神を知るとは

 神様が判る。神様を知る。それは、人間が求めている最高の知識と言って良いでしょう。人類の築いた文明は、全てこの知識を得る為に営まれてきたといっても過言ではありません。占いも、科学も、哲学も、究極的な知識としての神を知る。そこに向かって営まれてきたのです。もちろん、全ての宗教も又、そこに向かっての営みであったと言って良いでしょう。
 それは人間存在の究極、この世界の根源に関わる、最も深い知識なのです。それは神の秘義、神の奥義と言って良いものです。人はそれを求め研究し、あるいは修行をし、何とか手に入れたいと願い求めてきました。しかし、それを手に入れた人はいませんでした。何故なら、それを手に入れることは自らが神になるということだったからです。
 しかし、この神様を知るという道は、私共が考えていたのとは、全く別のあり方で拓かれました。それは、人間が神に近づくのではなく、神様が人間となり、私共に近づいてきて下さるという、全く人間が考えてもいなかった道が拓かれたのです。イエス・キリストを知ることは神を知る事に他なりません。

 弟子達は、イエス・キリストと共に歩むことによって、主イエスが誰であるかを知ったのです。そしてそれは、神を知るということだったのです。彼らは、神の奥義を知らされたのです。彼らは、無学な者でした。彼らは自らの知恵に頼り、力に頼り、神の奥義を知ったのではありませんでした。彼らは知らされたのです。神の奥義が、彼らの前に啓かれたのです。

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 主イエスはこう言われました。21節「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」

 幼子のような者。これは弟子達のことを指している訳ですが、彼らが幼子のように純真であるということではありません。「知恵ある者や賢い者に隠して」とありますから、「幼子のような者」というのはその反対のことを意味しているのでしょう。つまり、知恵のない者、賢くない者ということです。知恵のある者や賢い者に隠されて、幼子のように知恵のない、賢くない弟子達に知らされた、明らかにされた。それは、実に御心に適うことであったというのです。

 知恵ある者、賢い者は、自らの知恵に頼り、神様を知ろうとする。そこには、何よりも神様の御前における謙遜がないのです。自らの知恵に頼って神を知ろうとする者は、自らの知恵の中に神様を取り込もうとします。それは必ず、自らが神となる道を歩むことになるのです。それが御心に適わないことは明らかでありましょう。

 神様は、どこまでも神様であられます。神様は自由であり、私共の知恵の中に取り込まれることを、拒否されるのです。

 以下に挙げる科学者たちは、知恵ある者、賢い者ですが、彼らは宇宙に出かけた事によって、自らの小ささを知らされたのです。神の前における自分の弱さを知る事によって、真実に謙遜なものとされたときに、彼らも神と共に生きる喜び、生かされている恵みを知るようになるのです。

このイエス・キリストの言葉と同じことを、使徒パウロはコリントの信徒への手紙一1章18~31節でこう語っています。

 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。…知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
 兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです。」

 主イエスの弟子達も、コリントの教会の人々にも、知恵ある人、学者などは居なかったのです。私たちもそうです。私たちが救われたときのことを思い起こしてみてください。万巻の書を紐解き、遂に主イエスが神の子であるという認識に至ったということではないでしょう。聖書を読み、教会に集っている中で、このことが明らかにされたのでしょう。

 福音が判る、主イエスが判る、神様が判るということと、私共人間の知恵とは、何の関係もないのです。主イエスは、22節「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」と言われました。実に神様が判る者は、御子イエス・キリストとイエス・キリストによって神を知るようにと選ばれた者でしかないのです。キリストの弟子達は、私共は、神さまに選ばれ、この神の奥義を知らされたのです。

 信仰を求め、教会に来はじめた方の多くは、何を学べば信仰を得られるのかと問います。その前提には、信仰というものは自分が何か信じるべき内容を学ぶことによって得られると考えている所があるのかもしれません。しかし、キリスト教の信仰というものは、何かを学ぶことによって得るというものではないのです。

