さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。ヨハネによる福音書9:1-3
またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。(新改訳)

 

当時、ユダヤ人の間では、障害をもって生まれたり、大きな苦難に見舞われた人は、本人か両親、先祖が罪を犯したためだと考えられていました。

これは日本においても、水子の祟りなどといわれて、障害をもって生まれた人や重い病気になった人、大きな災害や事故にあった人などに対して、その人やその人の先祖が悪いことをしたために、そのような苦しみにあっているのだから、水子の供養をしなければならない、などと教えられることがあります。

 

主イエスがおられたころのイスラエルと同じように、日本においても、例えば生まれながらに目の見えない人は、「あなたが生まれつき目が見えないのは、3代前のおじいさんがこんな罪を犯したからだ」というような説明を受けても、その人は周りの人たちから、冷たい目で見られるとともに、自分もみじめになるように思われます。

 

しかし、主イエスは、生まれながら目の見えない人のことについて、弟子たちが、「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と尋ねた時に、主イエスは次のようにお答えになりました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」

 

そのように言われて、生まれながら目の見えない人を見えるようにしてくださいました。彼らの考え方の誤りを指摘するとともに、この人を人々の差別などによる負い目から解放し、肉体の癒しをも与えてくださいました。

 

祈り

 

天の父なる神様、生まれながらに目の見えない人は、それまでは周りの人々から罪の中にある人だと思われ、神の恵みからは程遠い存在だと思われていましたが、主イエスは、この人が目が見えないのは、神の栄光が現れるためであると言われ、その人の目を癒してくださいました。私たちもあなたの御栄を現す器としてくださることを感謝いたします。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。