聖書には、神は愛のお方であると言われています。

「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。

愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。

神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。

わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(1ヨハネの手紙4章7~10節)

ここには、神は愛のお方であると言われていますが、神は愛であるというのはどういう意味でしょうか?まず神のことばである聖書が「愛」をどのように説明しているか見てみましょう。

「愛は寛容であり、親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。」(第1コリント13章4-8節)

これが神が教えておられる愛の姿です。神はこのようなお方であるというのです。そして、クリスチャンもこのようになることが目標であるといえます。(もちろんすでに達したわけではなく、いつもその過程にあるのですが、)神の愛がもっとも凝縮した形で表現された箇所が、ヨハネ3章16節に書かれています。

「 神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それはみ子(イエス.キリスト)を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

また、先ほどの聖句にも、

「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」

と言われていました。

イエス・キリストは、神の独り子であるお方ですが、このお方が今から2000年前に人としてお生まれになり、ご自身の生涯を通して、神が愛のお方であることを身をもって示してくださいました。イエス・キリストを見るとき、神がどのようなお方であるかをはっきりと知ることが出来るのです。それは、私たち罪ある人間に仕え、ご自身の命までも私たちのために与えて下さるという愛の生涯でした。

私たちは、思いと行いにおいて、神の前に様々な罪を積み重ねている者です。罪ある者は、そのままでは死と滅びを免れることが出来ません。私たちは自分の努力によっては、この罪を解決することが出来ない者です。そんな私たちのために、神のほうから救いの御手を差し出してくださったのです。私たちを罪と死の中から救い出すために、神は御子イエス・キリストを救い主として遣わしてくださいました。

神は愛の神ですが、正義の神でもあられます。ですから、罪をうやむやにしたり、なかったことにするということはできないのです。罪は死をもって償わなければなりません。

旧約聖書においては、人間の罪をあがなうために、動物の犠牲がささげられて、それによって罪が赦されると考えられてきました。しかし、それはやがてくる救い主によるあがないの犠牲を指し示していたのです。

神さまが望んでおられることは、私たちが神の永遠の故郷である天国へ行って神と共に住むことですが、そのためには、私たちの罪が赦されなければなりません。罪の赦しなしには私たちは、天国に行くことはおろか神の前に出ることさえ出来ない者です。

そのような私たちを愛し、救ってくださるために、神は、救い主であるイエス・キリストを私たちのために遣わしてくださいました。救い主の条件とは、

1)完全に罪のない方であること(このようなお方は神以外にはありません)

2)まことの人であること(人の罪を償うためにはまことの人でなければなりません)

3)私たちの身代わりに苦しみ、罪の刑罰を受けて死ぬこと

以上の3つの条件を、すべて満たした方でなければなりません。そのような方は、この人類史上イエス・キリストただお独りなのです。

神は私たちの罪の代価を支払うことで、天国に行く道を可能にしてくださったのです。 神は私たちを愛しています。なぜなら、ご自分の意志で愛することを選択されたからです。愛は赦します。「もし、私達が自分の罪(特定の)を言い表すなら、神は真実で正しいかたですから、その罪を赦し、すべての悪から私達をきよめてくださいます。」(第1ヨハネ1章9節)

愛(神)は寛容ですから、こうした救いの恵みを人に強制するようなことはありません。愛(神)はすべての人に親切です。愛(イエス)はえこひいきをせず、だれにでも良いことをして廻りました。 愛(イエス)は人の持っているものを欲しがらず、苦情を言わずにへりくだった生活をしました。 愛(イエス)は、だれよりも強く、だれにも打ち勝つことができたのにもかかわらず、自分がだれであるかを自慢したり、高ぶることもありませんでした。それよりも、イエスは自から喜んで天のみ父に従い、人々に仕え、愛する生涯を送られたのです。

愛についてのこの短い叙述は、生まれつきのままの人間の利己的な生活と反対に、自己を捨てた生活をあらわしています。驚くべきことに、神は、み子イエスを自分の罪からの救い主 として受け入れた人に、聖霊を宿らせてくださって、私たちを助け、導いてくださるのです。

 

十字架のことばに見られる神の愛

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。 愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、 人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、 すべてを耐え忍びます。  (コリント人への手紙第1 13:4~7)

 

愛ということばは誰でも好きなものです。けれどもよくわからないようにも思えます。分かっているようで、まだよく分かっていない。そういう私たちが、イエス・キリストを知ることによって愛を知るようになると言うこともできるでしょうが、これは頭で理解できるという範疇を超えていますから、イエス・キリストを知ることによって、ということもイエス・キリストの生きた生活を通して、さらには私たちが、それに倣って生きることによって教えられていくものではないかと思います。

