人生の目的と意味を考える

死からいのちへの新しい旅立ち

 

アンパンマンの歌

 

「何の為に生まれて 何をして生きるのか
答えられないなんて そんなのは嫌だ!
今を生きることで 熱いこころ燃える
だから君は行くんだ微笑んで。
そうだ!嬉しいんだ生きる喜び
たとえ胸の傷が痛んでも。」

 

東日本大震災の震災直後から、ラジオ局には、やなせさんが作詞した「アンパンマンのマーチ」へのリクエストが殺到し始めたそうです。

この歌を作ったやなせたかしさんはクリスチャンですが、インタビューに答えて次のように述べておられます。

 「今度の震災の時にですね、いちばん多く歌われたのがアンパンマンのテーマソングであったというのを聞いた時はね、本当にうれしかった。
 役に立ったと思いましたね。
 僕も長い間ね、自分は、いったい何のために生まれたのか、何をして生きるのか、ずいぶん悩んだんですけど、やはり、だから自分は子どものためにお話を書いたり、絵本を描いたりするのが自分の天職だなあと、このごろになって思うようになった。」

何の為に生まれて 何をして生きるのか
答えられないなんて そんなのは嫌だ!

困難に直面した多くの人たちが、生きることをたたえた詩の、ひと言ひと言に励ましを求めたのだと思います。

 

人は、困難に直面した時こそ、人間らしい生き方を求め、自分自身と真剣に向き合い、この世に生きる意味や目的を真剣に問うのではないかと思います。

やなせたかしさんはクリスチャンですから、聖書が教えている神を信じておられたわけですが、この世界を科学的に研究している科学者たちの大多数が神の存在を信じているということをまずご紹介いたします。

 

いのちを与え、育んでくださる神

 

「死」の反対は「いのち」といえるでしょうが、「いのち」を与え育んでいてくださるのは神であるということを知ることは非常に重要なことです。

「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、・・・今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。」(マタイ6:25~30)

 

この世界にある、いのちの芽生え、いのちの営みは何とすばらしいものでしょうか。宇宙に旅立った宇宙飛行士の科学者たちが、青い地球を見て、神の存在を確信するようになったという出来事を聞かされていますが、このいのちある世界は、どんなに科学が進歩した時代にも、このようないのちを人は作り出すことは出来ません。

 

昨年(2016年)のことですが、国連が面白い統計を発表しました。

現在から過去にさかのぼって300年の間、世界におけるすばらしい科学者300人を対象に、神を信じる人が何人いるかについて調べました。

その結果、すると90%以上の人たちが神を信じていることが分かりました。300人のうち、神を信じていないと示した人はわずか20人でした。

一方、神を信じていると明確に示したのは、242人で、世界的にも有名な

ニュートン、エジソン、X線を発見したレントゲン、電池を発明したボルタ、オームの法則を発見したゲオルクオーム、キューリー夫人、アインシュタインなどがいます。

また、20世紀・21世紀におけるイギリス、アメリカ、フランスの科学者の中で9割以上が神を信じることも明らかになっています。ここで、6人の現代の著名な科学者をご紹介しましょう。 以下は、Epoch Times in Japanよりの引用

 

*アインシュタイン(Albert Einstein)

 

アインシュタインの著作「相対論:狭義と広義相対論(Relativity: The Special and General Theory)の中で、彼は次のことを述べています。

 

「我々はまさにたくさんの多言語書籍を詰め込まれた図書館に入った子どものようだ。たくさんの本を書いた人がいると子どもたちは知っているが、どのように書かれたかは知らない。何故なら、これらの本に書かれた言葉を知らないからだ」

 

「しかし、子どもたちはこれらの本に何か神秘のベールに包まれたルールがあると感じている、ただ実際は何であるかはわからない。私からしてみれば、仮に最も賢い人類でも神に対する理解はこの程度しかないのだ。我々が目にした宇宙は人類が驚嘆するほど秩序良く組織されており、一定の法則に沿っていると知りながらも、ぼやけていて、はっきりとした理解ではないのだ」

 

アインシュタインが1927年のある晩餐会で、ドイツ人評論家で無神論者のアルフレド・カール(Alfred Kerr) に対して、「我々が持っている限られた手段で自然の奥深い神秘に潜入しようと試みれば、背後には微妙で無形な、表現し難い明らかな関連が存在していることに気づくのだ。物事を理解できるということを超越した力への畏敬の念こそが私の宗教だ。この意味において、私は実に宗教信仰があるのだ」と答えました。

これら現代の著名な科学者は、「科学と信仰は調和する」と信じている(Shutterstock)

6人の現代著名科学者 彼らは何故神を信じるのか

国連がある面白い統計を発表しました。現在から過去に遡って300年の間、世界における素晴らしい科学者300人を対象に、神を信じる人が何人いるのかについて調査しました。すると、9割以上の科学者たちが神を信じていることが分かりました。

300人の内、神を信じないと示した人は僅か20人でした。一方、神を信じると明確に示した人は242人で、世界的に著名なニュートン、エジソン、X線を発見したヴィルヘルム・レントゲン、電池を発明したアレッサンドロ・ボルタ、アンドレ・マリ・アンペール(電流のSI単位のアンペアはアンペールの名にちなんでいる)、ゲオルク・オーム(電圧と電流と電気抵抗の基本的な関係を定義付けた)、キュリー夫人、アインシュタイン等々がその中に名を連ねています。

また、20世紀・21世紀におけるイギリス、アメリカ、フランスの科学者の中で9割以上が神を信じることも明らかになっています。ここで、6人の現代の著名な科学者をご紹介しましょう。

*ハーバード大学神経科学者、アイベン・アレクサンダー(Eben Alexander)博士

 

アメリカ放送局の取材を受けるアイベン・アレクサンダー博士

アレクサンダー博士は個人のブログで自らの観点を述べています。「我々が宗教と科学の教条に束縛されなくなった時、人類は初めて認識において突破できる。何故なら、これらの教条は我々に対して、精神領域が真の物質的存在であることを理解する能力を拘束しているからだ」

博士は30年近く神経外科医として務めており、ハーバード医学院にも勤務していました。瀕死体験(NDE)は大脳が圧迫を受けたために生じた幻想だと主張していました。しかし、自ら体験したことで懐疑論者から有神論者に転じました。

博士は実際、瀕死状態から生き返ったことを体験しており、医療における奇跡とされました。ニューヨーク・タイムズが2012年に出版した彼の著書「天国の証明(Proof of Heaven)」の中で、深刻な昏睡状態になった自分が未来の世界に行ったことを書いています。博士は来世の存在に対して以前と違って、否定的ではなくなりました。

著書の紹介に、「このことは誰の身に起きても尋常ではないことだが、アレクサンダー博士の身に起きたことは革命的なことである。科学者であろうが信仰を持つ者であろうが、このことを無視することはできないのだ」と記されています。

*マサチューセッツ州工科大学工学部クレン・ブイ(Cullen Buie)教授

 

クレン・ブイ(Cullen Buie)教授(スクリーンショット)

 

ブイ教授は昨年マサチューセッツ州タフツ大学の「真理フォーラム(Veritas Forum)」で、「一部の人は、信仰と理性が油と水のように相容れないものだと思っているが、そうではないのだ。歴史上最も偉大な者の多くは、自らの信仰によって科学を推し進めた。歴史上最も偉大な科学者たちは信仰深く、彼らの科学研究を信じるだけではなく、神をも信仰するのだ」と述べました。

教授はトマス・エジソンを例にして、エジソンは発熱電球の発光が実現するまで、偽科学者や詐欺師と言われていました。他にも、膨張宇宙論を提唱したジョルジュ・ルメートルなどを例に挙げ、これらの科学者たちがより高い知恵と力に満ちる神への信仰を持っていたと話しました。

*米国立衛生研究所所長、フランシス・コリンス(Francis Collins)博士

 

フランシス・コリンズ博士は2009年9月24日、ワシントンの米議会議事堂ホワイトハウスビジターセンターにて講演を行った

フランシス・コリンズ博士はかつて無神論者でしたが、現在は宗教を信仰しており、米国立保健研究所(NIH)のヒトゲノム (人間の全遺伝子情報)プロジェクトの責任者でした。現在は、米国立衛生研究所(HIN)所長を務めています。コリンズ博士は米ニュース専門放送局CNNのために、「この科学者は何故神を信じるのか(Why this scientist believes in God)」を題にした文章を書きました。

文章の中で、「20世紀70年代の物理化学研究生として、私はかつて無神論者だった。何故なら、数学、物理、化学以外に真理が存在する仮定の理由を見つけられなかったからだ。しかし、私は後に医学の勉強をして、患者の病床で生死の問題にぶつかった。ある患者が『先生、あなたは何を信じるのですか?』の質問がきっかけとなって、その答えを探すようになった」

「残念ながら、私がここまで享受していた科学は、『生命の意義とは何か』『私は何故ここにいるのか』『何故数学演算が成立するのか』『宇宙にスタートがあるとするなら、誰が宇宙を創造したのか』『何故人類に道徳感覚があるのか』『私たちは死後どうなるのか』などについて、何も答えられないことを認めざるを得ない」

 

*アインシュタイン(Albert Einstein)

アインシュタインが42歳の時にウィーンでの講演会(Ferdinand Schmutzer)

 

アインシュタインの著作「相対論:狭義と広義相対論(Relativity: The Special and General Theory)の中で、彼は次のことを述べています。

「我々はまさにたくさんの多言語書籍を詰め込まれた図書館に入った子どものようだ。たくさんの本を書いた人がいると子どもたちは知っているが、どのように書かれたかは知らない。何故なら、これらの本に書かれた言葉を知らないからだ」

「しかし、子どもたちはこれらの本に何か神秘のベールに包まれたルールがあると感じている、ただ実際は何であるかはわからない。私からしてみれば、仮に最も賢い人類でも神に対する理解はこの程度しかないのだ。我々が目にした宇宙は人類が驚嘆するほど秩序良く組織されており、一定の法則に沿っていると知りながらも、ぼやけていて、はっきりとした理解ではないのだ」

アインシュタインが1927年のある晩餐会で、ドイツ人評論家で無神論者のアルフレド・カール(Alfred Kerr) に対して、「我々が持っている限られた手段で自然の奥深い神秘に潜入しようと試みれば、背後には微妙で無形な、表現し難い明らかな関連が存在していることに気づくのだ。物事を理解できるということを超越した力への畏敬の念こそが私の宗教だ。この意味において、私は実に宗教信仰があるのだ」と答えました。

H・Gケスラー(H・G・Kessler)が1971年に発表した「大都会日記(The Diary of a Cosmopolitan)」より抜粋しました。

 

*量子力学創始者の1人、ノーベル物理学賞受賞者マックス・プランク(Max Planck)

ノーベル物理学賞受賞者でドイツ物理学者のマックス・プランク(Wikimedia Commons)

マックス・プランクの著作「科学は何処へ行く?(Where Is Science Going?)」の中で、「科学は大自然の究極な神秘を解釈できない。なぜならば、最終的に、我々も自然の一部分であり、我々自身が解決しようとする神秘の一部分であるからだ」と述べています。

「すべての物質はある種の力の影響下にのみ創造と存在ができる。この力は一つの原子粒子を振動させ、最も微小な「原子太陽系」を支えている。この力の背後には意識を持つ、知恵の心が存在することを仮設しなければならない。この心こそが全ての物質の母体であるのだ」

マックス・プランクが1944年、イタリア・フィレンツェで「物質の性質(The Nature of Matter)」について講演した内容より抜粋しました。

 

*神経生理学者、ジョン・C・エクレス(John Carew Eccles)

 

ジョン・C・エクレス(Wikimedia Commons)

 

「私は、人類の奥深い神秘が科学の還元主義(Reductionism)によって、非常に低く評価されてしまい、精神世界の一切を神経細胞の活動だと結論付けられた。しかし、このような信条は迷信であると定めなければならないと強く思っている。我々は精神的生命体であり、霊魂(たましい)が精神世界に存在していると同時に、物質的生命体でもあり、身体と大脳が物質世界に存在していることを認識すべきだ」

ジョン・C・エクレスの著作「大脳の進展変化:自我意識の創造(Evolution of the Brain:Creation of the Self)」より抜粋しました。

 

以上は、Epoch Times in Japanより転載いたしました。

 

この世界は神によって創造されたものですから、科学を追及すればするほど神の存在を知り、神の恵みを感謝できるようになるということができます。

 

「天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。」(詩編19:2)

 

いかがでしょうか。ここに挙げたのは科学者の中でも徹底して科学的に物事を追求していこうとしている著名な科学者たちです。

世界における素晴らしい科学者300人を対象に、神を信じる人が何人いるのかについて調査したところ、9割以上の科学者たちが神を信じていることが分かったということです。

300人の内、神を信じないと示した人は僅か20人でした。一方、神を信じると明確に示した人は242人で、世界的に著名なニュートン、エジソン、X線を発見したヴィルヘルム・レントゲン、電池を発明したアレッサンドロ・ボルタ、アンドレ・マリ・アンペール(電流のSI単位のアンペアはアンペールの名にちなんでいる)、ゲオルク・オーム(電圧と電流と電気抵抗の基本的な関係を定義付けた)、キュリー夫人、アインシュタイン等々がその中に名を連ねています。

また、20世紀・21世紀におけるイギリス、アメリカ、フランスの科学者の中で9割以上が神を信じることも明らかになっています。

 

人生の目的を考える上で、最初に神の存在についてお伝えしたのは、人生の意味や目的を考えるためには、神がおられること、私たちは神によってこの命を与えられ、生かされていることをやはり覚えていく必要があると考えるからです。

 

次のような質問をいただきました。あなたならどのようにお答えなさるでしょうか。

 

「なんの為に生きているのですか?

