わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。ガラテヤ2:19~20

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。(新改訳)

 

「もはや私が生きているのではない」と言われていますが、もともと私たちがこの世に生を与えられたのは、自分の意思や力によって生まれてきたわけではありません。神によっていのちを与えられ、これまで育まれてきたわけです。私たちは、自分自身で生きているのではなく、神によって生かされている存在です。

 

ここでパウロが、「もはや私が生きているのではない」という直前で「私はキリストとともに十字架につけられています」と語っています。「私はキリストとともに十字架につけられています」とはどういうことなのでしょうか。文字通りパウロも十字架にかかったわけではありません。十字架にかかるとは死ぬことを意味しています。

 

生まれながらの自分に死ぬことです。罪はもちろんものの考え方も手放さなければ、誰もイエス・キリストに結ばれることはありません。それまで自分を中心に生きてきた考え方、生き方をやめて、神を神として生きるというあり方へと変えられていくのです。聖霊なる神によって生れ変るために、私たちの持っているものを手放すことが求められます。

 

ヘブライ11章には、「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、」(ヘブライ11:2)と言われています。自らのうちにある古い自分を十字架につけるとは、私たちのすべてを蝕むものとなっている罪や重荷を捨てて、悔いた砕かれた心を持ってキリストにより頼むことです。

 

祈り

 

天の父なる神様、コップに入っている泥水を出さなければ、きれいな水をここに入れることは出来ないように、私たちの内にある罪を無くすのでなければ、キリストに結ばれることは出来ません。キリストのあがないを信じて、この方をわが主として生きることは、自分がもはや自分の主人ではなくなることです。あなたをわたしの中心に、わたしのすべてとなるほどにお迎えすることが出来ますように。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。