神と人とを結ぶもの

 私たちは、もともと神によって創造され、神によって生かされ、養われている存在ですから、自分は神を知らないし関心もない、という人でも、神とのつながりの中で生かされているのです。

 ですから、正確に言えば、人が神によって結ばれていることという事実を発見できるようになる、といったらよいでしょうか。

 アウグスティヌスは、
 「人は神によって造られたので、人はまことの神のもとに立ち返るまでは安らぎを得ることができない。」と述べています。

 イエス・キリストは、単なる人間ではなくて、私たちの世に遣わされた神の子、つまり人間の姿をとられた神だと言われています。欧米で宗教を意味する言葉は、ほとんどがラテン語のreligio (結びつける)に由来します。この単語からも想像されるように、本来、宗教は「超越的存在と人間を結ぶもの」なのです。

 もう少し具体的に言えば、神と私たちとを結びつけるのが宗教であり、「神と私との関係」が宗教の中心的テーマだとも言えましょう。
人生に悩みや苦しみはつきものです。しかし、いつも自分のことだけにとらわれて、自己中心的な殻の中で、自分を憐れんだりしていても何も解決されません。
 
 神との出会いを求めて思い切って歩きだすと、必ず私たちは心豊かな人間に変わり得るのです。
 ドストエフスキ-も『カラマゾフの兄弟』を執筆中に「この本の中で取り扱おうとしたのは、私が一生涯かけて意識的、あるいは無意識的に求め続けた問題、すなわち神の存在一まさにそれである」と述べています。彼もまた、神と自分との関係を一生真摯に追い求めた人です。

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神を知る道

 では、私たちはどうすれば、より神に近づき、神を知ることができるのでしょうか。神は人間の理解をはるかに超える存在ですが、私たちは人間同士の交わりを通じて、ある程度神と人間との交わりを類推することができます。

あるときイエス・キリストは、
 「イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。」 (ヨハネ14:9)と言われました。

 また、ヨハネ12:49では、
 「わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。

 わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。」

 
 このように言われました。

 父とは、父なる神であり、イエス・キリストは、同じく神の本質をもっておられる神のひとり子なるお方です。

 神は私たちにご自身を知らせ、また私たちを罪と死の中から救い出すために、そのひとり子であるイエス・キリストを、今から2000年前にこの世に遣わしてくださったのです。これがクリスマスです。

 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14)

 私たちは神について知りたいと思うなら、聖書を読むことです。
そして、そこに記されているイエス・キリストによる、私への神のアイと恵みを知ることです。それは私たちの心のうちにある空洞を生め、あなたの心に平安と希望を与えてくれる、生きる力を与えることになるでしょう。私たちは、人間によって作られた模造品の偶像ではなく、実際に生きて働いておられる神の愛によって、いのちへの人生を生きるようになるのです。

神は愛である

 「ひとは自分の愛するもの以外には何ひとつ学び知ることはできない。その知が一層深まり、一層完全なものとなるためには、愛が一層強く、一層生き生きとした力にあふれている必要がある。愛は情熱でなければならない」と、ゲーテは青年時代に書いています。彼はこの思想を、生涯にわたって反復して述べ続けます。レオナルド・ダ・ヴィンチも「あらゆる偉大な愛は偉大な認識の娘である」と言いました。

 愛することによって、より深く相手を知ることができるという真理は、神と人間との関係にも当てはまります。私がどのような比喩を使って神について述べても、そこには人間的な限界があります。神は時間や空間を超越した無限の存在ですから、その愛も人間同士の場合のように条件つきのものではありません。

 使徒ヨハネは「愛する者たちよ。わたしたちは互いに愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生まれた者であって、神を知っている。愛さない者は神を知らない。神は愛である」と書き送っています(ヨハネ第一の手紙4・7~8)。