私はなんの為に生きているのか全くわかりません。ただ単に生まれたから生きているだけ。自殺する勇気がないから生きているだけという感じです。普通に幼小中高大と通いました、学生生活も至って普通で特に勉強ができるわけでも、できないわけでもなく、いじめられた事がなければいじめた事もありません。これといって打ち込めるものもないしお金の為にバイトしてました。卒業後は人並みに就職して5年間仕事をまじめに無遅刻無欠勤で有給すらとらず働いてきました。

 

勉強が楽しいとか仕事が楽しいなんて一度たりとも思ったことはありません。趣味も特技もありません。何かしたいとか、どこかに行きたいとかもありません。せめて何か一つ趣味を見つけたいと思いジムに通ったり様々な教室に通いましたがやはり何をしても楽しくないので趣味になりません。友達と呼べる人もごくわずかでその数少ない友人ですら学校卒業後はほとんど会う事もなく、買い物なんて10年近く1人きり。会社も小さく従業員は私1人、同僚はおろか先輩、後輩もいません。

 

ひたすら毎日同じ仕事を無難にこなしているだけ、大きなミスをする事もなければ達成感もありません。恋人はいますが世間の人がよく言うこの人の為なら死ねるとか何よりも大事とかいなくなったら困るとかそんな熱い感情がわきません。とにかく『感情』というものが人より薄い気がします。旅行に行って楽しい~!とか子供を見てかわいい~!とか漫才を見ておもしろ~い!とかそういうプラスの感情がないのです。

 

ため息がとまりません。人生を楽しめません。本気で人間(家族恋人友人)を愛せません(というか愛するという感情がわからない)こんなに無気力なのに落ちこぼれた人生は送る勇気がもてません(ニートとかホームレスとか)ましてや死ぬ勇気なんてもっとありません。私はこのまま数年後に結婚し子供を生んで歳をとっていく無難な人生を送り続けるのでしょうか?

(自分の子ですら愛する自信がありませんが)それともいつか大きな事故にあったり病気にかかったりと一波乱あるのでしょうか?皆さんは毎日何を考え、何が楽しく、何の為に生きているのですか?平凡な毎日が一番幸せなんて感情は到底もてません。」  以上がご質問の内容です。

 

私の答えは後で記していきますが、このような思いを持って暮らしている方は結構たくさんおられるのではないかと思います。

 

私たちは、つまるところ何のために生きているのでしょうか。この人生が本当に実りある人生となるとはどういうことなのでしょうか。この人生において最も大切で、優先すべきことは何でしょうか。

今は、箱根駅伝が行われています。青山学院大学が往路、復路とも優勝するのではないかと言われています。選手の皆さん方はこのために一生懸命日夜努力を重ねてきたことでしょう。こうした大会に出場できることも努力の賜物であると思いますが、この成績で人生の価値が左右されるほどのものだとは思われません。

また、ある自己啓発セミナーでは、自分に自信を持つことが強調されて、自分には何でもできるということを繰り返し暗示することが教えられていました。これに参加したある方は、「自分にはこんなことは出来ない。自分に嘘をつくことになるし、現実離れした教えだ」と言っておられました。

私は、自分に自信を持ってさまざまな出来事に対処していくことも、ある意味では大切なことだと思いますが、実際のところ、私たちは自分自身の弱さを抱えています。失敗を犯すこともあるのです。長所もあれば短所も持ち合わせています。そのいずれもきちんと自覚しながら、自分自身に正直に生きていくことが大切なのではないかと思います。

 

昔からよく言われてきたことは、よい大学に入って、よい会社に入って、安定した収入を得るようになることがこの世の成功者になれる道であるということです。あるいは、この世で楽しんで生活できれば、それでよいではないかと考える人も少なくないように思われます。

 

人は何のために生まれてきたのか?

多くの人が答えを出せずにいるのではないでしょうか?

 

人は天から生を受けたからには

そこに何らかの意味がある

人にはそれぞれ持って生まれた役割がある

 

森信三という方は 天からの封書を開ける と言いました。

人それぞれに天からの封書を頂いている

40歳までにはその封書をあけ自らの人生の意味を理解し

その役割を果たしたい

しかし、その封書を開けずに人生を終える人の

なんと多いことよ と述べています。

 

 

幸せの原点

  • いのちの源である神がともにおられること
  • 絶対に人と比べない
  • 足るを知る
  • 自分の果たすべき務めを果たす
  • 人に対して親切にし、人のために尽くす
  • すべてに感謝できること
  • 天から頂いた役割を立派に果たす

 

人の喜びは人の役に立つことによって得られる

これは、心理学的に考えても正しいようです。

 

「天からの封書」とは、何と言っても「聖書」でしょう。

あなたは、「天からの封書」を読みましたか。それを理解していますか。

「聖書からのメッセージ」という小冊子がありますのでそちらもご覧ください。

 

人が生きる目的は何か?

 

ある大学で、一人の学生が人生に悩み、自殺を図ったことがありました。幸いにも未遂に終わったのですが、そこで一人の教授がその学生に尋ねました。「君は、なぜ自殺を図ったりしたのか。」と。

 

しかし、その学生は恨めしそうにその教授に、「それでは、先生は、なぜ生きているのですか?」と聞き返したそうです。その教授は、返答に困り、答えることができませんでした。「人が生きる目的と意味は何か?」。これは、人生における重要な質問です。でも、学校の先生も、生徒や学生に質問されて答えることができないのです。

 

人が「今」を生きることができるのは、何らかの目的と希望を持っているからです。これがないと、人は自殺するか、惰性で生きるしかないのです。小説家のヘミングウェイも、「人生には何の意味もないのだ。」と言って自殺したのは有名な話です。

 

いつの時代のことか明確ではありませんが、かつて、ギリシャにおいて囚人に対する厳しい刑罰に、次のようなものがあったと聞きました。一つの大きな桶に水をいっぱい入れてあるのですが、その水を汲んでバケツに入れ数百メートルくらい離れた場所にあるもう一つの桶に水を運び入れます。

 

それが終わると、また最初の桶にその水を汲み移すのです。この同じ作業を何度も何度も、往復して繰り返すのです。このような作業を繰り返すと大抵の囚人は参ってしまうのだそうです。これと大変似たような話を最近読んで、「世界には似たような話があるものだなあ~!」と不思議に思った次第です。

 

昔、ナチスの囚人に対する拷問にこういうものがあったとそうです。ある所に沢山の重い石が積み上げてあります。その石を囚人に命じて、他の場所まで移動させます。 囚人たちは汗みどろになり、全力を出し切って、その石を移動させ、やっとのことで命じられた場所に運び終えます。

 

しかし、やっと作業が終わったと思ったら、もとの場所へもう一度運ぶように命じられるのです。彼らはその重い石をまた汗みどろになって、その場所まで運ぶのです。すると今度は、もう一度、先ほどの場所に運ぶように命じられるのです。そして、囚人たちは、この二箇所の場所を何度も往復する重労働を延々と繰り返すのです。この作業を繰り返すうちに、最後には頭がおかしくなってしまう者が続出するのだそうです。

 

このような行為に人はなぜ耐えられないのかというと、いくつかの理由を上げることができます。

(1)まず第一に、この作業には、何の目的もないからです。(2)この作業には、何の意味も価値もないからです。(3)また、この作業にはいつまでも終わりがないからです。

 

人間は、何の目的もなく、意味もないことを延々と続けることに耐えることができません。このようなことを自分の自由意志に反してやらされると、精神的におかしくなったとしても不思議なことではありません。同じ重労働でも、その石を運ぶことによって、何かの建造物を建てるとか、堤防を作るとか、明確な目的があれば、苦しくても辛くても、その労働に何らかの喜びや充足感を持つことができると思いますが、目的のない仕事を続けるのは辛いことです。

 

人間、苦しいことや辛いことがあっても、その試練や困難を乗り切って、生きて行くことができるのは、何らかの目的を持っているからではないでしょうか。 しかし、その目的も、実は多くの人にとって、目先の一時的なあるいは表面的なもの、気休めににしかならないものであることが多いのではないかと思います。「○○の一流大学に入るため勉強する」。「有名な企業に就職するために‥‥する」。「マイホームを建てるためにお金を貯める」。「有名なスポーツ選手になるために自らを鍛錬し、そのために励む」。「病気をしない健康な体を作るためにあらゆる努力をする」。このようなことを書けばきりがありませんが、これらはみな人生の根本的な目的とはなり得ないものです。

 

もう何年も前の話ですが、英国のある新聞が「お金とは何か。」について、その定義を募集し、最優秀作品に当選したのは、「金とは幸福以外のあらゆるものを与えることのできる万能の供給者であり、天国以外のどこにでも行くことのできるパスポートである。」というものであったそうです。お金が人生を幸せにすると錯覚して、お金を儲けるために血眼になって働く人もいるかもしれません。しかし、それは、空しい希望に過ぎません。お金で幸福を得た人は、この世に一人もいないのです。かつて栄華を極めたイスラエルのソロモン王は「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、空しい。」(伝道者の書5:10)と言っています。

 

それでは、一時的な目先の目的ではなく、人間が人間として生きる根本的な目的は何なのでしょうか。それを正しく教えるのは、天地万物を創造された真の神様だけであると確信を持って言うことができます。時計は時間を知るためにあり、家は人が住むためにあり、車は人や物を運ぶためにあるように、作られたものには必ずそれを作った人の目的があるのです。

 

進化論者は、人はアメーバーから進化して来た「偶然の産物」であると言います。人間が偶然の産物ならば、そこにはその存在の意味とか、目的などを問うことはできません。また、彼らは当然、その目的を説明することができません。偶然に意味などないからです。しかし、人間を創造された真の神様(God)は、聖書によって、人を創造された目的を明確に語っているのです。

 

「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」(創世記1:27)。

 

「彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し/形づくり、完成した者。」(イザヤ書43:7)。

 

人間は、神ご自身のかたち(内面的な性質、人格など)に似せて、神の栄光のために創造された(created)のですが、人類の始祖アダムは神の前に罪を犯し、神から離れ、神に背を向けて生きるようになり、全人類は神の警告通り、罪と苦しみと死の恐怖の中に生きるようになりました。しかし、神は正義なる御方ですが、旧約聖書の中で繰り返し繰り返し、この世界に救い主を遣わされることを預言されていましたが、約2.000年前に神の御子イエス・キリストはこの世に赤子として誕生され、罪なき聖よいご生涯の終わりに私たちの罪のために身代わりとなって十字架で死んで、三日目によみがえってくださったのです。

 

この尊い救い主、イエス・キリストを信じる者は、神のさばきから救われ、永遠のいのちが与えられ、生きる喜びと平安と幸福が与えられ、真の希望が与えられ、人生の本当の意味と目的を持って生きることができるのです。復活されたイエス・キリストを信じて、その人生が180度変えられた使徒パウロは、次のように語ることができました。死を超越した真の希望と人生の目的を知った人のことばです。パウロにとって、人生を生きることは、漠然とした曖昧模糊としたものではありませんでした。はっきりとした目標(目的)があったのです。また、死後の世界に対しても、明確な確信と希望を持って世を去ったのです。

 

「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」(2コリント5:14,15)。

 

「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」(フィリピ人への手紙1:21)。

 

「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」(1コリント10:31)。

 

「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」(2テモテへの手紙4:6~8)。

 

 

旧約聖書 コヘレトの言葉から

 

「短く空しい人生の日々を、影のように過ごす人間にとって、幸福とは何かを誰が知ろう。人間、その一生の後はどうなるのかを教えてくれるものは、太陽の下にはいない。」(コヘレトの言葉6:12)。

 

旧約聖書のコヘレトの言葉の中で、筆者は「影のように過ごす空しい人生を過ごす人」と言っています。確かに私たちの人生は儚く短いものです。二度と繰り返すことのできない一度の人生で、私たちがいかに生きるかということは、私たちが真面目に考えなければならないテーマです。このコヘレトの言葉は、人生の目的は何か、生きる意味は果たしてどこにあるのかを探求した書物です。

 

「短く空しい人生の日々を、影のように過ごす人間にとって、幸福とは何かを誰が知ろう。」、すなわち「一体、人間にとって何が幸福なのか!」——この問いのもとに哲学が生まれ、芸術が生まれ、宗教が生まれたのです。この問いこそ古今東西のすべての人間が切に知りたいと願って探求し続けて来た人生最大のテーマです。ですから、人生の若い時に、このコヘレトの言葉を読み、その教訓を学ぶことは大変有意義なことなのです。

 

「コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。太陽の下、人は労苦するが/すべての労苦も何になろう。」(コヘレトの言葉1:2:3)。

 

このコヘレトの言葉は、イスラエルの王ソロモンによって書かれたものです。ソロモンは、その当時もっとも有名で有力な王であり、当時(今から約3.000年前)の全世界に知恵と富と文才で知られていた王です。ソロモンは富と栄誉を持ち、想像を絶する権力を持って、贅沢の限りを尽くして、世界一の幸福者と呼ばれるにふさわしい人物でした。しかし、彼が常に繰り返したのは、「空の空」ということばであったのです。

 

ソロモンの晩年の作であるこの書は、ソロモンは決して幸福な人ではなかったという事実を私たちに示しています。このコヘレトの言葉の中には、37回も「空しい」という語が用いられています。旧約聖書に「空しい」を意味する語が、72回出て来るのですが、そのうちの約半分は、この「コヘレトの言葉」に出て来るのです。ですから、栄華を極めたソロモン、そしてこの伝道者の著者であるソロモンがいかに空しい人生を送った人であるかが分かります。

 

このコヘレトの言葉が私たちに伝えようとしているメッセージの中心が何かと言えば、それは神から離れている人生は空しいものであって、退屈と失望と孤独に満ちているものであるということです。また、この書は著者ソロモンが幸福と満足を得るために、試みた人生の長い「実験の記録」であるということが出来ます。神(創造者)を持たない生活がいかに空しいものか、その実験(体験)を詳細に記録したものです。神様は、ソロモンに権力も富も能力も与えました。そして、人生を探求する知恵と多くの機会を与えられたのです。

 

そして、数多くの探求と経験の後に、ソロモンは、「神から離れては、この地上の人生には確実な幸福を見出すのは困難であり、空しいものである。」と結論を下したのです。この「空」とか「空しい」という言葉は、元来は”息”という意味があって、すぐに消えてしまう空しいもの、移ろいやすいものを指しているのです。「日の下」という言葉は、29回も出て来ますが、これはこの地上の人生を表す言葉です。ですから、この地上の人生にのみ限定して観察するならば、どんなに労苦しても「何一つ益になるものはない。」と言い切っているのです。

 

ソロモンは普通の人が決して経験できないようなことを経験したのです。例えば、彼は700人の妻と300人の妾を持ちました。そして、多くの金銀財宝の冨を得ました。巨大な権力と名声を得ることができました。ありとあらゆる快楽を味わいました。彼は多くの知識を得、哲学を学び、事業を拡張し、建築を研究し、13年も費やして自分のための宮殿も建てました。そして、その実験の結果、何の満足も得ることが出来ず、「神なしの人生は何をやっても空しい。だから、若い時に神に立ち返りなさい。」と人々に勧めているのです。

