神の愛と人間の罪

 人間は罪ゆえに苦しみます。悪事を行なえば他人を傷付けるばかりでなく自分をも傷付けるのです。人間は罪によって罪悪感を持ち苦しみます。 また、人間は罪悪感に悩まされるのは嫌ですから、自分の悪事を正当化しようとするのです。嘘をついても嘘と呼ばず、その場を繕って嘘の発覚を逃れようとします。 電話でのセールスでは、自社の製品がどれほど良いかセールスマンは説明しますが、マイナスになる事はいっさい口にしません。

 人間は良い行いを試みますが、動機が不純です。金銭的な見返りやお礼、または名誉や名声を期待します。金銭的な見返りやお礼がない場合は、失礼だと言って他人を非難します。 しかし、人間は本来、罪を犯すために創造されたのではありません。むしろ、神を愛し、隣人を愛するように創造されたのです。

 ところが、人間は神に対して罪を犯し、隣人に対して罪を犯す道を選んでしまいました。結果として、罪ゆえに人間は神の裁き、永遠の死という裁きを受けます。人はこの様な罪の苦しみから救われたいと、様々な方法で救いの道を求めます。しかし、それは不可能な事です。 人間は自分自身を救う事はできません。父なる神は、これらの人間の苦しみを見て哀れみを示し、神の子であるイエス・キリストを地上に送られました。ヨハネ3章16節ー17節を読んでみましょう。

 「3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
  3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」

  イエス・キリストは、人間を罪の苦しみと神の裁きから救うために、人間として生まれ、私たち一人ひとりの罪のために死なれたのです。 この救いは、肉体的な欲望を満たすものでもありませんし、肉体的な痛みや病気からの解放でもありません。むしろ、霊的、精神的に満たされない私たち人間を満たしてくれる救いです。 イエスを信じる者すべてが、永遠の死という裁きを逃れ、永遠の命を与えられるという救いです。

病人と罪人

 罪ある世の中で私たちはもがき苦しみますが、その状態はちょうど病人と同じです。

 イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。 ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」           (マルコ2章15節ー17節)

 あなたが病院に行く時はどんな時でしょうか。自分が健康だと思っている人は行きません。自覚症状が必ずあるはずです。同じように自分が正しいと思っている人は主イエスの所に来ません。事実、すべての人は罪人です。神はすべての人が救われることを望んでおられますが、脅して信じさせることはしません。 主イエスが言っていることばの中に、「聞く耳のあるものは聞きなさい」ということばあります。 これは神が私たちに与えている自由意志を表したことばです。主イエスのことばを信じるか信じないかは自由なのです。

 「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」          (1テモテ2:4)