13:6 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。

13:7 そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』

13:8 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。

13:9 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

 

杉やヒノキのような材木であれば、実がならなくても建築の材料として利用することが出来ます。しかし、イチジクの木は、そうした用途に用いることは不向きですし、観葉植物のように観賞用として植えておくのにも不向きです。イチジクは実がなってこそ利用価値があると言えるでしょう。

 

イエス様は、主人と園丁のやり取りをこのようにたとえによって説明されました。イチジクの木を植えたけれども実がならないので、その時の主人は園丁に言いました。「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。」

 

もしも畑を持っている人が、もう何年も実がならない作物があったら、その作物はやめて別のものを植えようとすることでしょう。この畑の主人もそのように園丁に話しました。しかし、園丁は、「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」と答えるのです。

 

ここに出てくる園丁の言葉は、神様の御心であり、イエス様の御心を表しているということが出来ます。

 

祈り

 

天の父なる神様、実のならないイチジクのように、自分では期待されたような実を実らすことが出来ない私たちのために、なお肥料を与えたり、雨を降らしたり、太陽の光を送って養ってくださるばかりか、あなたのひとり子であるイエス・キリストを、そして聖霊をも与えてくださる恵みを感謝いたします。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。