 

このように、ソロモンは「自分の目の欲するものは何でも拒まず、心の赴くままにあらゆる楽しみを試み」、いろいろな事業もやったけれども、その結果は「すべてが空しく、風を追うようなものである。」ことが分かったのです。このようにソロモンの実験の結果は、すべてが空しく、この地上の人生で何一つ、益になるものはないということであったのです。ソロモンの実験の結果は次のようなものです。

 

「まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた、実に空しいことだ。」(コヘレトの言葉2:22~23)。

 

「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と/言う年齢にならないうちに。・・・すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。」(コヘレトの言葉12:1、14)。

 

この書の12章には、この書の結論が書かれています。ソロモンが人生の探求の結果得たものは、神を畏れその戒めを守ること、これこそが人間の本分であり、すべてであるということです。私たちの人生に真の満足と意味を与えるのは、神のみであるということです。ソロモンは自分で経験してみて、神を信じる人生が一番幸いであると語っているのです。そして、この書は若者への呼びかけで終わっています。「あなたの若い日に」とありますように、人生の土台は早いうちに敷く方が良いのです。

 

このコヘレトの言葉が与えられたのは、私たちが、人生において多くの無駄な努力をしなくてもよいように、ソロモンが自ら経験した結果を通して若い人に一つの警告として与えられているのです。人生の大部分を費やして、無駄な実験を繰り返す必要はないということです。

そして、この書は、一個人の人生の経験を通して知り得た教訓の記録ですが、全人類に当てはまる普遍的な真理なのです。この書は、人間が罪のゆえに、神から離れ、空しくなってしまったことが書かれており、神に立ち帰るように勧めていますが、その神に帰る道については記されてありません。それは、新約聖書に記されています。

 

ある書物にこんなことが書いてありました。「空しい」という字をもし数字で表すならば「0」ですが、1×0=0。100.000×0=0。1000億×0=0。100兆×0=0。どんなに大きな数字でも0を掛ければみんな0になってしまうのです。この「0」という数字は巨大な数字をも飲み込んでしまう恐ろしい数字です。莫大な資産やお金を蓄え、大きな地位や名誉を得、また社会的に多くの貢献をしても、もし、神を信じない人生であればすべては「空」であり、「0」になってしまうのです。

コヘレトの言葉の最後にはこのように記されています。

「すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。神は、善をも悪をも/一切の業を、隠れたこともすべて/裁きの座に引き出されるであろう。」(コヘレト12:13~14)

 

コヘレトの言葉には、神に帰る道が示されていませんが、新約にはその道が明確に示されているのです。イエス・キリストこそ、その唯一の道です。キリスト以外には決して道はありません。イエス・キリスは、私たちを神のない空しい人生から救い出すために、この世界に救い主となって来てくださいました。そして、十字架で私たちの罪の身代わりとなって死んでくださったのです。この御方を信じる者は、罪が赦され、神との交わりを回復して、本当の喜びに満ち溢れたた人生を歩むことが出来ます。

 

「イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネの福音書14:6)。

 

死亡率100%

 

「あなたはあなたの神に会う備えをせよ。」(アモス書4:12)。

 

もしあなたが「死亡率は100パーセントです!」ということばを耳にされたら、あなたは、「一体それは何の病気ですか?」とお尋ねになられるのではないかと思います。「何かの癌の病気だろうか?」とか、その他、「ウイルス感染による何かの病気かもしれない。」などと、いろいろ思いを巡らすことでしょう。参考のために申し上げますと、因みに、ある統計によれば死亡の原因として日本で多いのは平成17年では、癌が30.1%、心臓病16.0%、脳卒中12.3%、肺炎9.9%。この4つで7割だそうです。でも、10代は事故死が多く、20代は自殺が多いという結果が出ています。

 

それでは、一体「死亡率100パーセント」というのは、何が原因なのだろうか?と思われることでしょう。単刀直入に申し上げましょう。

それは、「人間の死亡率は100%」ということです。癌にならなくても、交通事故に遭わなくても、戦争やテロで死ななくても、人間は最後にはみな100%死ぬのです。いかに医学が進歩したとしても、日本人の平均寿命が伸びたとしても、人はみな最後には死ぬのです。そして、「自分は今は若いから安心だ!」とか、「自分は健康だから安心さ!」などと言うことはできないのです。若い方も、ある日突然、何かの事故に遭遇しないとは断言できません。健康には自信があると思っている方も、安心はできません。ある日、突然急病で倒れ、救急車で病院に運ばれたら、もう心臓が停止して息を引き取ってしまっていたということも決して珍しくないのです。

 

世界中で、平均すると1年に6千万人が亡くなっています。1日に換算すると、世界中で、16万5千人位の方が亡くなっている計算になります。もちろん、その中には生まれて間もない赤ちゃんや幼児もいれば老人もいます。豪邸に住んでいるお金持ちの人もいれば貧乏人やホームレスの人もいます。身分の高い人や権力者もいれば、その反対に身分の低い人もいます。また、頑健な体を持った健常者もいれば、身体障害者もいます。人種も様々です。「死」はすべての人に平等に、必ず来るのです。人間はだれでも、できるだけ自分の「死」について考えないように努めようとしますが、これは、どうしても避けることのできない現実です。

 

ですから、「私は絶対大丈夫!」と言い切れる人はだれもいないのです。「死」の問題はすべての人に無関係ではありません。どのようなことでも他人の問題として考えているうちは、人はそんなに真剣にならないものです。しかし、自分自身の問題として捉えるときに、初めて真剣に考えるようになるのではないでしょうか。「死」はあなた自身の最も重要な問題です。新約聖書の中で、主イエス・キリストは権威のあるおことばで、次のようなお話をなさいました。これは、例え話ではなく、事実であります。イエス様は多くの例え話をなさいましたが、その中で名前が出て来たことは一度もありません。しかし、この話には「ラザロ」という名前が出て来ますので、実話であることが分かります。

 

「◆金持ちとラザロ

 

16:19 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。

16:20 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、

16:21 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。

16:22 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。

16:23 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。

16:24 そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』

16:25 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。

16:26 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』

16:27 金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。

16:28 わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』

16:29 しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』

16:30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』

16:31 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」(ルカの福音書16:19~28)。

 

「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)。

 

人は死んだら何もなくなって無の世界で、「死んだらもうおしまいだよ。」と思っておられる方も多いですが、神の言葉である聖書によれば、決して肉体の死ですべてが終わりではなく、人間はみな神の前には罪人ですから、死後には神の永遠のさばきがあることを教えています。

しかし、神は愛なる御方ですから、人類が救われる道を備えて下さいました。その救いの道というのは、神がご自分の御子イエス・キリストをこの世にお遣わしになられ、赤子としてユダヤ寒村ベツレヘムの馬小屋で誕生せられ、33歳の時に、私たちの罪を背負って十字架に掛けられ、身代わりに死んで、三日後に復活されたことであります。どうか、この大いなる神の愛をお知りになって下さい。キリストを救い主と信じることこそ、「死」に備えることなのです。そして、このイエス・キリストの御名による以外には救われる道はないことも聖書は断言しているのです。

 

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

 

「この方(キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには私たちが救われる名としては、どのような名も、人間には与えられていないからです。」(使徒の働き:4:12)。

 

どうか、あなたもご自分の問題として真剣にこの「死」の厳粛な事実についてお考え下さい。ニュースで、だれか有名人が若くして亡くなったことが報じられると、人は驚き、悲しむでしょう。でも、「死」を自分の問題として真剣に考えようとする人は稀にしかいません。隣りの家の人が何かの病気や事故で死んでも、「自分だけは死ぬことはない。」と頭の中で考えているのではないでしょうか。

街を歩いている人を見ても、電車に乗っている人を見ても、みな、「自分は死とは関係ない。」と思って生きているように見えるのは、私だけでしょうか。人は、出産、入学、進学、就職、結婚、マイホームの建築、老後などのために備えをします。しかし、なぜ、人は、万人に必ず訪れる死のために備えをしようとしないのでしょうか。私にはそれが不思議でなりません。

 

「もし、世界に核戦争が勃発したらどうしょう‥‥」と、世界の多くの人たちはそのような事態を避けるために、懸命に努力をしています。なぜでしょうか。それは、「死」が恐ろしいからです。しかし、冷静になってお考えください。核戦争が起こっても、死者の数は、起こらなかった時よりも多くなるわけではありません。なぜなら、人間の死亡率は100%だからです。

核戦争やテロが起こらなくても、人は必ず死ぬ時が来るのです。地球の温暖化は進み、地球環境は益々悪化の一途を辿り、私たちが住みにくい環境になりつつあります。これから、年々、温暖化が進んで行くと、地球の生態系も変わり、また、真夏の猛暑はさらに酷くなり、大型台風その他の甚大な被害を与える災害の増加などを人々は恐れています。それは、なぜでしょうか。明らかなことは、人はみな「死」を恐れているからです。

 

では、人はなぜ死ぬようになったのでしょうか。人類は最初から死ぬべき者として創造されたのではありません。これは後でも記していきたいと思いますが、唯一の神(創造者)は、最初のアダムを創造されたとき、すべての良い環境が備えられたエデンの園に住まわせました。神である主は、人に命じて仰せられたのです。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」 (創世記2:16,17)と。

ところが、人間は悪魔の誘惑に陥り、サタンの誘いのままに、妻のエバと共に禁断の木の実を食べ、神の掟を破り、死ぬべき者となってしまいました。それから、人類は今日に至るまで、神に背を向けて自分勝手な罪の道を歩み、死と永遠の滅びへの道を歩んでいるのです。

 

「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」(ローマ人への手紙5:12)。

 

「罪が支払う報酬は死です。‥‥」(ローマ人への手紙6:23)。

 

「死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。‥‥。」(ヘブル人への手紙2:15)。

 

「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)。

 

著名な科学者たちが神を信じていることからも分かるように、どんなに科学や医学が進歩しても、人間の「罪」と「死」の問題を解決することは不可能なのです。医学によって、ある病気を一時的に治癒させることができたとしても、それは僅かに延命に役立つかもしれませんが、「死」の問題の解決にはならないのです。

科学の力も、権力も、お金の力も、人類の「死」の問題を解決することはできません。人ができるだけ健康に留意し、そのために様々な努力をしたとしても、人は決して「死」から逃れることはできません。私たちが死を避けようとして逃げても、「死」が私たちを追いかけて来るのです。逃げても、逃げても、追いかけて来るのです。太陽が前方にある時、自分の影が後ろにできますが、その影からどんなに逃げようとしても、逃げることは不可能ですね。自分の「死」から逃げることも同じことなのです。

 

人間の死後の世界は?

 

人は生きている限り、だれでも無意識の中にも「死」について考えない人はいないのではないかと思います。人生について、生きることと死ぬことについて真面目に考える人もいれば、いい加減に軽くあしらう人もいれば、故意に死について考えるのを避けようとする人もいます。

あるいは、「死後の世界などあるはずがない!」と断言する方もおられます。しかし、無神論者や唯物論者であっても、「死」に対して何らかの恐怖や不安を抱いていることは確かです。人が癌を宣告されたり、災害や交通事故などに恐怖を抱くのも、所詮死が怖いからではないでしょうか。

しかし、それでも不思議なことに、死を自分自身の問題として考えることなく、「他人は死んでも自分だけは死なない。」というような顔をして生きている人がいるのもまた事実なのです。

 

人間の死について、真剣に考え悩んでおられるAさんが、ある冊子に次のようなことを書いています。「死後の世界は本当にあるのだろうか?当たり前のことだが、今を生きている私には到底分かるはずもない。死という入り口に立って、はじめてその扉の向こうを知ることになるのだろうか。

『天国か地獄か、どちらがいい?』と聞かれれば、それは天国の方がいいと答えるに決まっている。誰も自ら好んで、地獄へ行きたいなんて思わないだろう。昔から人々は死の恐怖に怯えて来たことは事実である。

そして、私も人はなぜ死ぬのだろうと考える時がある。目に見えない世界というものは、不思議と大きな脅威を感じるものである。生と死、生まれながらの境遇の差異など、生まれてから死ぬまで人生の悩みは尽きません。‥‥‥」

 

「‥‥‥でもそれだけ生命というものは、多くの神秘性を秘めているのだと思います。生死について、学術的なものから霊的なものまで、実に様々な説があるかもしれないけれど、何が正しくて何が間違っているかなんて、本当のところ誰にも分からないのだろう。心の拠り所を求めて迷い彷徨う中で、『これは絶対に間違いのない真理です』と言い切られると、そうなのかもしれないと思ってしまう。よく分からないけれど、間違いなく天国へ行けるける切符を手に入れたような安心感が欲しいのです。死後の世界。それはあるのかもしれないし、ないのかもしれない。それを否定する人もいれば、肯定する人もいるだろう。人それぞれ、その思いは十人十色だ。だけど、私は真理はひとつのような気がするのです。」

 

私は、このAさんの「人生」における生と死の問題を真っ向から考えようとする真摯な考え方、真面目に「死」の問題を熟考する姿に共鳴すら覚えるのです。

今の時代、多くの方は、人生、今が楽しければそれで良いのだと言って「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。」(Ⅰコリント15:32)と、刹那的な快楽生活を追い求めて行く人たちの中にあって、生きる意味や死の問題について真剣に考えていることは幸いなことであり、このような人生の求道者は稀有に近いと言っても過言ではありません。

私は、彼の文章の中で、「私は真理はひとつのような気がするのです。」と言っていることに対して、彼が大変理性的で、その論理が整然としているのを感じるのです。「真理は一つである。」ということは正しいことです。

 

「1+2=3」という答えは一つです。この答えは一つであり、時代や国によって変わることはありません。「この宇宙はどうして出来たのか?」という質問の答えは一つです。進化論も正しければ神(創造者)が造られたという答えも、両方とも正しいということはないのです。聖書は「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)と語っています。真理はこれ一つです。人間の死の問題についても同様です。その問題の答えは、一つです。聖書は「死がどのようにして人類に入って来たのか。」「人間の死後はどなるのか。」「人間はどうしたら死の恐怖と不安から解放されるのか。」について、明解に答えています。

 

ですから、どうか、みなさん、Aさんと同じ悩みをお持ちの方は、是非、神が啓示された唯一の真理の書である聖書の語る言葉に耳を傾けて下さい。アダム以来のすべての人類は神の前に罪を犯しました。そして、死後、神の永遠のさばきを受けるべき者となってしまった人間一人一人を愛なる神様は、ご自身のひとり子、イエス・キリストを救い主として、この世に遣わされ、キリストは罪のない聖よいご生涯の後に、十字架に架かられて私たち罪人の身代わりとなって死んでくださったのです。そして、死後三日目に復活されたのです。