 だったら、何も知らなくて良いのか?もちろんそういうことでもありません。神様はどういう方か、イエス様はどういう方か、それは聖書を読んで学ばねばなりません。しかし、聖書をこれだけ読めば、あなたも立派なクリスチャンという具合にはいかないのです。

 主イエスと出会う。神様に触れる。いや、自分が神様に触れられていることが判るということが起きなければならないのです。

 それは、牧師が起こせるようなものではありません。だったら、牧師は何をするのか。聖書の言葉を語りかけ続けるのです。一緒に聖書を読むという形で行われることもあるでしょう。しかし、何よりもこの礼拝に集っていただく中で、聖書の言葉に触れ、それによって、主イエスに触れ、神様に触れていっていただくことを待っているのです。

 自分が神様に愛されている、そのことがはっきり判る。それに気付けば良いのです。しかし、それは神の出来事、神の働きです。人が起こすことは出来ません。しかし、神様は人を用いて、その救いの出来事を起こして下さるのです。私はそのことを信じておりますし、その為に用いられることを、何よりの誇りとしているのです。

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調和のとれた宇宙

 私たちは、宇宙自然の荘厳さ、美しさ、偉大さを通して、神の存在を知ることができます。聖書は言っています。

 「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はない」(ロマ1:20)。

 つまり神の永遠の力と神性は、被造物である宇宙自然によくあらわされている、ということです。かつて月に2度行ったことのあるアメリカの宇宙飛行士ジーン・サーナンは、こう語りました。

 「宇宙から地球を見るとき、そのあまりの美しさに心を打たれる。こんな美しいものが、偶然の産物として生まれるはずがない。ある日ある時、偶然ぶつかった素粒子と素粒子が結合して、偶然こういうものができたなどということは、絶対に信じられない」。

 しかし、大自然の美しさは、なにも宇宙に出なくても、私たちの身近なところにあります。あなたは、澄んだ夜空に悠遠な星々を見上げて、言いようもない思いにかられたことはありませんか。
 あるいは、愛らしい花々が風に揺らぐ姿を見て、美しいと思ったことはないでしょうか。雪の結晶のあの整然とした姿、バラエティに富んだ生物界の神秘を見て、感動したことはないでしょうか。

 あなたは、人の胎児が母の胎内で成長していくときの映像を、見たことがありますか。なんと神秘に満ちた光景でしょう。あなた自身も、あのように1個の受精卵の細胞分裂に始まり、やがて60兆の細胞からなる複雑な組織と器官による体を持つようになったのです。

胎児の成長は「神秘」に満ちている

 あの革命家ナポレオンでさえ、
 「神秘を笑うものは愚かである」
 といいました。私たちはどうして、生命の神秘を笑うことができましょう。大自然の驚異、生命の神秘、宇宙の荘厳は、みな神のものなのです。
 芸術家の感性は、その作品の上にあらわれないでしょうか。建築家の能力は、その建築物にあらわれないでしょうか。宇宙自然には、じつに、神の永遠の力と神性とがあらわれているのです。

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すべての人の心にある宗教心

 神の存在を示すもう一つのことを、あげておきましょう。
 それは、すべての人に、多少なりとも、宗教心が備わっているということです。聖書は言っています。
 「神は・・・・人の心に永遠を思う思いを授けられた」(伝道3:11)。
 ふだんは無宗教を自認する人でさえ、危機的な状況に置かれたとき、神仏に祈ることがあるのは、一体なぜでしょうか。

 シャカが29歳のときに王宮を出て、苦行の旅に出たのは、なぜでしょうか。聖フランシスが富商の家に生まれながら、家出をし、清貧の生活に入ったのはなぜでしょう。

 あるいは文豪トルストイが、名門伯爵家に生まれ、作家として名声を得ながら、なお放浪の旅に出たのは、一体なぜでしょうか。彼らには、心の中に渇きがあったのです。

 すなわち、宗教心です。こうした宗教心は、多少の差はあっても、すべての人に備わっているものです。これは、科学が進歩し、生活が豊かになり、文明がいかに進歩しても、決して人々の中からなくなるものではありません。  こうした宗教心は、ある意味では人間であることの"証し"であり、人間として当然のものです。宗教心は、人間の内に一種の"本能"のように備わっているものなのです。