 科学者も神を信じる夜空に星のきらめきを仰いだり、季節毎に木々が芽吹き、花を開いて、やがて実を結ぶ有様に接する時、私たちは神秘的な感動に満たされます。こうした天体の運行や四季の移り変わりの秩序は、一体いつ誰が定めたのでしょうか。根源的な自然の営みは、決して単なる偶然の産物ではありません。

 割合で言うならば、科学者のほうがクリスチャンになる確立が高いと言われていますが、この自然界の中に、生きとしいけるものの生命のの活動の中に、人間を超えた神の働きを見るのです。さまざまな結果から原因を推察すれば、誰もが人間の知恵や想像力を超える大いなる御方一創造主の存在を認めざるを得なくなるようです。一流の科学者たちに敬虔なキリスト教徒が多いのも、合理的なアプローチでは到達し得ない神秘との出会いを、しばしば体験するからではないでしょうか。

 以前、ある医師と話したことがありますが、その方は次のように言われました。
 「私は長い間無神論者でした。神を信じるなどというのは年寄りのすることだとあざけっていたのです。しかし、多くの人を診察し、医学を深く学べば学ぶほど、人間の身体の仕組みの精巧さと生命の持つ不思議な力に打たれて、どうしても造り主である神を信じないではいられなくなりました」と語りました。

 カトリックの神父でもあったメンデルを始め、コペルニクス、ケプラ-、ガリレオ、ニュートン、X線の発見者のレントゲン……などなど、歴史上に名の残る科学者たちは皆、偉大な真理として、人為を超える神の存在を信じています。

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神への現代的アプローチ

 現代人はとかく物事を効率よく処理しようとします。こうした機能的アプローチが幅をきかす社会の中で、目に見えず、手で触れることもできない神の存在を信じようとするのは、至難のわざかもしれません。

 しかし、ここでちょっと私たち人間の目について考えてみましょう。私たちは目で見て多くのことを理解します。人間の目というのは、朝から晩まで、遠く近く、明るいところ暗いところを瞬間的に区別して無数のカラー写真を撮り続けています。

 古今東西を通じて、人間の目についての研究はたくさんありますが、まだ目の仕組みについては不明の部分がほとんどです。目という器官は人体の傑作の一つですが、人間の知恵によって造られたものではありません。私たちの先祖を始め誰一人、目の造り方を知っている者はいません。この目ひとつを取ってみても、人間よりもはるかにすぐれた知恵と力を持つ方が造られたのだという結論に達します。その造り主を私たちは神と呼ぶのです。

 キリスト教の神は、この世界のすべてを創造された方です。聖書にはこう書かれています。

 「……神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない」(ローマ人への手紙1:19~20)

 人類が神という概念を持てるということ自体、人間だけに与えられたすばらしい能力だと思います。これは私たち人間だけに戴いた想像力(イマジネーション)によるものです。神は天国だけではなく、すべての時、すべての場所で私たちと共におられるのです。

父なる神と母なる神

 昔から神のことを父なる神と呼びますが、最近は母なる神という概念もよく使われます。神は人間のように男性と女性に分けることのできない、両者の長所を合わせ持った理想的な存在です。ですから、私は父のような神、母の理想像としての神と呼びたいと考えています。

 例えば、あの有名な放蕩息子のように、放蕩に身を持ちくずし、何もかも失ってやっと帰ってきた息子を、「まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首を抱いて接吻した」(ルカ15:11~32)のです。息子がまだ一言も詫びないうちに、無条件ですぐ抱きしめる父の姿は、大らかな神の似姿に他なりません。

 同じように理想的な母の姿も、新約聖書の中にいくつも見いだされます。特に私が好きなのは、ヨハネ黙示録の「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。(21・3~4)という美しいイメージです。

 また、古代ギリシアの哲学者プロティノスは「神は善であり、美であり、光である。太陽から四方に光線が注がれるように、すべてのものは神から生じ、神との結びつきによって活かされている」と言っています。
私たちも神の愛を自覚しながら、自分だけに戴いた人生を心豊かに歩みたいものです。