天に名が記されている

 「あなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」
                 (ルカの福音書10:20)

 いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです。
 あなたがたのうちのだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
 ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。ああ、信仰の薄い人たち。
 何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。
 これらはみな、この世の異邦人たちが切に求めているものです。しかし、あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。
  何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。 小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。
 持ち物を売って、施しをしなさい。自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。そこには、盗人も近寄らず、しみもいためることがありません。
 あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです。
               (ルカの福音書12:23~34)

名が天に記されている

 「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」。「悪霊があなたがたに服従する」ということを弟子たちは体験しました。それは彼らが地上の人生において、主イエスを信じて従い、主イエスの先駆けとして派遣されて神の国の福音を宣べ伝えていく中で体験したことです。

 信仰者の人生にはこのようなすばらしい体験、大いなる喜びが与えられます。そういう約束が与えられているし、私たちはそれを信じてよいのです。けれども主イエスはここで、本当に喜ぶべきことはそれではない、と言っておられます。「むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」。信仰をもって生きる時、私たちは地上の人生において、悪霊をも服従させるようなすばらしい体験をすることができます。

 しかしたとえそれができなかったとしても、私たちに与えられる本当の喜びはそれによって左右されないのです。本当の喜びは、私たちの名が天に書き記されていることにこそあるのです。名が天に記されている、それは、神様が、ご自分の救いにあずからせる者として私たちの名を書き記して下さっている、ということです。

 私の名前が、天国の神様のリストに書き記されているということは、もはやそれは消し去られることはない、ということです。地上の人生においてどのようなことがあっても、信仰の歩みにおいて害を加えられ、志半ばで命を失うようなことがあっても、人生の戦いに破れて、望んでいた成果をあげることができなくても、あるいは誘惑に負けて罪を犯し、サタンに「この人はこんな罪を犯した」と神様の前で訴えられてしまうことがあっても、神様は、「いや、この人の名は私のこのリストに書き記されている。この人は私の民、私の救いにあずかる者だ」と宣言して下さるのです。

 私たちの信仰は、主イエスの十字架と復活と昇天によって、神様が私の罪を赦して下さり、私の名を天に記して下さったことを信じることです。そこにこそ、信仰者に与えられる本当の喜びがあります。この喜びを与えられる時、地上の人生において何があっても、「あなたがたに害を加えるものは何一つない」という約束が真実であることを知ることができるのです。

富を天に積むとは

 「富を天に積め」とありますが、それは、施しなどの良い行いをすることによって言わば神様に貸しをつくり、その報いとして救いを得ようという話ではありません。「富」というのは、私たちが頼りにしているもの、より頼んでいるものです。それをどこに置くか、が問われているのです。

 それを天に積むとは、神様にこそより頼むことです。地上に富を積むとは、自分自身により頼んで生きることです。持ち物を売り払うことが天に富を積むことになるのは、それが自分の蓄えにではなくて神様により頼むことだからです。そのようにして天に積んだ富は、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない、それは、天の父なる神様の愛により頼むことこそが私たちにとって本当に確かな支えであることを語っています。地上に積んだ富、つまり自分自身により頼んで生きることは、まことに不確かな、危うい、愚かなことなのです。

 「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」と最後の34節にあります。これも今申しましたように、本当に頼りにしているもの、より頼むものをどこに置いているか、ということです。人生を養い装うのは自分自身だ、と思っているならば、その人は自分により頼んでおり、つまり富を自分に積もうとしており、その心は地上にあって天にはないのです。

 しかし信仰に生きるとは、父なる神様が自分の命と体を養い、装って下さることを信じ、その神様により頼むことです。それが富を天に積むことであり、その人の心は地上にではなく天に向けられています。神の国をこそ求めています。そこに、思い悩みや不安から解放され、自己実現の貪欲から自由になって、自分に与えられているものを他者のために用いていくことができる新しい歩みが与えられるのです。