どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。1テサロニケ5:23

 

少しでも罪ある者は、神の前に立つことができません。ましてや神の家に招かれることもありえないことです。しかし、主イエスは、罪人を招くために来て下さいました。それは言葉を変えれば、私たちを「完全にきよい者とするために」神の目から見ても「非のうちどころのない者」としてくださるために来てくださったのです。

 

イエス・キリストによるあがないは、「あなたがたの霊、たましい、からだ」とあるように、私たちの全体、隅々に至るまで汚れのない者、清められた者としてくださるのです。キリストの十字架の死は、そのような力を持ったあがないということができます。この救いを受け取るために、聖霊が内に働いていてくださいます。

 

1ヨハネ1章7節には、「神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」と言われています。

 

罪からのきよめは、私たちのもっとも高いところから、もっとも低いところにまで及ぶのです。神が光の中におられるように、私たちをも光の中へと招いていてくださいます。主イエスを導かれた御霊は、私たちの魂をも導き、養ってくださるのです。

 

父と子と聖霊の圧倒的なきよめにあずかり、そして守られるようになる時、私たちはやがてここに記されているように完全にきよめられて神の家に迎えられる日が来るのです。そのための根拠はキリストの十字架と復活であり、聖霊による証印が押されていることです。このような祝福に与るようにと私たちは導かれているのです。

 

祈り

 

天の父なる神様、罪のためにあなたを見ることも近づくことも出来ない者ですが、このような罪びとを救うために、尊いひとり子をも与えてくださったことを心より感謝いたします。あなたの救いは、部分的な、一時的なものではなく完全な、永遠にわたる救いです。この救いの恵みがどれほど素晴らしいものであるかを覚えつつ、希望をもって生きる者とならせてください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。