自分の心に宿る罪

「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。 もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」 (マタイ5章27節ー30節)

 新聞やテレビで放送されることの多くは、残念ながらいじめや、戦争、姦淫や盗み、殺人など、暗いニュースや否定的なニュースが多いようです。信じられないような事件が次から次へと起こります。この世の不幸はほとんどが人間自らがもたらすものではないでしょうか。

 この社会そのものが病んでいる。そこにいる人類一人ひとりが、たとえ体は健康そうに見えていても心は病んでおり、いやしを必要としているように私には思われます。聖書はこれを罪と定めています。このように国の法律を犯してしまう人に限らず、わたしたち人間すべてが罪人であると聖書は定めています。

 国の法律は、行いとして目に見えなければ罪を問うことができません。目に見える形で罪が犯さなければ罪に定めることは出来ないのです。法律的にいえば、邪悪なことを考えたり思ったりするだけで、それが行いに表れてこなければ罪とは言えないのです。

 実は、人間の罪は心の中にある欲望から始まっているのです。自分の心の欲望にかられて女性にわいせつな行為をしたり、または窃盗を働いたりするのです。

 自分の心を良く見つめてみましょう。ドロドロした感情、思いはないでしょうか。他の人に対する悪意はないでしょうか。そのような思いをもっていることに対して葛藤はないでしょうか。正しいことを行いと思っても出来ないことがあります。わかっていてもついつい悪いことをやってしまう、思ってしまうーそのようなネガティブな感情や行動は人間を苦しめます。この苦しみを次の聖句が語っています。

 「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」(ローマ7:17~20)

 私たちは、外面をきれいにして、かっこよく、美しく見せようとするものですが、大切なのは内面なのです。罪に汚れている自分自身の心が、気休めではなく、真実に清められていくことが出来るように私たちは求めていく必要があるのです。

 この時、自分自身の努力や修行などによっては、自分の罪を解決することが出来ないことに気づかされます。自分自身で心を清めるのは不可能です。主イエスの言葉を聴いて祈ってみましょう。主イエスに清めていただきましょう。心の重荷が取り去られるはずです。今日も素晴らしい日でありますように。