 人間には、様々な本能が備わっています。そして本能には、必ず"対象"が存在します。

 たとえば赤ちゃんが泣く。乳が欲しいからです。そこには、乳という対象が存在しているのです。また食欲には、食物という対象があり、性欲には異性という対象が存在します。草が上に伸びる。そこには太陽の光という対象が存在しているからです。

草が上に伸びる。そこには太陽の光という対象が存在しているからだ
 本能には、いずれも対象が存在します。同様に、人間に宗教的本能が備わっているのも、神という対象が存在しているからにほかなりません。
 「神は・・・・人の心に永遠を思う思いを与えられた」のです。神はすべての人に、永遠を思う宗教心をお与えになりました。
 しかし人間は、自らの有限性や弱小性のゆえに、自分の知力だけでは、神の世界や永遠の世界を完全に知ることができません。ですから、

 「神は・・・・人の心に永遠を思う思いを授けられた」

 の聖句の次には、

 「それでもなお、人は神のなされるわざを、初めから終わりまで見きわめることはできない」

 と続いています。人間は、自分の知力だけでは、いくら修行を積んでも、またいくら悟りを開いたといっても、神の世界や、永遠の真理の世界を見きわめることはできません。

 人間が始めた宗教に、数多くの種類があるのは、そのためです。人間の不完全さのゆえに、人間が始めた宗教には様々の神がいます。
 しかし、世界に多くの宗教があるといっても、それらをつきつめると、実際には"人からの宗教"と"神からの宗教"の2種類しかありません。

 "人からの宗教"つまり人から出た宗教とは、人間の思索や悟り、直観などを通して、人間によってつくり出されたものです。それは、あるときは太陽を神と思ってみたり、大自然全体を神と思ってみたり、或いは「神」という言葉を用いずに測り知れない実在に向かって崇敬の念を表したりしました。
 世界の宗教のほとんどは、これに属するものです。こうした宗教については、
 「宗教は人間がつくり出したもの、神も人間がつくったもの」
 という言葉は当てはまっている、と言えるでしょう。

 人々のなかには、宗教について、  「数多くある宗教は、その道は違っても、みな同じ所を目指している。ちょうど富士山を、山梨側から登っても静岡側から登っても、同じ頂上に着くように、宗教は道は違っても、結局は同じ所にたどり着くものである。だから、どの宗教を信じても同じなのである」

 という人もいます。この考えは、"人からの宗教"に関する限り、正しいに違いありません。それは確かに、同じ山の頂上に着くでしょう。
 しかしそれは決して、天の高きにまで私たちを伴うものではありません。"神からの宗教"つまり真の実在の神ご自身から出た宗教のみが、天の世界を私たちに啓示し、また私たちを天国にまで導くのです。

 人からの宗教、言いかえれば"下からの宗教"には、言うまでもなく限界があります。しかし"上からの宗教(実を言うと、これを宗教という概念で現すことは難しいのですが)"――神から啓示された真の宗教のみが、私たちを天国の祝福にあずからせるのです。

神の基本的な事柄

 では、神が存在されるのであれば、神はどのようなかたで、どのようなご性質のかたなのでしょうか。
 こうした問いに対して、明確な知識を持つことは、私たちの人生と信仰にとって、ひじょうに大切なことです。神を知らずに宇宙を知ることはなく、創造主を知らずに人生を知ることはありません。
 神に関するこの知識は、神が人類にお与えになった書物――聖書の中に、啓示された明確な知識として、見い出すことが出来ます。では聖書は、神はどのようなかたであると、述べているでしょうか。

