、どうしてもその人のことを、相手の立場に立って考えざるをえなくなります。

2)彼らがこころと出会うことに敏感である
差別されたり痛みを味わったりすることによって、人は心に敏感になるようです。それによって対人恐怖症のような病に陥る人もありますが、口先の言葉ではなくこころを見抜く人たちです。

3)彼らは喜びも悲しみも深い人たちです。すなわち感性の豊かな人が多いのです。
これは障害者がすべてこうだということではなく、一つの傾向を述べたに超ぎませんが、イエス様は、数多くの障害者の方々との出会いの中で、弟子たちがこころと出会うことが出来るように、豊かな感性を持つ者になるように彼らを訓練なさったに違いありません。

ですから、後になって、彼らは異邦人にも分けへだてなく福音を伝えるようになり、ペテロは皮なめし職人の家に滞在するようにもなってまいります。
「人はうわべを見るが、神は心を見る。」といわれています。また、主イエスが最も重要なおきてとして私たちに与えられたみ言葉、

「イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一め掟である。
第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
律法全体と預言者は、この二つの捷に基づいている」
興味深いのは、『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして』これらはみな感性に関わることです。この教えは、私たちに感性が豊かにされることを祈り求めなさいという教えでもあると思います。
冒頭にも書きましたが、現在は、子供たちの不登校、学級崩壊などが起こるようになりました。こうしたことは、こころと出会っていない大人達への子供たちの警告であるように思えてなりません。

自殺者は昨年度は統計を取り始めて高水準にあります。先進国といわれる国々で日本ほど自殺率の高い国はないのです。
愛に飢えている人が多いこの日本の社会に私たちは召されています。
神様は私たちの心をご覧になる神様でありますから、心が豊かに整えられていくように、キリストのこころに少しでも近づいていくことが出来るように祈り求めていきたいと思います。

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