このお方を救い主として信じる者は永遠のいのちを受け、死後も天国に行くことが出来るのです。しかし、それを信じるか、信じないかは聞く者一人一人の自由です。信仰はだれによっても強制されたりするべきものではありません。

 

天国と地獄への分かれ道

 

人間は、だれでも必ず死ぬ時が来ることを知っていますが、「人は、死んだらどうなるのか」という問題に対して、殆どの方は漠然としていて、「分からない‥」と答えます。また、「死後は無であるに決まっている!」と断言する方もおられます。しかし、その根拠となるものはなく、ただの推測に過ぎません。 人間というものは、とかく自分が望んでいることを信じたがるのです。しかし、この「死と死後」の問題は、軽々しく取り扱うべき問題ではなく、非常に厳粛な事柄です。死後には永遠の世界があるからです。

 

さて、死後の世界は無ではなく、明確に二つの世界があると神の言葉である聖書は告げています。その二つというのは、「天国」と「地獄」(火の池)です。地獄と書いたのは、日本人に分かり易く書いたのであって、文字通りには、「火の池」(英訳:Lake of fire )です。私は、ただ聖書に書いてある事実だけを皆様に紹介しています。そして、それを信じるか信じないかも自由です。

第一に、「天国」については、ヨハネの黙示録に次のように書かれています。

 

「21:1 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。

21:2 更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。

21:3 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、

21:4 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」」

(ヨハネの黙示録21:1~4)。

 

また、地獄(火の池)については、次のように記述されています。これは、大きな白き御座における人類の「最後の審判」の場面です。ヨハネは、神から啓示されてその見たままを記したのです。ですから、これは、うそ偽り無く、真実な言葉です。私は、これをそのまま信じています。

 

「20:11 わたしはまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった。

 

20:12 わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。

20:13 海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。

20:14 死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。

20:15 その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。」

(ヨハネの黙示録20:11~15)。

 

そのすべてを紹介するスペースはありませんが、新約聖書の多くの個所で、死後には、間違いなく、二つの世界があることを語っています。イエス・キリストは次のように語られました。

 

「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。 」(マタイの福音書7:13,14)。

 

ここで、「滅び」とは永遠のさばきである「火の池」を示しており、「いのち」は永遠の慰めに満ちている天国を示しています。そして、殆どの方が永遠の滅びに至る広い道を歩んでいると、イエス様は警告されました。今の時代も同じです。神の存在や、地獄について語ると、人々はあざ笑うのです。しかし、それは聖書にもあらかじめ予告されていたことなのです。

 

それでは、天国行きと地獄行きとの分かれ道は、どこにあるのでしょうか。日本人の多くの方が考えているように、殺人犯や極悪非道な犯罪者が行くところが地獄で、いわゆる善人とか、多くの慈善を行った人が天国に行くのでしょうか。いいえ。そうではありません。聖書には、次のように書かれています。これは、非常に重要な真理ですから、よくよくお考えになってください。

 

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ(天国に入る)が、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒り(神の永遠のさばき)がその上にとどまる。 」(ヨハネの福音書3:36)。

 

これらのみことばにありますように、死後の二つの世界を分けるものは、神が救い主としてこの世に遣わされた御子を信じるか否かにかかっているのです。神の存在を認めるだけでは、天国に入ることはできません。キリストの十字架がその分岐点です。パウロは聖霊に導かれて次のように書いています。

 

「十字架のことば(福音)は、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。 」(コリント第一の手紙1:18)。

 

私たちの救い主として十字架につけられたイエス・キリストを信じ受け入れるなら、人は救われるのです。イエス様と共に十字架につけられたあの二人の強盗は、一人は地獄へ、一人は天国に行きました。それは、キリストを信じたか否かで二つに分かれたのです。そしてそれは、永遠の別離です。パウロは老人になり、福音のために牢獄に繋がれていましたが、殉教を目前にして、彼の最後の手紙にこのように書いています。そこには、死後の世界に対して、少しの不安もなく、確信に満ちていることが分かります。あなたも、今、永遠の分かれ道の分岐点に立っています。あなたはどちらの道を選ばれますか?どうぞ、勇気をもって賢明な決断をなさって下さい。

 

「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。 」(テモテへの第二の手紙4:8)。

 

天からの封書である聖書の言葉のいくつかを挙げておきます。

「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」(ローマ人への手紙5:12)。

 

「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)。

 

「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 」(ローマ人への手紙5:6~8)。

 

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 」(ローマ人への手紙3:23,24)。

 

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

 

「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 (ヨハネの黙示録21:4)。

 

「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ローマ人への手紙6:23)。

 

「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」(ヘブル人への手紙2:14,15)。

 

「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。」(1ペテロ3:18)。

 

「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3:36)。

 

「天国と地獄」。「死と永遠のいのち」。これは、人間が最終的に行き着くところの両極端です。私たちは、罪のゆえに、そのままでは、永遠の滅び(地獄)に行くべき存在です。しかし、愛なる神様は、イエス・キリストの十字架のゆえに、「永遠のいのち」を恵みによって与えてくださる方なのです。

そのためには、自分が神の前に罪人であるという事実を素直に認めて、賜物としての救い(永遠のいのち)を受け入れる従順な心がなければならないのです。神様はあなたにもその賜物を与えようとしておられます。どうか、あなたも、砕かれた心をお持ちになられて、救い主イエス様を信仰によって受け入れ、愛なる神様の尊い救いをご自分のものとなさってくださいますように心からお勧めいたします。

 

信仰問答書から、人生の目的を考える

 

人生の目的について、ハイデルベルク信仰問答とウエストミンスター小教理問答ではこのように記しています。これを解説するかたちでお答えしたいと思います。

まず、ハイデルベルク信仰問答では、

 

問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。

答 わたしがわたし自身のものではなく、身も魂も、生きるにも死ぬにも、

わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。

この方は御自分の尊い血をもって、わたしのすべての罪を完全に償い、

悪魔のあらゆる力からわたしを解き放ってくださいました。

また、天にいますわたしの父の御旨でなければ、

髪の毛一本も頭から落ちることができないほどに、

わたしを守ってくださいます。

実に万事がわたしの益となるように働くのです。

そうしてまた、御自身の聖霊によってわたしに永遠の命を保証し、

今から後この方のために生きることを心から喜ぶように、

またそれにふさわしいように整えてもくださるのです。

 

これは、プロテスタントのキリスト教会に広く愛されてきた信仰問答の一つであるハイデルベルク信仰問答の第一問の問いです。

 

「生きるにも死ぬにも」と問うています。この世において生きるだけではありません。死ぬときにも、これさえあればだいじょうぶだというものは何か、というのです。・・・ふつう、人々は多くのものを自分のもとに集めて、安心しようとするかもしれません。

主イエスは、この世のことしか考えていない人に対して、「愚かな金持ち」のたとえをお話になりました。

「イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』

しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」(ルカの福音書12:16~21)

 

このたとえは、特に説明は必要ないでしょう。この世の楽しみだけを考えているお金持ちに対して主イエスは、「愚か者」と言われています。

先に挙げたコヘレトの言葉も同じことに言及しているのですが、人生の目的は、この世のことだけを考えていては分からないのです。私たちのこの人生を真実に実りあるものとしていくためには、私たちのいのち=神によって活かされているいのちについての理解やこの世の先にある人生を意識して今を生きること、やがて来る自分自身の死に備える生き方をすることが必要です。

 

(1)ただ一つの慰め

 

この第一問は、ハイデルベルク信仰問答全体の構成では「序、ただ一つの慰め」と表題が付けられている部分です。信仰問答書が最初にどのような問いから始められるかは、とても重要なことです。

しばしばハイデルベルクと比較されるのは次に述べるウエストミンスター小教理問答ですが、その第一問は次のように始められます。

「問一 人の主な目的は何ですか。

答 人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」。

 

このように最初に人生の目的を問う順序は、カルヴァンの「ジュネーヴ教会信仰問答」の「問一 人生の主な目的は何ですか。答 神を知ることです」という問答以来の伝統です。

これらの問いは主イエス・キリストによって成し遂げられた救いの御業が創造から終末という光の中でどのような意味を持つのかを示す大きなスケールを持っていることがわかります。

「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)

 

(2)生きるにも死ぬにも

 

「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」と問うのに対して、まず次のように答えられます。「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生さるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです」。

冒頭の「生きるにも死ぬにも」では人の一生を貫く慰めが問われています。普段の生活では慰めになっても、死の時に際しては役に立たないとか、死ぬ間際になってのみ力を発揮する慰めを問うているのではないのです。

 

村上春樹という小説家がある小説の中で「死とは生の対極にあるのではなく、その延長にあるのだ」と言いましたが、まさにそのような延長線上で絶えず慰めになるものは何か、と問うているのです。しかもそのような慰めは二つも三つもあるはずのものではありません。本当に人の生と死における慰めとなるべきものはただ一つであるはずです。また他人から借りてきて事足りる、その場限りの気休めではなく、「あなたの慰め」、「私の慰め」と言うべきものが問われているのです。

 

この「あなたの慰めは何か」という問いに対して、「わたしはわたし自身のものではない」ということが慰めだと答えられます。これはどういう意味でしょうか。後に続く問いの中で、この慰めの中で生き、また死ぬためには自分の罪と悲惨を知らなければならない、と教えられているところから、この慰めが罪と悲惨と対極のものであることが分かります。

そしてこの罪と悲惨の姿こそ、「わたしはわたし自身のものだ」という生き方でありました。それは神に背を向けて罪と悲惨の中を生きる人間の姿、頼るべきものを持たない孤独な人間の姿です。しかしそこから「わたしはわたし自身のものではない」という人生の転換が起こる。ではわたしは誰のものなのか。それが「体も魂も、生さるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです」に続くのです。

体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしがわたしの救い主イエス・キリストのものとされていること、もはや孤独に一人で立っているのではなく、キリストの恵みに与って、キリストのものとされて生きていく。これが唯一の慰めだと教えられるのです。

 

(3)仲保者キリストの御業

 

ではわたしをご自身のものとして下さるために救い主イエス・キリストは何を為して下さったのかという仲保者キリストの御業が三つの点から教えられます。

第一に「この方は御自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました」。

第二に「また、天にいますわたしの父の御旨でなければ髪の毛一本も落ちることができないほどに、わたしを守っていてくださいます。実に万事がわたしの救いのために働くのです」。

第三に「そしてまた、御自身の聖霊によりわたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜び、またそれにふさわしくなるように、整えてもくださるのです」。

 

ここで述べられている三つのことは、神と人との間の恵みの契約の仲保者なる主イエス・キリストが、私たちを「救い、保ち、全うして」下さるご自身の御業についてですが、同時に主イエス・キリストの私たちに対する「過去・現在・未来」の御業とも言うことが出来るものです。

 

まず第一のことは主イエス・キリストがすでに成し遂げて下さった罪からの贖いです。第一ペテロ1:18~19に「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです」とあるように、主は十字架の上でご自身の尊い血を流して下さったことにより、罪と悲惨の中にあった私たちの罪を完全に贖い、悪魔の死の力から解放してくださったのです。

このキリストの贖いの完全さの故に、この救いに与った者は今まさに神の恵みの中で守られ、保たれることを教えるのが第二の点です。ローマ8:28に「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」とあるように、神の摂理の御手は私たちを守り、生きるにも死ぬにも、一日一日と起こる全てのことを私の救いのために益としてくださるのです。しかも、このキリストの御業は今だけでなくこれから後においても働き続けます。この私の救いを聖霊が保証し、その救いと永遠の命の約束を全うしてくださるばかりか、私たちが主イエスのものとして、この方のために生きる者とし、そのような生き方を心から喜ぶ者とし、そのような生き方に相応しい者へと整えて下さるのです。これが第三の点であり、いわゆる「聖化」の教えです。

 

このようにハイデルベルクの第一問が私たちがキリストのものとされていることを唯一の慰めであると教える時、そこでは私たちがそのことを知ったことに満足するのではなく、そのキリストのために生きる者となるところまでをその教えの射程に収めていることがわかります。つまりこの信仰問答は、私たちが私たちのために贖いを成し遂げて下さった主イエス・キリストのために生きることへの励ましと促しを与えるために記されているのです。

その意味では冒頭に紹介した人生の目的を問う問い方と同じ響きを持つ問答であることが分かります。私のためにキリストは十字架の贖いを成し遂げて下さった。だから私はもはや私自身のものでなくキリストのものであり、私の人生もキリストのための人生、神の栄光のために生きる人生であると教えられます。学ぶ者から生きる者へと導かれていく。そのように生きる力のない私たちに御霊が働いてくださる。キリストのものとして生きるための具体的な力を御霊が豊かに与えてくださるのです。

 

引き続いて、ウエストミンスター小教理問答の第1問をみてみましょう。

 

問い1 人のおもな目的は、何ですか。

答 人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。

 

主な目的の必要性

 

私たちは生まれてから死ぬまでに、力を尽くして立ち向かうべき様々な課題が与えられます。勉強・育児・職業など、課題は尽きることがありません。

けれども、その時々の課題に身をすり減らし、ベルトコンベアーで運ばれるようにいつの間にか死という終着点に辿り着くのでは、あまりに空しい一生です。

また現代では、様々な課題を終えた老後の生活も長いのです。その時々の課題だけが生きる目的であるならば、長い老後は用無しの人生になります。

人間として生きている限り、生き甲斐のある人生を送るためには、どんな時も変わらない「人の主な目的」を知る必要があります。

 

主な目的の二つの要素

 

人が主な目的とできるものは限られています。

 

第一に、人には使命(目標)が必要です。目標のない人生は、どんなに楽しみがたくさんあっても、空しい人生です。

生きている限り持つことができる人生の目標を見つけることは難しいことです。聖書は「神の栄光をあらわす」ことを私たちの使命と教えています。これは生きる限り持つことの出来る目標です。勉強・育児・職業を通し、また、終生変わらない祈りと信仰によって、私たちは神の栄光を現すことができるのです。

 

第二に、人には喜び(幸福)が必要です。使命感だけの人生は辛く苦しいものです。慰めや喜びが私たちには必要です。

生きる限り続く喜びも見い出しにくいものです。聖書は「神を喜ぶこと」を変わらない喜びとして教えています。若い日も老齢の日も、愛と清さに満ちた素晴らしい神様を仰ぐ時、私たちの人生から喜びが失くなる日がないのです。