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神は天と地を創造された方

 まず聖書の啓示が明らかにした神に関する最も基本的な知識として、神は天地宇宙の創造者である、ということがあげられます。
 世の中に「神」と呼ばれるものは、たくさんあります。特に日本では、古来から"八百万の神"がいると言われ、また人は死ねば"神や仏になる"とも言われます。

 そうしたことからもわかるように、日本古来の考え方による「神」は、ひじょうに人間的です。死んで神になった「神」は、もとは人間だったわけで、「神」と言っても、実際は死後の人間の霊をそのように呼んでいるに過ぎません。

 こうした「神」は、言うまでもなく、想像と因習の産物であり、言わば"人間が造った神(々)"です。
 しかし聖書の述べる神は、人間を造り、また天地万物を創造された神です。神が人間を造り、天地宇宙を創造されたのです。聖書はその真理をその冒頭で述べ、
 「はじめに神は天と地とを創造された」(創世1:1)
 と言い表しています。神は、無から有を生じさせる力のある唯一のおかたです。

神は私たちを養っておられる

 神は創造者であるとともに、私たちを養っておられる方です。

 「烏の子が神に向かって鳴き叫び、食物がなくてさまようとき、烏にえさを備えるのはだれか。
  あなたは岩間の野やぎが子を産む時を知っているか。雌鹿が子を産むのを見守ったことがあるか。
  あなたはこれらがはらんでいる月を数えることができるか。それらが子を産む時を知っているか。」(ヨブ記38:41~39:2)

唯一にして絶対なるお方

 次に、神は唯一にして絶対のおかたです。
 「われわれの神、主は唯一の主である」(申命6:4)
と聖書は述べています。神は唯一で、他に神は存在しません。
 「多神教」は宗教の堕落した形態であって、人間的な空想によって産み出された虚偽の知識です。神に関する真の知識は、唯一神の信仰の中に受け継がれています。

 そしてまた、神は唯一であるとともに、"絶対"の神です。かつて、イスラエルの指導者として立てられたモーセに対して神は、  「わたしは有って有る者」(出エ3:14)
 と言われました。この言葉は別訳では、
 「わたしは、『わたしはある』という者である。(英語では I AM THAT I AM.) 」

 となっています。神のみが、真に「わたしは有る」と言えるおかたです。神は本当の意味で、唯一、"実在"と言えるおかたなのです。
 私たち人間の寿命は、平均でせいぜい70~80年、つまり永遠の尺度から見れば、ほんのわずかの時間存在している者に過ぎません。人間には死があり、肉体の朽ち果てる時があります。人間は、言ってみれば"有って無い者"という言葉が当てはまるでしょう。

 しかし神は"有って有る者"です。神は永遠に存在し、死ぬことがなく、無に帰することもありません。

 また、宇宙や私たち人間というものは、自ら存在しているというよりは、"存在させられているもの"に過ぎません。私たちは、(神によって) 存在に至らしめられ、また存在の中に保たれている者に過ぎないのです。私たちの存在の原因は、神にあります。

 しかし、神は自ら存在し、真の意味で宇宙の"実在者"なのです。神は"自存"のおかたであり、宇宙において、絶対の権威を持っておられます。

 そうした意味で、神は万物の中心であり、真の絶対者であると言えます。「絶対」とは、文字通り、"対立を絶する"ことです。
 神の前に対等に立てるものは、何ひとつありません。どんな人間も、どんな被造物も、神と対等ではありません。神の意志が宇宙の意志であり、神のご判断が最終的な判断です。絶対的な主権は、神にあります。

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霊であり人格を持つ

 イエス・キリストは、神について、
 「神は霊である」(ヨハ4:24)
 と言われました。神は物質ではないので、肉眼で見たり、手で触れたり、肉体の感覚でとらえることは出来ません。

 神は「霊」であって、無形の、目に見えない実在です。
 聖書では、「霊」は、人間も持っているとされています。「霊」は、人間においては知性、心情、意志などの精神活動の座であり、生命活動の主体です。人間は、物質的身体の中に「霊」を宿した、精神的な存在なのです。

