それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。「その声は全地に響き渡り、/その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです。それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。このことについては、まずモーセが、/「わたしは、わたしの民でない者のことで/あなたがたにねたみを起こさせ、/愚かな民のことであなたがたを怒らせよう」と言っています。イザヤも大胆に、/「わたしは、/わたしを探さなかった者たちに見いだされ、/わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」と言っています。しかし、イスラエルについては、「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」と言っています。ローマ10:18~21

そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。でも、こう尋ねましょう。「はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか。」むろん、そうではありません。「その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた。」でも、私はこう言いましょう。「はたしてイスラエルは知らなかったのでしょうか。」まず、モーセがこう言っています。「わたしは、民でない者のことで、あなたがたのねたみを起こさせ、無知な国民のことで、あなたがたを怒らせる。」またイザヤは大胆にこう言っています。「わたしは、わたしを求めない者に見いだされ、わたしをたずねない者に自分を現わした。」またイスラエルについては、こう言っています。「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。」(新改訳)

 

神は先ずイスラエルの民に救いの福音を伝えましたが、彼らはそれを受け入れようとはしませんでした。旧約聖書には、神が忍耐強くイスラエルの人々を導き、奴隷であったエジプトから脱出させ、約束の地に向けてのあゆみを神がともにいて守り導き、彼らが必要なあらゆるものを与えてくださいましたが、彼らは神の恵みに対して却って反抗し、不平をつぶやくような有様でした。

 

申命記8章には次のように記されています。「8:1 今日、わたしが命じる戒めをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたたちは命を得、その数は増え、主が先祖に誓われた土地に入って、それを取ることができる。あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。」

 

エジプトを脱出したイスラエルの人々は、約束の地に向けて荒野のたびを続けていきますが、そのころの彼らの数は民数記によれば20歳以上の兵役につくことが出来る男子だけで60万人ほどいたことが分かります。女性や子供もいたわけですから、200万人近い人が荒野のたびの間も神によって養われ導かれたことが分かります。

 

これはイスラエルの民だけのことではないでしょう。私たちも日ごろ神によって養われ生かされている一人ひとりなのですが、わたしを生かしてくださっている神に対しては無関心であったり、自己中心であったり、神なしで生きて生けるかのように思ってしまう傾向があるようです。そのような私たちに対しても、神は、「不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」とあるように今日も忍耐強くひとりひとりを生かし、支え、育み育ててくださっています。

 

祈り

 

天の父なる神様、今日もあなたのみことばを聞き、祈るひとときをお与えくださることを感謝いたします。「不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」とあるように、あなたの忍耐強い愛のゆえに、わたしにも心をかけてくださり、神を求め、神とともに生きる心を与えてくださいました。私はなお様々な弱さのうちにあり、罪も失敗も犯してしまう者ですが、あなたの恵みのうちに歩むことができますように、真実に、愛と正義に生きる者とならせてください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。