 

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)

 

(1)ウエストミンスター小教理問答について

 

「宗教改革の信仰の集大成」、「ピューリタン神学の精華」と呼ばれる「ウエストミンスター小教理問答」は、17世紀英国イングランドのピューリタン革命の最中、1643年から1649年にかけて開催された「ウエストミンスター神学者会議」が生み出した文書の中の一つです。

当時、英国内は国王チャールズ一世率いる王党派と議会派が対立して内戦状態にあり、国王の圧政に与する国教会に対立する議会派は聖書に立った正しい教会の改革を願って国内の神学者たちを招集し、ロンドンのウエストミンスター聖堂において実に五年以上の会議を続けていったのです。

 

この会議に集うことは国王と国教会に反旗を翻すことを意味するため、まさにいのちがけの会議であったと言われます。また当時、独立した王国であったスコットランド国内でも国王と議会の対立が続き、ジョン・ノックス以来改革派の伝統にあったスコットランド教会がイングランド国王の圧力の中でカトリックへの転向を要求されるようになり、これに反対して抵抗する人々が立ち上がって内戦が勃発していました。このような状況下で英国の議会派とスコットランドの抵抗グループが協力しあうようになり、神学者会議にもスコットランド教会からの特命委員が派遣されて、これらの諸文書の作成に携わるようになっていったのです。

 

このような経緯を辿って作り上げられたのがウエストミンスター信仰告白、大教理問答、小教理問答のあわせて「ウエストミンスター信仰基準」(Westminster Standards)と呼ばれるもので、自分たちが聖書から教えられ、代々の教会から受け継いできた教会の信仰を言い表した「信仰告白」(Confession of Faith)、それを信徒たちに教えるための牧師の教科書、あるいは信仰告白の注解のような役割を果たす「大教理問答」(Larger Catechism)、そして実際の教会員たちのための教材として用いられる「小教理問答」(Shorter Catechism)の三部作となっています。

 

この中でも小教理問答は、実際に教会員たちが繰り返し学び続けるために用いられてきたものです。また神学者会議はこれらに加えて教会政治の要綱や公的礼拝の指針など、実際に教会が建て上げられていくために必要な諸文書を作り出していきました。

こうして出来上がったウエストミンスター信仰基準は、その後、主として欧米の改革長老系の教会が広く用いられ、日本でも早くも1873年(明治6年)には「耶蘇教略問答」という名で和訳が出版され、以後、数多くの和訳が出され、今日でも広く普及して多くの教会で用いられてきているのです。

 

(2)人生の目的を問う

 

改めて、最初の問いを見ていきましょう。

「第1問:人のおもな目的は何ですか。

答え:人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」。

 

小教理問答を知らなくても、この第一の問答だけは知っていると言う人がいるほどに、大変有名な、そして心に残る問答が記されます。信仰問答のはじめにどのような問いが置かれるかが、その問答全体の性格を決めることになる重要なものです。

ハイデルベルク信仰問答は「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」という問いで始まっていましたし、カルヴァンが著したジュネーヴ教会信仰問答の第一問は「人生の主な目的は何ですか」という問いになっています。そして今日の小教理問答の第一問の「人の主な目的は何ですか」という問いを読むならば、人の人生の、生と死における、主なただ一つの、慰めや目的は何か、といういわば人の人生の一番大切な問い、究極の問いを発していると言えるでしょう。

 

「人のおもな目的」というと少々漠然と聞こえるかも知れません。「人」というのは単に人間一般、人類一般ということにとどまりません。むしろそこでは神の御前にあるこの「私」が問われています。私自身を問うことなしに人間一般を問うてもそれは抽象の話しになるだけで、私の人生に関わる切実さが生まれてはきません。ですからここでは「私の人生」が問われているのです。

また「おもな目的」というとこれもまた漠然とした印象があるかも知れません。他の日本語訳では「人の第一の目的」、「主たる目的」となっていますが、もとの言葉では「最高の、主要な、第一の目的」という意味が込められています。

また大教理問答では「人の主な、最高の目的は何か」と問われています。

つまり人の人生の究極の目的と言ってもよいでしょう。つまりそれなしには私たちの人生が無に帰せられてしまうほどの、しかしひとたびそれを見出すならば、私たちの人生が決定的な意味を持つほどの究極的で第一の目的、それが問われているのです。主イエス・キリストがこう言われた通りです。

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」(マタイ6:33)。

「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(同16:26)。

 

「人は、そして私はいったい何のために生きるのか。私の生きる目的は何か」。これは私たちが人生において一度は必ず向き合わなければならない問いです。そういう大上段に構えた問い方をしないまでも、私たちは日々を生きる中で、なぜ生きるのか、なぜ学ぶのか、なぜ働くのか、その意味を繰り返し問い続けながら生きています。

意味のないことのために生きることほど苦痛なことはありません。自分のしていることに何の意味もないとすれば、私たちはたちまち生きる気力を失って絶望の淵に立つことになるでしょう。それは人が意味を問う存在であるからです。

けれどもその一方で、この問いに対してはっきりとした答えを断言することのできないもどかしさの中にあるというのが私たちの現実の姿なのではないでしょうか。こういう問いは若い時の青臭い問いだという人がありますが、そうとばかりは言えません。むしろ中高年になっても老年になっても、人は皆この問いかけを抱き続けています。

 

しかしその答えが分からないというと自分の人生が無意味だということになるので、いい学校に入り、いい就職をし、いい家庭を築き、いい社会的地位を得て、いい暮らしをし、いい老年を迎え、あまり周りに迷惑もかけずに最後を迎えられればよい、というような当面の目的でやり過ごしているということではないでしょうか。

しかし小教理問答はあえて人生の目的を問う、この究極の問いを私たちに向けて発するのです。問いが発せられるからにはそこに答えが用意されています。この問いかけとしっかり向き合いながら、人生の目的を尋ね求め、その答えを受け取っていきたいと思います。

 

「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」(Iコリント10:31)

 

(3)神の栄光をあらわす

 

小教理問答は人間の生きる目的を「神の栄光をあらわすこと」と「永遠に神を喜ぶこと」であると言いました。これは二つの別々な目的ではなく、一つに結び合わされた人間の究極の目的を意味しています。しかし最初にまず覚えなければならないのは、神の栄光をあらわすということはそもそも生まれながらの罪ある人間にはできないということ、さらには神御自身が栄光に包まれたお方であり、私たちが栄光を現すことをせずとも自らすでに栄光に充ち満ちたお方であられるということ、そして神の栄光の御前では人間は恐れおののくほかないということです。にもかかわらず、主なる神はそのような私たちを通してご自身の栄光をあらわし、ご自身をほめたたえることをよしとしてくださいました。なぜならそれは創造のはじめに主なる神が私たち人間をつくられた時の究極の目的だったからです。

イザヤ書43章7節にこう言われている通りです。「彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し/形づくり、完成した者。」

ハイデルベルク信仰問答も第6問で、創造された当初の人間の目的を次のように解説しています。「人が自らの造り主なる神を正しく知り、心から愛し、永遠の幸いのうちを神とともに生き、そうして神をほめ歌い、賛美するためでした」。

 

罪の中にあった私たちは神の栄光をあらわすどころか、かえって神を無視し、その御名を汚し、自分の栄光や自分の欲望を追い求めて生きてきました。

しかしそれらは真の人生の目的とはなりえないことを知らされ、主イエス・キリストを信じ、救われた時に、本当の人生の目的が何であるかを知ることができるようにされたのです。

それは神が創造のはじめに与えられた目的に立ち返ることであり、本来の人間のあるべき姿を回復することを意味していました。もはや自分の栄光、自分の欲望、自分の自己実現が私の人生の目的ではなく、私を形造り、私を生かし、私を愛し、私を救ってくださった神の栄光をあらわして生きること、しかもそれが「食べるにも、飲むにも、何をするにも」とあるように、生活の隅々にまで及び、また日常のもっとも現実的で具体的な場において目指されていくことが大切なのです。

私たちが日々を生きる家庭で、職場で、地域で、人々との関わりの中で、そしてこの国で、私たちはその生活のただ中において神の栄光をあらわすのです。栄光の源なる神の輝きによって照らしていただき、その輝きを反射させながら、食べるにも、飲むにも、何をするにも、すべてを神の栄光のあわれることを願う祈りによって方向付けながら、この身をもって神の栄光をあらわす私たちでありたいと思います。

 

(4)永遠に神を喜ぶ

 

小教理問答は、私たち人間の生きる究極の目的として「永遠に神を喜ぶこと」であると言います。「神を喜ぶ」とは実に新鮮な言葉です。

ここにウエストミンスター信仰基準の大きな特色があると言えます。私たちは先に見た「神の栄光をあらわす」ということを願い求める上で、そのためにはいかにして神をお喜ばせできるかと考えるのですが、小教理は「何をしたら神は喜んでくださるか、どうやって神をお喜ばせするか」ではなく、「神ご自身を喜ぶこと」を教えます。神ご自身の存在が私の喜びである。これは裏返せば神がそのように私の存在を喜んでいてくださることを本当に実感する時に、私たちの内側から溢れ出てくる心なのではないかと思うのです。

 

Iテモテ6章17節には「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」とありますが、ここで神ご自身が「私たちを楽しませてくださる神」と言われていることに注目したいのです。

神は楽しみの神、喜びの神であられ、ゆえに私たちを楽しませ、喜びに満たしてくださるお方であり、したがって私たちも神を楽しみ、神を喜ぶことがゆるされる。そのような喜びの交わりが与えられているのです。

「神を喜ぶ」は原文では「エンジョイ」という言葉が使われていますが、この言葉には本来「受け取る、享受する」という意味があったと言われます。神ご自身を受け取る、神ご自身のすべての恵みと祝福にあずかる。

 

これはハイデルベルク信仰問答が第1問で私たちの生きるにおいても死ぬにおいてもただ一つの慰めが、私たちがキリストのものとされていることと語った確信と相通じるものです。また小教理問答はこの部分の証拠聖句として詩篇73篇25節から28節を挙げていますが、25節には「天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません」、28節には「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです」とあります。神の栄光をあらわし、神ご自身を受け取ることを喜びとする。ここに人の目的があるというのです。

 

しかも最後に覚えたいのは、このような人の究極の目的が、ただ単に地上の生涯におけるものだけではなく、永遠のいのちの祝福と繋がっているということです。神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶという人生の目的が完全に成就する時、それは永遠のいのちの祝福に与る時であるというのです。

このことを小教理問答は後の第38問で明らかにしています。

「問:信者は、復活の時、キリストからどんな祝福を受けますか。

答:信者は復活の時、栄光あるものによみがえらせられて、審判の日に、公に受け入れられ、無罪と宣告され、永遠に、全く神を喜ぶことにおいて完全に祝福された状態にされます」。

 

「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」(Iコリント15:42~44)

 

(5)救われた者が復活の時に受け取る祝福

 

第38問では「復活の時」にキリストから受け取る祝福が教えられていきます。これは私たちの信仰を支える一番の希望の教えです。キリストの復活を信じる私たちには、その復活のいのちに与ることによる「からだのよみがえり」が約束されているのです。

小教理問答の第3問には、聖書がおもに教えていることについて「人が神について何を信じなければならないか」と「神は人にどんな義務を求めておられるか」と記されて、小教理問答の内容が「信ずべきこと」と「守るべきこと」の大きく二つの部分に分けられることを教えていますが、今日の後に続く第39問が「神が人に求めておられる義務は、何ですか」という問いになっているように、前半部分の「信ずべきこと」の最後にあるのが、今日の第38問、信者の復活の希望の教えであることがわかります。そして次回の第39問から終わりの第107問までが、私たちの「守るべきこと」を教えているということになるのです。

 

このように今日の第38問は、私たちが信じている中身の一番最後に位置する教えですが、それはまた私たちの信仰生活の総仕上げに関わる教えでもあるのです。第38問の答えの終わりに「完全に祝福された状態にされます」とありますが、まさにここに私たちの救いの完成の状態が記されているのです。

小教理問答はこれまで、主なる神の御前における人間の姿を「状態」という言葉で言い表し、しかもそれを四つの状態に分けて教えてきました。すなわち最初は第12問にある「創造された状態」、続いて第17問にある「罪と悲惨の状態」、そして第20問にある「救いの状態」があり、最後の四つ目が今日の第38問の「完全に祝福された状態」です。つまり、私たちに与えられている復活の信仰は、私たちが主にあって完全に祝福された状態に置かれることを意味している、とても大切な教えであるということができるのです。

 

(6)公に受け入れられる

 

小教理問答は、私たちの復活が「栄光あるものによみがえらされる」と教えます。冒頭で読んだIコリント15章にあるように、朽ちることのない栄光のからだとしての復活であるというのです。私たちはこのことについてついあれこれと詮索してしまいたくなりますが、ここではともかく、今のからだと復活の時のからだには、一方では連続性があり、しかし他方では断絶性があることの両面を踏まえておきたいと思います。復活のからだは間違いなく私自身のからだそのものであるという連続性がある一方で、しかしそのからだは地上の朽ちていく卑しく弱いからだではなく、キリストの栄光の輝きを与えられた朽ちることのない栄光のからだだと言われるのです。

 

さらにここで大切なことは、「審判の日に、公に受け入れられ、無罪と宣告される」ということです。ここで「公に受け入れられる」とはどういう意味でしょうか。ヘブル書9章27節に「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」とあるように。私たちの復活のときは、主イエス・キリストが再臨され、最終的な審判のくだされる時です。その日に私たちは神の法廷において、地上で成し遂げられたキリストの贖いと、聖霊が押してくださった証印の確かさのゆえに、最終的かつ決定的に、キリストのものとして受け入れられ、無罪の宣告を与えられるのです。それはまさにマタイ福音書10章32節で主イエスが「わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます」と言われたことが現実となる時でもあるのです。

 

(7)神の栄光を表し、神を喜ぶ祝福

 

こうして栄光のからだに復活させられ、無罪を宣告された私たちの新しい姿を小教理問答は「永遠に全く神を喜ぶことにおいて完全に祝福された状態にされます」と言っています。そこで、このくだりを読んで思い起こしておきたいのが、あの有名な小教理問答の第1問です。「問:人のおもな目的は、何ですか。答:人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」。まさにこの神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶという、創造の時に主なる神が与えてくださり、しかし堕落によって失われてしまった人間本来の目的が、主イエス・キリストの救いにあずかって義とされ、子とされ、聖とされた私たちのうちに取り戻され、そしてついに復活の時に完全なかたちで回復し、成就することを知ることができるのです。