 ですから、神が「霊」であるということも、神が知性、心情、意志などの心の働きを持つ、精神的存在者であるということです。つまり神は、「人格」(本当は "神格"と言った方が良いのでしょうが)を持ったかたであり、「喜ぶ」「悲しむ」「愛する」「憤る」などの心情や、「知る」「決意する」などの心の働きを持ったかたなのです。
 ところで聖書は、この霊なる神が宇宙を、衣のように「着ている」と述べています。

 「あなた(神) が、着物のように取り替えられると、それら(宇宙) は変わってしまいます」(詩篇102:26)。
 このように聖書によれば、この物質的宇宙は、言わば神が「着物」のように上に着ているものなのです。ちょうど人間においては、霊が物質的身体を着物のように上に"着ている"ように、霊なる神は物質的宇宙を、着物のように上に"着ている"のです。

  世界= 神(霊)――(物質的)宇宙
  人間=   霊 ――(物質的)身体

人が肉体を着ているように、神は宇宙を着ておられる
 ですから、ある意味では、人間はちょうど、神―宇宙という壮大な関係を"縮小"したような存在です。人間は、言わば、神―宇宙の"縮小モデル"であり、神―宇宙は、言わば、大きな人間のようなものです。

 つまり、人間の物質的身体の奥に「霊」が存在するように、この広大な物質的宇宙の奥には、「霊」なる神が存在するのです。

 ただ、これはもちろん、宇宙が神の「体」であるとか、体が宇宙と等しいとかいう意味ではありません。宇宙と体、神と人間の霊の間には、明確な違いと、区別があります。
 しかし、私たちが一人の人間を見て、その物質的身体の中に「霊」と呼ばれる精神的実体があることを認めるのと同じように、私たちはこの広大な宇宙の奥に、「霊」にして人格を持つ偉大な神がおられることを、認めるべきなのです。

神のご性質

 神は、このように"造られない造るおかた""唯一にして絶対"また"霊であって人格"を持つかたです。しかし聖書は、神がどういうかたであるかについて、さらに多くのことを示しています。
 それらの中で最も重要な事柄は、神の全知、全能、無限、遍在、永遠、不変、聖、義、愛のご性質です。

1 全知・全能

 まず、神が「全知」であるとは、神は全歴史、全時間を、一度に見わたすことが出来、全時代、また全世界のすべての事柄を知っておられる、ということです。

 人間の場合、感覚を通して知ることの出来るものは、現在の事柄、それも自分の周囲にあって見たり、聞いたり、触れたりすることの出来るものだけです。過去のことについては、人間は言い伝えや、文書等を通して知り、未来のことについては、想像を通して知るのみです。
 しかし神は、過去、現在、未来を一度に見わたすことが出来ます。そして全時代、全世界、またすべての人の心にあるものを、つぶさに知っておられるのです。

 一方、神が「全能」であるとは、神はご自分が成そうと思われたことは、何でも成し遂げることが出来るかたであるということです。
 これは、神が"何でもなす"かたであるということでは、もちろんありません。ある人は、
 「神には奇跡ができるのなら、今、それを見せてみよ」
 とか、
 「神が全能なら、自殺も出来るのか」
 などと問うことがありますが、こうした言葉は、まったくナンセンスなのです。

 神は「全能」であると言っても、それは"何でもする"ということではなく、ご自分が意志することを何でもすることが出来る、という意味に過ぎないからです。神は、ご自身の他のご性質と矛盾しない範囲でのみ、全能を発揮されるのです。

2 無限・遍在

 また神は、はかりがたく、無限で、窮めることの出来ないおかたです。
 数学では、「無限」を表すのに ∞ という記号を使いますが、そのように私たちは、少なくとも「無限」という概念を持っています。神が「無限」のおかたであるという場合、それは、神は何によっても限定されないかたで、限り無く、私たちの想像を絶した偉大なかたであるということなのです。

