もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。1コリント9章16節

というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。(新改訳)

 

福音を伝えるということについて、パウロは、してもしなくてもよいこと、気が向いたらやってみようというような安易な気持ちで取り組んだのではありませんでした。救われるためにそれをしたのでもありません。それは例えば、河でおぼれている人を見つけたとき、やむにやまれぬ思いで、必死にその人を助けようとするようなものだと言えるでしょう。

 

神の召命に対して耳をふさいではなりません。救われた人は誰でも、その事実をあかしするために召されています。しかし、それがそのまま宣教への召命につながるのではありません。パウロはここで、福音を宣べ伝えなければならないと言っています。やむにやまれぬ思いをもって、また心の痛みとして、宣教の召命を捕らえています。

 

主は言われました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)主は、救いの条件として、弟子のすべきことをあげることはなさいません。私たちは、イエス・キリストの十字架の死と復活によって、またそれを受け入れる信仰によって救いをいただくことができます。そして神は、パウロを召されたように、信じる一人ひとりをも、それぞれに神の御心を行なう者へと召していてくださいます。

 

祈り

 

天の父なる神様、あなたは、私たちを救いの恵みに導きいれてくださるばかりではなく、あなたの御業を行なう者へと召し出していてくださいます。その召しに忠実にお応えすることができますように、御声を聞き、その御あとに従うものとならせてください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。