 

ここに私たちの死を根本的に乗り越えて生きることの希望、復活の希望があります。私たちの復活は、私たちが神のかたちに創造されたその最も幸いな真の人間性の回復の時であり、恵みの契約の完成の時であり、私たちが栄光のからだをもって、御子イエス・キリストの似姿に変えられる、栄化の成就の時であり、そして天の御国で、永遠に神の栄光をあらわし、神を喜んで生きることのできる真の意味での礼拝的な生の全うされる時です。

この希望に生かされて地上の日々を生きるとき、私たちは主の日ごとに礼拝に集い、生ける主の御名を賛美し、この方を礼拝することを通して、また毎日のなにげない日常生活の中で「食べるにも、飲むにも、何をするにも神の栄光を表す」ことを願いつつ生きるとき、そこですでにこの天の御国での栄光に満ちた生活の予行練習をしているとさえ言うことができるのです。この喜びを味わいつつ、主にある希望に生かされていきたいと願います。

 

あわせてハイデルベルク信仰問答の第57~58問も見ておきましょう。

「問:『永遠のいのち』という箇条は、あなたにどのような慰めを与えますか。答:わたしが今、永遠の喜びの始まりを心に感じているように、この生涯の後には、目が見もせず耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったような完全な祝福を受け、神を永遠にほめたたえるようになる、ということです」。

このように主イエス・キリストによって救われ、神に造られた本来の人間の目的に取り戻された私たちにとっては、この地上で生きる日常の営みと永遠のいのちへの祝福とが一つの同じ目的によってしっかりと結び合わされているのです。

「するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。」。(ルカ23:43)。

 

(8)よみがえりと栄化の祝福

 

第57問と第58問のいずれの問いも「あなたにどのような慰めを与えますか」という問いかけになっています。この信仰問答は身体のよみがえりと永遠の命の問題を、単なる人間の死後の状態への興味関心として扱うのではなく、それらが基本的に信仰者の慰めに関わる問題としてとらえていることが分かります。

さて、身体のよみがえりについて、第57問は次のように二つの点を挙げて答えます。第一に「わたしの魂が、この生涯の後直ちに、頭なるキリストのもとへ迎え入れられること」、第二に「やがてわたしのこの身体もまた、キリストの御力によって引き起こされ、再びわたしの魂と結び合わされて、キリストの栄光の御体と同じ形に変えられる、ということです」。

 

ここには死後の魂と身体の状態について述べられていますが、まず第一の点で大切なのは「直ちに」という一語です。魂は死後直ちに頭なるキリストのもとに迎え入れられる。そして第二に、やがての時に身体も復活させられ、魂と結び合わされ、キリストの栄光の身体と同じ形に変えられる、すなわち「栄化」される、というのです。もちろん聖書の人間観によれば霊肉二元論はありえませんし、永遠の領域において第一、第二という時間的段階を想定することもできません。けれどもこの問答の意図を理解するには、その背景となった当時の教会の状況を考えることが必要なのです。

 

この教理の背景にあったのは、一方で当時のカトリック神学が構築して「煉獄」の教理と、他方では古代のプラトン哲学の流れをひく「霊魂不滅説」でした。これらの誤った理解に対して正しい聖書的信仰を示そうとするのがこの問答の意図だったのです。煉獄の教えによれば、死んだ後の人間の霊魂は煉獄に移され、そこである者は償いをし、ある者はとりなされることによって完全な救いを得るための一時的な場所とされますが、聖書がそのような中間的な状態についての教えを拒否していることは冒頭に開いたルカ福音書の御言葉からも明らかです。

 

あわせてヨハネの手紙一3章2節、フィリピ書3章21節をも読んでおきたいと思います。「愛する者たち、私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです」。「キリストは、万物を御自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、御自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです」。

 

(9)神とともにある完全な祝福

 

さて、このようにして身体のよみがえりの信仰を賜っている私たちは、その後迎え入れられる永遠の命の祝福についても確かな希望と約束を頂いています。死の問題に対する解決が与えられていることの恵みの大きさを思うものです。ハイデルベルクの第58問は、この永遠の命の信仰が私たちにもたらす慰めを次のような希望に溢れる語り口で語りました。「わたしが今、永遠の喜びの始まりを心に感じているように、この生涯の後には、目が見もせず耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったような、完全な祝福を受け、神を永遠にほめたたえるようになる、ということです」。

 

ここで大切なことは、第一に「今、永遠の喜びの始まりを心に感じている」ということです。永遠の命の希望は、今を生かす力です。希望によって私たちの日常は様々な苦しみや困難の中にあっても前へと進んでいくことができるのです。私たちは日々の生活の中であれこれと思い煩い悩むものですが、しかし永遠の命の祝福に比べるならば究極的にはそれらは実に取るに足らないこととも言えるでしょう。今この私の中に永遠の命がある。この事実は御言葉と御霊によって私たちにもたらされ、そこに喜びが生まれるのです。パウロはローマ書で次のように語りました。「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです」(ローマ14:17)。この喜びを今味わうことが許されている者として、希望のうちを歩む者でありたいと願います。また第二のことは、この生涯の後には「完全な祝福を受け、神を永遠にほめたたえるようになる」ということです。しかもそれは「目が見もせず耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったような」祝福であると言うのです(Iコリント2:9参照)。

ここに永遠と今の時の連続と不連続があります。永遠の命に与る状態は今すでに喜びにおいて始まっていると言う点では連続性がありますが、しかしそれが私たちにもたらされる時には、それは私たちの思いを遙かに越えた完全な祝福として与えられるのです。永遠に神とともにあること。それが主イエス・キリストが贖いによって獲得し、聖霊によって私たちに分け与えられた完全な祝福なのです。この恵みを今、喜ぶ私たちでありたいと願います。

 

私たちの生はこの世だけでは終わらない

 

メメントモリ

 

「メメントモリ」とは、ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という意味の言葉。「死を記憶せよ」という意味の言葉です。

私たちの人生において、いつか必ず訪れる死について、私たちは真剣に考え、罪と死を乗り越えて生きる道を求めていくべきなのです。死を考えることによって、自分が生きるべき生の意味が見えてくるのです。

 

アップル創業者の故スティーブ・ジョブズが、2005年に米スタンフォード大学の卒業式で若い大学生の方々に向けて行ったスピーチは、癌を宣告され、死と向き合ったジョブズの経験に基づくメッセージが多くの人の感動を呼びました。そのスピーチの中でまさに「メメント・モリ」について語られた部分を下記に紹介します。

 

私は17歳の時にこんな言葉に出会いました。

「毎日を人生最後の日だと思って生きよう。いつか本当にそうなる日が来る」

 

それは印象に残る言葉で、その日を境に33年間、私は毎朝、鏡に映る自分に問いかけるようにしているのです。「もし今日が最後の日だとしても、今からやろうとしていたことをするだろうか」と。

その答えが何日も「NO」のままなら、ちょっと生き方を見直せということです。

 

「自分はまもなく死ぬんだ」という認識が、重大な決断を下すときに一番役立つのです。なぜなら、周囲からの期待、プライド、失敗や恥をかくことへの恐怖など、これらはほとんどすべて、死の前では何の意味もなさなくなるからです。そこに残るのは、本当に必要なものだけです。

死を覚悟して生きていれば、「何かを失う」という心配をせずに済みます。我々はみんな最初から裸です。素直に自分の心に従えば良いのです。

 

1年前、私はガンと診断されました。

朝7時半の診断で、膵臓(すいぞう)に明白な腫瘍が見つかったのです。私は膵臓が何なのかさえ知りませんでした。医者からはほとんど治癒の見込みがないガンで、もっても半年だろうと告げられました。

そして、医者から「自宅に戻り身辺整理をするように」言われました。つまり、「死に備えろ」という意味です。これは子どもたちに今後10年かけて伝えようとしていたことを、たった数カ月で語らなければならないということです。家族が安心して暮らせるように、すべてのことをきちんと片付けなければならない。別れを告げなさい、と言われたのです。

 

一日中診断結果のことを考えました。そして、その日の午後にカメラを飲む検査を受けました。内視鏡が胃を通って腸に達し、膵臓に針を刺し、腫瘍細胞を採取しました。

鎮痛剤を飲んでいたので分からなかったのですが、妻の話によると細胞を顕微鏡で調べた医師たちが騒ぎ出したというのです。手術で治療可能なきわめてまれな膵臓がんだと分かったからでした。

私は手術を受け、おかげで今は元気です。

 

これが、人生で死にもっとも近づいたひとときでした。今後の何十年かはこうしたことが起こらないことを願っています。

 

死は我々全員の行き先です。死から逃れた人間は一人もいないし、今後もそうあるのです。

死はたぶん、生命の最高の発明です。死は古き者を消し去り、新しき者への道をつくる。ここでの「新しき者」は君たちのことです。しかしそう遠くないうちに君たちも「古き者」となり消えてゆきます。 深刻な話で申し訳ないですが、真実です。

 

あなた方の時間は限られています。だから、本意でない人生を生きて時間を無駄にしないでください。

 

以上は、スティーブ・ジョブズ氏のスピーチでした。

スティーブ・ジョブズさんは、自分が必ずいつかは死ぬものであることを覚えて悔いのない人生を送ろうと学生たちに語りました。

 

5段階モデル

 

いつかやがて来る「死」を見つめながら生きるということについて、死に面した多くの方々を看取り「死ぬ瞬間」などの書物を著したキューブラー・ロス博士の5段階モデルをご紹介いたします。

死に際して、多くの方々はこのような反応を示すと述べています。

こうした事を理解しておくことは、その次にご紹介するデーケンさんの「死の準備教育」についても、自分の場合だけでなく、死に向かい合う人々に接する時の参考になるのではないかと思います。

 

 

 

 キューブラー・ロスによる5段階モデル(死の受容モデル)

エリザベス・キューブラー・ロス(Elisabeth Kübler-Ross;1926〜2004年)は「死」に関する科学的な認知を切り開いた精神科医(終末期研究の先駆者)といわれています。彼女が切り開いた終末期医療は、今日、世界中の多くの医学部で必修科目となっています。

 

特に1969年に、彼女によって出版された『死ぬ瞬間』は、世界的なベストセラーとなりました。今でも本書は、サナトロジー(死学)の基本テキストとして、世界中で読み継がれています。

 

なによりも意義深かったのは(1)それまでは医学が及ばない領域とされてきた「死」について、医師が言及したこと(2)死にゆくプロセスを5つの段階として科学的に捉えようとしたこと、といわれています。

 

「死の受容」プロセス(5段階モデル)

 

第1段階:否認(否認と孤立)
死の運命の事実を拒否し否定する段階です。周囲から距離をおくようになります

第2段階:怒り
死を否定しきれない事実だと自覚したとき、「なぜ私が死ななければならないのか」と問い、怒りを感じます

第3段階:取引
死の現実を避けられないかと、「神」と取引をします

第4段階:抑うつ
何をしても「死は避けられない」とわかり、気持ちが滅入り、抑うつ状態になります

第5段階:受容
死を受容し、心にある平安が訪れます

 

第1段階:否認と孤立(denial & isolation)

 

自らの命が危機にあり、余命があとわずかである事実に衝撃を受け、それを頭では理解しようとするが、感情的にその事実を否認(逃避)している段階。「なにかの間違いだ」というような反論をするものの、それが否定しきれない事実であることは知っている。周囲は、この事実にもとづいて考えを進めているため、そうした周囲から距離を取り、孤立することになる。

 

第2段階:怒り(anger)

 

自分が死ぬという事実は認識できた。しかし「どうして悪いことをしていない自分がこんなことになるのか」「もっと悪いことをしている人間がいるじゃないか」というような怒りにとらわれる段階。ケースによっては、看護師などに対して「あなたはいいね、まだまだ生きられて」といった皮肉のような発言をすることもある。根底にはやはり「なぜ、自分が」という、死に選ばれたことへの強い反発がある。

 

第3段階:取り引き(bargaining)

 

信仰心がなくても、神や仏にすがり、死を遅らせてほしいと願う段階。死ぬことはわかったが、もう少しまってほしい。財産を寄付したり、これまでの行為も改めるといった「取り引き」をしようとする。なんとか、死を回避することができないか、模索する。はじめは「死を遠ざけてほしい」という願いが「◯◯をするので、あと少しだけ」という具合に、取り引きの条件が自分に不都合なほうに変化することもある。

 

第4段階:抑うつ(depression)

 

「ああ、これだけ頼んでもダメか」「神も仏もないのか」というように、自分なりに神や仏に祈っても、死の回避ができないことを悟る段階。悲観と絶望に打ちひしがれ、憂うつな気分になる(正確には、抑うつと悲観は異なる概念である)。頭で理解していた死が、感情的にも理解できるようになる。神や仏の否定になるケースもあり、虚無感にとらわれることもある。

 

第5段階:受容(acceptance)

 

それまでは、死を拒絶し、なんとか回避しようとしていたが、生命が死んでいくことは自然なことだという気持ちになる。個人差もあるが、それぞれに生命観や宇宙観のようなものを形成し、自分を、その中の一部として位置づけることもある。自分の人生の終わりを、静かにみつめることができるようになり、心に平穏が訪れる。

 

死の準備教育

 

欧米の学校では、「死への準備教育」といわれる教育をしながら、子供たちに人生の意味と目的を考えさせるとともに、お年寄りの方々など死を間近に覚える方々にふれあい、いたわる機会を設けています。

 

死の準備教育は、日本においては上智大学のアルフォンス・デーケン教授によって提唱されました。テレビゲームなどでは仮想の死が氾濫し、青少年のいじめや自殺、凶悪犯罪が多発する現代社会で、子供たちに命の重みを実感させる教育の必要性が叫ばれています。

デーケン教授によれば、死の準備教育は健全な死生観を与え、死を知ることで命の重みを理解し、生きる喜びと感謝の心を育むことができるということです。デーケン教授の母国ドイツでは、医療の高度化に伴い、人間らしい死とは何かを問い直す動きがおき、1970年代半ばから中学や高校で死の準備教育が盛んになりました。子供の成長段階に応じ、死について教えることが必要だという認識が広まったのです。国公立の中学高校に週2時間ある宗教の時間に、哲学、医学、心理学、文学など多角的に死を教えているそうです。