 神はまた、万物に遍在されます。すなわち、あまねく、どこにでも存在されます。聖書は神を、
 「すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内におられる」(エペ4:6)

 おかたであると述べています。(また詩篇139:7~10参照)
 神は万物の上にあり、万物を貫き、万物の内におられるかたです。神は万物を超越しつつ、内在しておられ、また宇宙自然との間に明確な区別を持ちつつも、その中に遍在しておられるのです。

 この聖句からもわかるように、宇宙イコール神とみる考え(汎神論) は、明らかに間違いです。神は、宇宙に内在はされても、さらにその「上にあって」宇宙の中に限定されず、宇宙を超越しておられるからです。
 宇宙自体を神と見、神を宇宙の中に限定して(閉じ込めて)しまうことは、神を小さくしてしまっているのです。しかし真の神は無限のおかたであり、宇宙を超越し、かつ、宇宙の中に内在し、遍在しておられるのです。

3 永遠・不変

 また神は、「永遠」にして「不変」のかたです。まず神の永遠性について、聖書は言っています。
 「山々が生まれる前から、あなた(神)が地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまで、あなたは神です」(詩篇90:2)  神は、永遠から永遠まで神であり、始めなく、終わりなきかたです。神は時間を超越しておられ、人間のように時間の中に限定されたりしません。神にとっては、
 「一日は千年のようであり、千年は一日のよう」(Ⅱペテ3:8)
 です。短い時間も、長い時間も、さらに永遠さえも、神の御前では大きな違いをもちません。

 さらに神は、とこしえからとこしえまで、神としてのご性格を変えることなく、そのご性質は不変です。神は聖書の中で、
 「主であるわたしは変わることがない」(マラ3:6)
 と言われています。その真実で、恵み深く、怒るにおそい神のご性格は、永遠に変わることがない、と言われているのです。

4 聖

 また神は、「聖なる」かたです。聖書の中で神は、
 「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主」(イザ6:3)
 と賛美されています。

 この「聖なる」とは、単に道徳的に「きよい」という意味ではありません。むしろ原語の意味は、"超絶"とか、"分離"等の意味を持っています。
 つまり、神が「聖なる」かたであるというとき、それは基本的には、神が被造物の世界を超越し、離れておられるかたであるということを、意味しています。その結果、汚れに染まったこの世界からも離れておられ、結局「きよい」という意味にもなるのです。

5 義
 また神は、「義」なる神です。
 神が「義」なるかたであるとは、神が人間に対する関係の中で、常に正しい態度を取られるということです。
 神の「義」は、とかく"人間をさばき、罰するもの"と思われがちですが、神の「義」は、人間を罰するだけではありません。神は「義」であるゆえに人を罰し、また「義」であるゆえに、人を赦し、また救うのです。
 聖書で使われている「義」という言葉は、「まっすぐな」というような意味で、神が「義」であるとは、神が人に対する関係の中で、「まっすぐな」関係を持たれる、つまり正しい態度をとられるということです。
 神の人間に対する正しい態度とは、どのような態度でしょうか。明らかにそれは、罰すべき者は必ず罰し、赦すべき者は必ず赦してくださる、ということです。

 そして聖書は、神はそういうかたである、と述べているのです。聖書は、
 「主は・・・・罰すべき者は必ず罰して報いる者」(出エ34:7)
 と述べ、一方では、
 「もし私たちが自分の罪を(神の前で) 言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(Ⅰヨハ1:9)
 とも述べています。このように神は、罰すべき者を罰するだけでなく、赦すべき者は必ず赦される神です。

 この聖句で、私たちが罪を告白し悔い改めるなら、神はその罪を赦してくださると言う場合に、「神は愛であるから」とか、「神は恵み深いかたであるから」とか言われているのではないことに、私たちは注意を払うべきです。

 神が私たちの罪を赦してくださるのは、基本的に神が「真実で正しい方」であるから、言い換えれば、神が"義"なるかただからです。このように神は、「義」であるゆえに人を罰し、また「義」であるゆえに、人を赦されるのです。

