15:25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。

15:26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。

15:27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』

15:28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。

15:29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。

15:30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』

15:31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。

15:32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

 

弟息子が家に帰ってきて、父親が彼を喜んで迎え入れたのを見て、兄息子の方は腹を立てました。これは、15章の1節で、罪人や徴税人たちと一緒に食事をしているイエス様を見て、不平を言っているファリサイ派や律法学者の人たちの態度に呼応しています。

 

15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。

15:2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。

 

この不平に対して、イエス様はこのたとえをお話になったのでした。イエス様の話を聞こうとして集まってきた罪人や徴税人たちは弟息子の姿を表しており、不平を言っているファリサイ派や律法学者たちは、兄息子の姿に表されています。

 

私たちは、弟と兄、いずれの思いをも心のうちに持っているのではないかと思います。

 

祈り

 

天の父なる神様、私たちは、弟息子のように神のもとを離れて自分で自由な暮らしがしたいという思いを持っているとともに、兄息子のように自分を正当化し他の人を見下すような思いをも持っています。兄も弟も父親によって生かされていることの意味を深く理解することが出来ますように。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。