 

 

 

死について自由に語る デスカフェ

 

また、高齢社会の到来に向けて、大人の間でも、各地の公民館の生涯学習で死をテーマに扱ったものが人気を集めています。具体的には、日本の終末医療の現状について学んだり、お葬式やお墓について考えたり、がん告知と家族について考えたりしています。「死」という重いテーマであるにもかかわらず、定員を超える申し込みがあったりするそうで、人々の「人間らしい死を迎えたい」「死を考えることで生きている意味を見つめたい」という思いをうかがうことができます。

 

なぜ必要とされるようになったのか~社会背景~

 

  • 病院死の増加

近代から現代に移るにつれて、拡大家族は減少し、核家族が増加し始めました。それと同時に病院死の時代が始まり、もはや、孫たちが年寄りを自宅で看取る機会はほとんどなくなってしまったのです。彼らにとって、死は身近な存在ではなくなり、遠く離れた病院内で起こる出来事になってしまったのです。

 

  • 現代医療における人間の阻害化に対する反省

 

20世紀後半に入り、医学や医療技術の著しい発達によって、かえって死が悲惨な様相を呈するようになりました。「死期が迫り、現代の医学では手の施しようもない状態になってもなお、医師の面子と病院の収益を優先させ生命維持装置によって延命を図ることが本当に正しいのだろうか。」こういった問いが家族や患者から出されるようになったのです。安らかな死を迎えたいという願いを持ちつつ、人間的な死に方について真剣に考えることが必要となってきています。

 

  • 死の定義のあいまい化

 

昔は自明のものとされてきた死の定義が今やあいまいなものとなり始めました。生命維持装置の開発によって、医学的な死と社会が認める死との間に大きなズレが生まれるようになりました。また、医学的死についても、脳死と心臓死との間には隔たりがあるケースが出てきました。このような状況の中で、改めて死の定義が問われるとともに、人々は死に関する正しい情報を求めるようになったのです。

 

  • 人口の高齢化

 

日本は今や世界でトップの最長寿国となり、このまま進むと2025年ころには4人に1人が65歳以上の高齢者となる超高齢社会が訪れるといわれています。高齢者は一般に孤独感や不安感を持ちやすいため、死や宗教に関心を持っており、死への備えの必要は増大しています。

 

  • 疾病構造の変化

 

死亡統計を見ると、戦前は感染症を中心とする伝染性疾患によって死亡する人が多かったのですが、現在は悪性新生物(ガン)が死因のトップを占めています。ガンは医学の進歩によって、進行を一時的に阻止できるようになってきたために、長期間にわたって死の恐怖と向き合いながら生活をする人々が増えてきました。その結果、こうした患者や家族に対して「死の準備教育」をする必要性が高まってきています。

 

  • 青少年による犯罪や自殺の増加

 

現代の世の中では、十代の若者による目を覆いたくなるような犯罪や、陰湿ないじめ、自殺等が多発しており、命の重みが忘れ去られている社会といえます。仮想の死が氾濫する社会の中で、若者は人の命の尊さが実感できず、自分の生きている意味さえも見失いがちになっています。こうした状況の中で、死と向き合い、限りある「生」を知ることで、子供たちに命の尊さを知ってもらおうという動きが出てきています。

 

一般的な目標

 

  • 生涯を通じて自分の死を準備し、自分だけのかけがえのない死をまっとうできるように死についてのより深い思索を促すこと

 

②時間の貴重さを発見し、人間の創造的次元を刺激し、価値観の見直しと再評価を促すこと

 

③死の芸術を積極的に習得させ、第3の人生を豊かなものとすること

 

④個人的な死の哲学の探求

 

⑤宗教における様様な死の解釈を探ること(生き甲斐・死に甲斐等)

 

⑥死後の生命の可能性について積極的に考察するよう促すこと

 

具体的、現実的、個別的な目標であって、死に関する情報の提供や悲しんでいる人々への援助、ライフサイクルの中における死の問題への取り組み

 

⑦死へのプロセスならびに死にゆく患者の抱える多様な問題とニーズについての理解を促すこと

⑧身近な人の死に続いて体験される悲嘆のプロセスとその難しさ、落とし穴、そして立ち直りにいたるまでの段階について理解すること

 

⑨極端な死への恐怖を和らげ、無用の心理的負担を取り除くこと

 

⑩死にまつわるタブーを取り除くこと

 

⑪自殺を考えている人の心理について理解を深めること

 

⑫告知と末期がん患者の知る権利についての認識を徹底させること

 

⑬死と死へのプロセスを巡る倫理的な問題への認識を促すこと(例として、植物人間、人工的な延命、消極的、積極的意味の安楽死など)

 

⑭医学と法律にかかわる諸問題についての理解を深めること(死の定義と死の判定、脳死、臓器移植、医学研究のための献体、腎臓の遺贈、アイ・バンク、遺書の作成、死後の家族援助など)

 

⑮葬儀の役割について理解を深め、自身の葬儀の方法を選択して準備するための助けとすること

 

実際の取り組み

 

Ⅰ.慶應高校の場合(AERA 1998・9・20より)

 

慶應高校(横浜市)の高橋誠教諭は、「死ぬほどかったるい」が口癖の現代の高校生に、揺さぶりをかけようとしていた。「50年前は家庭死が9割、病院死は1割だった。今、8割の人が病院で死を迎えます。無理な延命は体をぼろぼろにします。家族が十分お別れをすることもできない。諸君はお父さん、お母さんをどこでどう看取りますか。」生徒たちは一瞬、針で刺されたよう表情を見せた。男子校の慶應高校では、男女必修になった家庭科を、社会、理科の教諭が分担して教える。現代社会の高橋先生は、96年度から家庭科の一部として「死の準備教育」をはじめた。ワンクール12回。哲学者や医師の著書、芸術作品、新聞記事などを教材にし、多角的に「死」を考察していく。ドイツの哲学者、アルフレッド・デルプの言葉を引用して、高橋先生は授業を締めくくった。「“一人の人間によって少しでも多くの愛と平和、光と真実がこの世にもたらされたならば、その一生には意味があった”。諸君の時代の1日1日はダイヤモンドのように貴重です。有効に使って、意味ある生を生きてください。」

 

生徒が関心を持ち、血となり肉となる学習はないか。高橋先生は模索する中で、アルフォンス・デーケン氏が提唱する「死の準備教育」を知った。「われわれは死すべき運命を共有する“ささやかな存在”である。そのことが伝えられれば、人をいじめたり死に追いやったりすることはないのではないか。“かったるい”と話す生徒の生活が変わるのではないかと思ったわけです。」果たして生徒は揺さぶりをかけられたのか。講義の後尋ねてみた。「当然とか、どうでもいいと思っていたことが根底から覆された。人生は有限だと身にしみた」「目標なく生活していたので、刺激的でした」心に蒔かれた種は、いずれ芽を出し、指針となるかもしれない。 (AERA 1998・9・20 P136~138より抜粋)

 

Ⅱ.芦屋市立公民館の場合

 

芦屋市立公民館は、20年位前から先導的で高度な社会的課題と取り組み、全国的な注目を集めていた。1990年に開催した哲学講座“死生学ノート”では、「死」を考えることによって、「生とは何か」「人間とは何か」ということを改めて学んだ。その講座で、受講生の要望から3年後の1993年、「お墓を考える」講座が生まれ、その翌1994年には「死について共に考えてみませんか」という講座に発展した。

 

「死」という重いテーマであるにもかかわらず、60人の定員に100人からの申し込みが会った。出席率もよく(平均67%)質問意見等も毎回活発に出ていた。死生観の違いをヨーロッパからインド、中国、日本と哲学者たちに学んだ。受講生は60歳以上が66%と多かったので、この講座は自分の今までの生き方、またはこれからの生き方にすごく共感と感銘をもたらしたようだった。

 

「死への準備教育」が現在どのように行われているか,海外ではdeatheducation,と言われているものをデーケン氏は「死への準備教育」と訳していますが,その他「死の学習」「命の授業」「命の教育」と様々に言われています。病死・自殺・災害による死、事故による死、他殺など,子どもも大人も多くの死に直面しています。死に直面した子どもの精神的ケアは,もちろん必要ですが,日常的に,小学校においては,「どうして人は死ぬの?」「死んだらどうなるの?」「死って怖いの?」といった疑問に答えていく教育が必要なのではないでしょうか。本来的には、家庭が体験的にそのような疑問に答える機能を持っていたはずですが,それも期待できない現状においては,学校教育がその機能を担う必要があります。

 

死とどう向き合うかについて

 

ひきつづいて、「死とどう向き合うか」ということについて、アンネリーゼ・デーケンさん、アルフォンス・デーケンさん、そして、山村の診療書で医師として働いておられる白浜雅司さんのお考えを紹介いたします。

 

死とどう向きあうか 一死への準備教育についてー

聖霊女子短期大学教授 アンネリーゼ・デーケン先生の講演より

(アルフォンス・デーケンさんの妹)

 

今日は皆さんと一緒に「死とどう向き合うか一死への準備教育一」と題してお話をさせていただきます。プリントのAとしては「自分の死を考えるエクササイズ」と書いてあります。さっき申し上げました通り、プリントには自分自身がどんな経験をなさったのか、○をつけてくださったと思いますが、別にテストではありませんので、今日の講義に入る前に自分はどういう経験を持つのか、自分自身を考える一つのチャンスにしていただきたいと思いました。

ちょっと失礼ですが、皆さんの中でお父様お母様がまだ健在の方は何名おりますか。段々少なくなってきますね。非常に少ないです。私の父も亡くなりましたが、そういう自分を一番愛する人を失った自分と今日のテーマを考えますと、視点が変わってきますね。ご兄弟の死も体験なさったかもしれません。

2番目としては、「私の家族では死について次のように話します」、差し支えなければa.b.c.d.とありますけど、「ほとんどしない」という人は手を挙げてもらえますか。あまりいませんね。「少しだけ話をします」、いますね。あと「必要に迫られたとき」、これに付けた方はいますか、なるほど。「包み隠さずに」に付けた方はいますか、三分の一ぐらいですね、分かりました。

3番、「私か不治の病で治らないと医者が診断した時」に告知してほしい方は手を挙げてもらえますか、すごいですね、殆どの方です。これは又非常に考えさせられる問題で、後ほどまた触れたいと思います。

その自分自身が告知してほしいということについて考えたいと思います。

「私に親しい人が死の時に私に話しかけた時」に、「あまり話したくない」に丸をつけた方はいますか、いませんね。「いやだけど話す」、ちょっぴり。「進んで話す」、一番多いですね。ありがとうございます。皆さんの中では進んで話すということですね。

5番、「私は自分の死について考える時次のように感じる」、a.「こわい」、はいありがとう。 b.「落ち込む」、四人ぐらいですね。 c.「穏やかである」、五人ぐらいです。「ある種の期待を持つ」という大、七名ぐらい。「その他」、聞いてもいいですか。なんて書いてありますか、「楽しむ、どんな世界かおるのかな」。素敵じゃないですか。ありがとうございます。学生ですとa.が圧倒的に多くて怖いというイメージですね。

6番、「私かある人の葬式に出るように頼まれたら」、「出席しなくてもいいように言い訳する」、いませんね。やっぱりそうですよね。「嫌々ながら出席するが後悔する」。いませんね。「嫌々出席するが後で行って良かったと思う」、五人ぐらいいました。「招待されたことに感謝して喜んで出席する」、すごいですね。ありがとうございました。

本当にやっぱりここでは年齢を感じますね、18歳の学生とはちがいますので、みなさん人生経験豊かで経験からくる答えだったと思います。それをちょっと意識して今度のテーマを考えたいと思います。

 

死ぬ存在として

始めに「死」という言葉について、皆さんは色々勉強していますのでそんなに慣れない言葉ではないでしょうが、多くの方々はあまり口にしたくないですね。有名なハイデッガーというドイツの二十世紀の哲学者がいます。皆さんの周りの方は経験があると思いますが、人間を考える場合に、彼の定義の一つには「人間とは死への存在である」という言葉があります。つまり私たち人間というのは、誕生して、歩き始めて自分の人生は確実に向かっていくのは死である。「私は向かわない」という人はいませんよね。こういう意味で私たちが必ず向かっていく「死への存在」というのがハイデッガーの言葉なんです。ですから生まれたその日から死に向かって歩いています。

私の時間というのはあとどれだけの時間かわかりませんが、私は(人生の)この辺にいますけども私は若くありませんので、皆さんの中でも若い方はこの辺で歩いていらっしゃるかもしれません。ですから70代の方もいらっしゃるようですが、分かりません。

自分は歩き続けていますが、ふっと考えると今朝も私は思いました。私はいつまでここを歩き続けていくのかなあと非常に神秘的で、この講義のことを朝ずっと考えていて、秋田を出発しまして、やっぱり神秘ですね。生かさせていただくんだということ、今日も生かされている自分、明日は明日で向かっていく、でも死ぬのは今週ではないと思っています。ですから不思議なんですけども、歩いて歩き続けます。でも一般には死という言葉、「デス」と言いましたが、まだまだ話したくないなあ、そんなに考えたくないなあと思う人も多いと思います。

 

あるドイツの記事をまとめたんですが、死についてドイツ語ですと「シュテルン」という言葉があるんですが、英語だと「ダイ」、この「死」という言葉を出来るだけもっと美しく表現したら、と思います。よくドイツで新聞を読みますと、例えば誰々のお父さんが亡くなりまして、何日に亡くなった。その後に子供の名前を載せます。その下には教会はどこで、ミサは何時からです、と載せます。お墓に入れるのはミサの前です。 ミサの後にはお茶会かおります

が、何時からお茶会ですと入れます。お茶会には呼ばれた人だけが行くんです。最近はお花の代わりにどこそこに募金して口座にお金を入れて下さいと新聞に載せることが結構ありますね。そういう言葉遣いを見ますと、ドイツには「死」をやわらかく表現する言葉が一杯有りますね。

 

例えば「眠る」という言葉。眠りに関する言葉は、記事で読んだ所では64%ぐらいで優しく柔らかく表現されている。「去る」という言葉を使ったり、「重い病気から救い出された」という言葉を使ったり、「失いました」あるいは「息を引き取りました」とか「永遠の部屋に入りました」などなど。そういう表現があるので、死ぬという言葉は出来るだけ使いたくないということが、どの文化にもあるんじゃないかということが分かりました。