 人の「救い」は、神の「義」なしにはあり得ません。神は「義」であるゆえに、人々のために救いの道を開かれました。そしてその「神の義は・・・・福音(キリストの教え)の中に啓示されている」(ロマ1:17)のです。

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6 愛

 最後に、神は「愛」です。聖書は言っています。
 「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです」(Ⅰヨハ4:8)
 神は、すべての人々に対して、深い愛情を持っておられます。イエス・キリストは、
 「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」(マタ5:45)
 と言われました。神は、すべての人に対して慈悲深く、恵みに富むかたです。さらにキリストの使徒ペテロは、
 「(神は) あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを、望んでおられるのです」(Ⅱペテ3:9)
 と語り、すべての人が悔い改めと信仰に進んで、救いに入ることを神は望んでおられると、述べています。

神の愛はイエス・キリストにおいて完全に現わされた

 この神の愛は、母の愛にも似ています。私は次のような実話を聞いたことがあります。ある若い男がいました。彼は不良仲間の感化を受けて、しだいにぐれた生活をするようになりました。彼の母親は、そうした彼の生活を見ながら、心を痛めていました。

 彼はやがて、最も凶悪な犯罪を犯してしまいました。人を殺したのです。彼は警察につかまり、裁判にかけられました。証拠は歴然としていました。裁判で証人が、彼に不利な証言をするたびに、母のほうがより強く痛みを感じているようでした。

 ついに、彼に対する有罪が確定し、死刑の宣告が下されました。人々はその宣告に満足しました。けれども母は、たじろがず、赦しを懇願しました。それは、受け入れられませんでした。ついに刑が執行され、そののち母は、遺体の下げ渡しを願いました。それも許されず、遺体は慣習に従って、監獄の庭に葬られました。

 しばらくして母は亡くなりました。しかし彼女は臨終の時、ただ一つの遺言を残しました。彼女はその遺言の中で、自分が息子のかたわらに葬られることを願ったのです。彼女は、自分が殺人犯の母と知られることも恥じませんでした。母には、このような愛があります。どんなに出来の悪い子でも、どんなに大きな罪を犯した子でも、その子への愛情は変わらないのです。

 「わたしのはらわたは、彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない」(エレ31:20)
 と神は人々について言われました。神は、罪におぼれる人々を、断腸の思いで見られるのです。これはまさに、どんなに出来の悪い子でも、どんなに大きな罪を犯した子でも、「はらわた痛む」思いをもってその救われることを願う、慈母の心です。

 クリスチャンは、神様を「天のお父様」と呼びます。神はそのように、基本的には父性的なかたですが、あるときは非常に母性的な愛をお見せになります。聖書には、イスラエルの指導者であったモーセが、民に次のように言った箇所が出てきます。

 「あなたがたは荒野で、あなたの神、主が、人のその子を抱くように、あなたを抱かれるのを見た。あなたがたがこの所に来るまで、その道すがら、いつもそうであった」(申命1:31)。

 神は、ちょうど慈母が子を抱くように、人をその御腕に抱かれるのです。
 「母が子を慰めるように、わたし(神)はあなたがたを慰める」(イザ66:13)
 今日も、多くの人は神に背き続けていますが、神はそれでも人々を心底慈しみ、断腸の思いで人々が神ご自身に立ち返るのを待ち望んでおられるのです。

 「女がその乳飲み子を忘れて、その腹の子をあわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしはあなたを忘れることはない。見よ、わたしは、たなごころ(手のひら)にあなたを彫り刻んだ」(イザ49:15)

 と神は言われました。私はこれらのことから、神は単に父性的なかたではなく、じつは非常に母性的なかたでもある、と言ってきました(マタ23:37)。神は単なる"厳父"ではなく、"慈母"のようなかたでもあられるのです。

 この神の愛は、イエス・キリストの十字架において、最も具体的な形であらわされました。神は、罪と滅びに向かっている私たちのために、救いの道を開かれたのです。