この世の中には、まがい物、偽者がたくさんあるようです。聖書はこれを「偶像」と呼ぶこともありますが、人間が作ったモノは決して人間以上にはなりませんし、人を助けてくれる力もありません。偶像は人を愛することは出来ません。しかし、神は「愛」です。先ほどの聖句の「愛」というところに「イエス」と入れると まさしくイエスのご人格が愛そのものであったことに気づきます。

 

主イエスは金曜日の午前9時に十字架につけられました。両手両足を釘で打ち抜かれ全体重が 3本の釘によって支えられていました。その痛みの極みの中でイエスが母マリヤに「女の方。 そこに、あなたの息子がいます」と言われ、弟子ヨハネに「そこに、あなたの母がいます」といって、 去り行く自分に代わって母を支えていくことを弟子ヨハネにゆだねました。 産み育ててくれた母を死の苦しみの中にあってもイエスは忘れませんでした。 子としての礼儀に反することがなかったのです。

 

イエスを十字架につけた兵士や群衆はイエスをののしり「あれは他人を救った。 もし、神のキリストで、選ばれたものであるなら、自分を救ってみろ」と叫んでいました。 しかし、イエスは父なる神に、そのご自分を十字架につけた者たちのためにとりなしの祈りをなさるのです。 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」。 イエスは人のした悪に悪をもって返すことのないお方でした。

 

十字架は3本立ちました。真中がイエスで両側が強盗でした。初め「あなたはキリストではないか。 自分と私たちを救え」と、どなっていましたが、そのうちにひとりは主イエスの様子を見ていて気がつきます。 この人は自分の罪のために十字架につけられているのではなく人々の罪を負って十字架についているのだと。 そして「イエス様。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」。 するとイエスはそれまでの彼の、ののしることばに怒ることもなく「まことに、あなたに告げます。 あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と悔い改めた者に対して天国を約束されるのです。

 

そして正午のなり全地がやみにおおわれ、3時まで続きます。3時ごろ、イエスは大声で 「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれます。 これはイエスがすべての人の身代わりとして十字架の上で神に見捨てられて、 そのいっさいのさばきをお受けくださった姿でした。もしイエスがこの神のさばきを受けてくださらなければ 私たちはひとり残らずみな死後、神のさばきの前に永遠の滅びを刈り取らなければなりません。 正しい神は罪を見過ごすことができません。イエスもまた不正を喜ばずに真理を喜ばれるお方でしたから その正しさを不完全な人に求めず、自らを身代わりとすることによって貫かれました。

 

この後、主イエスはすべてのことが完了したことを知って、旧約聖書に預言されているとおりに 「私は渇く」と言われました。まさしくご自分の利益を求めることなくひたすら私たちが永遠に渇いたものに なることがないように、いのちに満ち充ちたお方が渇くことを経験してくださいました。

 

こうして罪人と神の交わりの道を完成されたイエスは、神との交わりを回復され「父よ。 わが霊を御手にゆだねます」と叫ばれ、「完了した」といって、霊を神にお渡しになりました。

 

これがすべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ばれたお方の十字架のみ姿でした。 極限の苦しみの中にありながら、愛に満ちあふれたお方でした。

 

ところで最初の愛の特徴を記したそのことばにあなたの名前を入れてもう一度読んでみませんか。「私は寛容であり、私は親切です。また私は人をねたみません。私は自慢せず、私は高慢になりません。私は礼儀に反することをせず、私は自分の利益を求めず、私は怒らず、私は人のした悪を思わず、私は不正を喜ばずに真理を喜びます。私はすべてをがまんし、私はすべてを信じ、私はすべてを期待し、私はすべてを耐え忍びます。」

 

もし、平気であなたがこれを読むことができたなら、まったく愛そのものであるか、 まったく厚顔な方であるかどちらかでしょう。もし、途中で恥ずかしくなるようであったら あなたは素直な方でしょう。しかし神の基準からすると明らかに私たちは足りない不完全なものなのです。 罪のない者はひとりもいません。すべての人が、主イエスによる救いを必要としているのです。主 イエスは愛で満ちているお方であるばかりでなく、神のみこころを完全に満たしたお方ですので、 イエスの十字架の苦しみがあなたの罪とそのさばきの身代わりであることを信じるなら あなたはその寛容な愛によって救われ、真の平安と永遠のいのちを得ることができるのです。