彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。1テサロニケ1:9~10

パウロは、異邦人に伝道するとき、真の神への信仰に向かわせる第一歩として、彼らの偶像礼拝の誤りを指摘し、偶像を捨てて神に心を向けるように促しました。

「来るべき怒りからわたしたちを救ってくださる」とありますが、神の怒りが下るということは、神はその本性からして罪と相いれず、罪を裁かなければならない存在であるということです。

神は絶対的に聖なるお方ですから、「少々の罪があっても多めに見てあげよう」ということは決してできないお方なのです。

罪人に対して神の裁きは必ず下りますが、神の御子イエス・キリストは、自ら罪のない人としての生涯を送られ、罪のない神の御子が、私たちの身代わりに罪の裁きを受けて死んでくださったのです。「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ書53:5)と言われているとおりです。

祈り

天の父なる神様、弟アベルを殺したカインは、神に「私の罪は重すぎて担いきれません」と言いましたが、自らの罪を解決できない私たちに代わって救い主としてあなたの御子をお遣わしになり、罪を贖い、救いの道を拓いてくださったことを感謝いたします。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。