力の論理を超えて

「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」(聖書マタイの福音書20・25〜27)

力の論理を超えて

「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」(聖書マタイの福音書20・25〜27)

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1912年に沈没したタイタニック号の映画は、空前のヒットを記録しましたが、

たとえていうと、宇宙という果ての見えない大海原を航行中の「地球」という60億人と数兆にも及ぶ動植物を乗せた旅客船が、今、大きく傾きかけているのです。

人びとはその沈没しかけている船の上で、相も変わらず「私欲」にかられ、「土地が欲しい」「邸宅が欲しい」「グルメだ」「毛皮のコートだ」と、鵜の目鷹の目になっています。「名誉だ」と血眼になっています。それらを得るためにものをいうのは「力」であり権力です。

聖書が語っているように、支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。という姿を私たちは今の日本でも見ています。

力の強い者は上位を占め、能力の低い者、つまりは力の弱い者は底辺に押し潰されるという、いわゆる「力の論理」は、人びとに圧迫感を与え、生き苦しいものにしています。

それは人間だけではなく、環境を汚し、数多くの絶滅種を排出し、地球を破壊し、人びとの「こころ」を蝕むことをやめません。

国をみても、貧富の差は大きく、富者の「欲」が強く、富の分配がすすまないばかりか、貧者は一層貧しくなっているという現実がいくつも見出せます。

「力の論理」は強者にとっては有利に働きます。強者は尊大で、いのちあるものの苦しみを苦しみ、人の痛みを痛むこころが乏しく、それゆえに人間としてみたときには不健全だといわねばなりませんが弱い者にとっては残酷なものであったのです。

かれらが子どもやメンバーを褒めるのは「〜より速くできたとき」「〜より沢山できたとき」「〜より上手にできたとき」にかぎられるし、子どもを叱るのは「〜より遅かったとき」「〜より少なかったとき」「〜より下手だったとき」です。子どもが自分なりに一所懸命やろうとしても、実直にやりつづけても、手助けをするといった親切をつくしたとしても、「〜より遅く、〜より少なく、〜より下手だった」ときは、叱られるのです。

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親も教師も子どもに向かって「頑張れ」と指示、命令します。
子どももそれを受けて「頑張ります」と答えるのですが、その「頑張る」は仏教語で「我を張る」を意味し、だれもが我を張って、とすれば「不減不増」の宇宙原理に反し、いずれ全体の調和が崩れることは必至です。

人は、他者を見るとき自分より能力が高いか低いか(例えば、出身大学が就いている地位が自分よりも)という視点で判断する習性が身につき、自分よりも能力の高い者を崇拝し(ときには妬み)、従属し、機嫌を自分をとりたててもらおうと、意を払い、一方、自分よりも能力の低い者にたいしては高慢に下に見て、自分を誇る、という態度を示すものです。

教育とは「人間の本質」を学び、「人間としての価値」を尊重し、「人間として正しく生きる人を育てる」いとなみだといえるのですが、現行の教育は「人間の本質」を学ぶことをせず、「人間としての価値」を能力におきかえ、お互いを競争させて、生産性の高いものが上に上がっていくようなものになっています。

人間らしい「やさしさ」や「思いやり」「助け合う心」「愛する心」などは、評価されないで、「できる」か「出来ないか」という物差しによって計られ、出来ないものは切り捨てられていきます。

汚染や破壊がすすんでいるのも、煎じ詰めるとその「私欲」の結果でしょう。そうした人びとの生き方がとてつもなく危険であることを知識や論理ではなく、直観で見ぬいているのが、子どもたちなのではないでしょか。

感受性が豊かであるからこそ、痛みを感じ、警鐘を鳴らしているのだと思います。この痛みはさまざまな形で現れてくるのでしょうが、無知な大人は赤信号を送る子どもにたいし、「生意気だ」と批判し、「問題だ」とレッテルを貼り、「生徒指導」とか「心理治療」という方法で尺度に適合させようとしているだけです。

今の学校教育やこの世の価値観は、人間というものはもっと深いものなのに、物事を表面的に見て考え判断していくようなことを教えているように思えてなりません。

だから、心を深く掘り下げていくことが難しくなってしまうように思います。

しょうがいを持った子供たちは、その深さを知っているから、やさしさを持っています。

ねむの木学園の紹介の中で、宮城まりこさんは、

 「だめな子なんかひとりもいない」、これは学園長宮城まり子の叫びつづけている言葉でございます。

と言われておりました。「だめな子なんかひとりもいない」これは聖書の神のメッセージでもあります。