今日の「死への準備教育」というのは、自分の死へ向かって意識的に歩く勉強でもあるでしょうし、もう一つは、私たちがよりよく生きるための教育をする、よりよく生きるために死への準備教育が大事であるということ。ですから今日もそういう意味で、この貴重な時間をよりよく生きるためにこの気持ちで考える良い点、意義のある点について、時間のある限り触れてみたいと思います。皆さんの中にはたくさん勉強している人もいると思いますが、私なりにコメントしたいと思います。その後、ジャーナリストでがんと闘って亡くなった千葉敦子さんのビデオの一部を紹介したいと思います。彼女には本当に死について考えさせるものが多いように思いますので、亡くなった後でNHKが出したビデオの一部を紹介します。

 

看護の体験から

それでは私たちの第一目標としては、死へのプロセスと、死に行く患者の抱える問題を理解することですね。私は看護婦ではありませんけども、シスターになる前にドイツで看護実習をしたことがあるんです。

初めて手術室に入った時は、青い顔をして具合が悪くなって出ました。今でも忘れませんが、私は看護の道には進めないのかなあと思いましだけど、患者と触れ合うのは好きでした。簡単な仕事はできましたので、食事を運んだりしました。私は患者の問題を理解したいなあと思いました。

一番私がインスピレーションを得たのは、アメリカの精神科医の有名なエリザベス・キューフラー・ロスの『死の瞬間』。これは死への準備教育の一番土台となる本なんですよね。彼女はたくさんの患者を診て、次のことに気づいたんですね。すなわち死のプロセスがあったということですね。特に重病人には死のプロセスで、彼女の言うプロ七スはだいたい5つの段階に分けていらっしゃる。最初は重病であること、死に向かっていくことを“否認”します。受け入れませんね。次は怒り。「どうして私か」という怒り。そしで取引’、次に“憂欝’、最後に“受容”。全員がこのプロセスではないでしょうけれども、多くの患者の場合こうであると、彼女は診ていました。兄は期待と希望と言ってますけれども、さっき楽しみにしているとおっしゃった人もいましたが、何を希望するかということですけど、例えば治る希望。天国で愛する人に再び会えるという希望ですね。人によっては死後の永遠の生命の希望。ですから医療従事者や患者の家族が、このプロセスを理解する必要があります。自分が患者をお見舞いする時に、どういう援助ができるのか、どういうプロセスでいるのかを知ることが、とっても大事だと思います。

 

私も実は、重病のがんの人のお見舞いをしたかったんですね。手術後お見舞いに行こうとしましたが、来なくていいと言われました。すごくショックだったんです。後で考えれば、私は看護婦じゃないので、何かあった時に何もしてあげられない。でも、同じ病気をして手術を経験した人には来て欲しいとおっしゃっていました。そのプロセスの中で、私より若かったので「なんで私か死ななければいけないのか」という思いの時期だったんですね。自分ではがんで長くないとわかっていたのでしょう。ですから関わり方が人によって変わってきます。

もうひとつ忘れられない体験があります。今年の夏休みでした。久しぶりにドイツに帰ったんですね。私の姪は36歳ですが、20年前に腎臓移植をしているんですね。結婚はしていますが、ご主人はこのことを知って結婚しましたので、この人は一生病弱であるということは了解していました。移植した腎臓は医学的に20年が限度で、取り替えるか別の方法をとらなければならないそうです。

ところが8月にドイツに行ったら肝臓も悪いことを知ったんです。すぐ入院して、考える時間もなく腎臓と肝臓を同時に移植することになりました。小さい身体で、本当に弱い姪で、私は真剣に祈りました。手術時間は10時間もかかるそうです。祈るしかなかった。生きるか死ぬかの瀬戸際だった。成功の電話がなかなかきませんでした。やっと電話が来だのが夜の10時頃。肝臓は動いているが、腎臓が動いていないということでした。

 

その後、先程と同じ体験をしたんです。私はとても元気で彼女は苦しんでいて。わたしと彼女の関係がスムーズにいっていないのではないかなと感じました。私は今でも手紙を出していますけれども、彼女からは直接返事は来ていない。でも、今はだめでも、だんだん受容していって、元気が出て、おそらく来年あたりは手紙が来ると思います。患者の気持ちを理解する重要性を感じました。

9月頃、兄からFAXが来て、腎臓が働き始めたという連絡でした。奇跡だと思います。患者を理解するポイントを考えさせられる体験でした。

 

死と向き合う

2番目としては、自分だけのかけがえのない死を全うすることができるように、死をよく勉強することが必要だと思います。受動的ではなく能動的な課題として、自分らしく生き抜くことだと思います。自分の価値を考えれば考えるほど向かい方が積極的になってきて、一日一日が尊いものになると思います。そういう意味で死への準備教育がとても大切だと思います。

 

第3は、悲嘆教育です。私たちは自分の死を準備するのも大事だがそれと同時に、愛する大を亡くしたときの辛さ、その癒しについて何かおるかということですね。愛する人の死は、自分にとっても「小さな死」だといわれます。悲嘆のプロセスを知ることは自分の死を迎えるときに役立つと思います。

悲嘆のプロセスには12段階あるといわれます。すぐに乗り越えられるものではないんですね。自分の母を亡くしたときの体験を思い出しますと、「なぜ大は笑うことができるんだろう」とまで思いました。回りの人の笑い声がすごく嫌で。 3日間だけ添川にある修道院に大って、「わたしをほっといてください」と頼んで、そこにいました。今考えればすごくありかたかったですね。

立ち直るまでにはみんな同じプロセスではない。そして時間がかかる。そういうことが自分について解ることがとても大事なんですね。

悲嘆の教育で参考になる資料で、英語の資料を翻訳しました。まず泣く時を持ちなさいということです。遠慮する必要はない。泣くというのは弱さてはなく、自然の表現であるからその時を作りなさいということ。それと、死について話すこと。家族でもいいので話し合うことが大事。それと多忙でいなさいということ。食事をとることも必要。適度な運動をすることも大事。

そして、だんだん乗り越えたら人の役に立ちなさい、とあります。

さらに、日記を付けなさい。それと内的時間を持ちなさい。

私は心の時間と名付けました。一日を振り返るとか、坐禅する、瞑想するということがとてもいいと思います。それと、助けを求めなさいとあります。遠慮なしで専門家にお願いするということです。

 

4番目は、死は怖いと言いますが、何か怖いかと聞くと、孤独の恐怖もありますが、苦痛への恐怖もあります。皆さんに研究して欲しいのは、苦痛を和らげる研究をして欲しいです。他には、家族や社会の負担になる恐怖。あるいは、人生を不完全なまま終える恐怖。自己の消滅の不安。死後の審判や罪に対する不安。それぞれ死について考えるとき、いかがでしょうか。私達がこういうことを解っていると、末期患者の恐怖にどうやって対応できるのかが理解できると思います。

 

5番目は死にまつわるタブーを取り除くこと。 日本ではまだ死がタブー視されている面かありますが、今はだんだんこのテーマについて話せるようになってきたんじやないかなと思います。

 

6番目は、自殺を考えている人の心理についての理解を深めること。自分の命の尊さを考えることがもっと大事だと思うことが必要。自殺防止にもなる。兄が前から提案しているのは、中学校や高校で生と死について考える一日をもって欲しいということです。

 

7番目は、がんの告知と末期がん患者の知る権利について認識を深めること。私達は自分の病気について知る権利を持っています。でも病気になる前に前もって言わなければなりませんね。告知に関して家族との話し合いをしておくことが必要だと思います。やたらに告知すればいいということではありません。アフターケアの大切さがあります。

ヨーロッパでは牧師、医者、看護婦などのチームがケアします。ケースバイケースだと思いますが、日本にとっての大きな課題だと思います。

 

8番目として,死と死を巡る倫理的な問題の認識を促すこと。延命や安楽死の問題ですね。私は人工的な延命を望まない。自然死を望みます。けれども勝手にすることはできないので,リビング・ウィルを書いて登録しました。私は延命は望まないけれど,苦痛をやわらげる治療は最大限に望みたい。そこら辺誤解のないようにちゃんと書いておきました。

 

9番は、医学と法律に交わる諸問題について理解を深めること。臓器移植、献体の問題。自分でどうしたいのか考えることが必要だと思います。

10番は、葬儀の役割について理解を深めること。独白の葬儀の方法も準備することができます。私の知っているシスターは、自分の葬儀の間に歌って欲しい歌や聖書のどこを朗読して欲しいのか、説教までテープに入れてました。すごいユニークだなと思いました。

11番は、時間の貴重さを発見すること。自分の価値観の見直しをする残された時間を考える。 私も自分に残された時間かどのくらいあるのかなあと思って、そして詩についての興味が深まってきました。

この間、坂村真民さんの詩を見つけました。学生によく紹介するのは「いま」という詩です。

「大切なのはかつてでもなく

これからでもない

一呼吸一呼吸の今である」

素敵ですね。

もう一つ「今を生きる」という詩が好きです。

「咲くも無心 散るも無心

花は嘆かず、今を生きる」

 

今の瞬間が尊いということが詩を通して表現されていると思います。

12番は、死の芸術。

13番は、個人的な死の哲学の探究。私自身が、古典的な死生観を選び取る必要がある。

14番は、宗教における死の様々な解釈を探ること。自分の持っている宗教では、生の意義への問い掛けと密接に結ばれている。死の探求は生き甲斐の探求でもあるということですね。

15番は、死後の生命の可能性について。死後の世界で私たちは再び愛する人と出会える、神様ともより深い、永遠とも呼べる天国への希望があるんだと強調します。

 

よき「死」とよき「生」に出会うための哲学

 

だれにでも等しく訪れる「死」という現実。これに向き合い、積極的に受け入れることで、よき「生」につなげる。それが「死への準備教育(デス・エデュケーション)」の考え方です。「死生学(タナトロジー)」を日本に初めて紹介し、「死への準備教育」の普及につとめているのは、ドイツ生まれの哲学者アルフォンス・デーケンさんです。よりよく「生きる」ための「死への準備教育」とはどんなものなのか、その哲学を、ユーモアを交え、わかりやすく語っていただきました。

 

限りある「時間」と「命」の尊さを学ぶための教育

 

アルフォンス・デーケンさんへのインタビュー

 

上智大学名誉教授

1932年 ドイツ生まれ

 

◆質問「死への準備教育」とはなんですか?

教育とは、特定の考えを押しつけることではなく、考えるための刺激を与えることだと思います。したがって「死への準備教育」の目的は「死」について皆さん一人ひとりに考えてもらうことにあります。デーケンよりもデンケン(ドイツ語で『考える』という意味)が大切なのです(笑)。

 

「死」はだれにでも必ず訪れる普遍的、かつ絶対的な現実です。わたしたちは生きている限り、いつかは親しい人の「死」を体験し、最終的には自分自身の「死」に直面します。もちろん「死」そのものを事前に経験することはできません。それでも身近なテーマとして自覚し、確実に訪れるその現実を受け入れるための心構えを習得することはだれにでも必要です。

 

ここでわたしが強調したいのは、それが決してネガティブ(否定的・消極的)な行為ではなく、むしろ、よりよく生きるための教育だということです。「死」と向き合い、最期まで人間らしく生きることを目指すわけですから「デス・エデュケーション」とは、同時に「ライフ・エデュケーション」でもあるのです。

 

具体的な例をあげてお話しましょう。わたしが大好きな映画に、黒澤明(くろさわあきら)監督の『生きる』という作品があります。描かれている内容は一貫して「死」についてなのですが、なぜかタイトルは『生きる』です。それは主人公が自分の「死」を悟ってから、本当の意味で「生きる」ようになるからだと、わたしは考えています。「死」を見つめることで、「生」も自ずと再認識される――それが「死への準備教育」なのです。

 

◆質問「死への準備教育」には、どんな意義があるのでしょうか?

第一に、時間の大切さを発見できること。第二に、命の尊さを改めて考えられることです。したがって「死」と向き合うことは、限りある時間と命の尊さに気づくことと言えます。「生きる時間は限られている」という事実は自明なことですが、しかし、普段、それはあまり意識されません。

 

ところで、ギリシア語には「時間」を意味する言葉が二つあるのをご存じでしょうか?年・月・日・分・秒のように、時計で計ることのできる量的・物理的な時間を「クロノス」と言います。それに対して、一度だけで二度と訪れない決定的な瞬間、質的な時間を「カイロス」と言い表します。「死」を意識することにより、いままで漠然と送っていた時間を、かけがえのない一度限りの機会としてとらえ直す。そうすれば、いまよりもっと一瞬一瞬を大切にして生きることができるようになります。

 

年間約3万人もの人々が自ら命を絶つ現代の日本にこそ、「生」と「死」を考える教育が重要だと考えています。

 

「死」はすべての人に準備が必要な「人生最大の試練」

 

◆質問 日本における「死への準備教育」の現状はどうでしょうか?

長年の研究により判明したのですが…残念ながら日本の人たちの死亡率は100%です(笑)。だから私は日本のすべての人が「死への準備教育」を受ける必要があると思います。

 

日本の教育水準の高さは世界に誇れるものですが、残念ながら「死への準備教育」の面では不十分と言わざるをえません。たとえば入学試験や就職試験、資格試験といった人生の重要な試練に臨むとき、わたしたちは必ず準備をしますね。でも、人生において最大の試練である「死」を前にして、なにも準備をしないのはどうしてでしょうか?

 

親しい人に先立たれるという死別を体験した時に、いかに立ち直るかを学ぶのが「悲嘆教育(グリーフ・エデュケーション)」です。これは「死への準備教育」の中でも重要な分野です。悲嘆のプロセスを上手に乗り切れなかった人は、心身の健康をそこなう可能性が非常に高いです。配偶者を失った男性は、死亡率が3~4倍になるとも言われています。愛する人を失うことが、健康の危機と直結しているわけですから、悲嘆教育は予防医学の観点からも重要です。ですから、高齢社会である日本においては、ぜひとも早い段階から皆さんに「死への準備教育」を学んでもらいたいです。

 

わたしは「日本の中学校、高等学校でも年に一度は生と死を考える日を設けてはどうか」と、これまでにもさまざまなところで提案してきました。人生は喪失体験の連続です。その時、なにを考え、どう対応すべきか? 人生には自分で選択できることと、できないことがあります。たとえば「親しい人の死」は防ぎようがありません。しかし、その後どう生きるかは自分で選択できます。自分の死に際しても、肉体が徐々に衰弱していくのを止めることはできませんが、心のありようや生き方を変えることで、最期の瞬間まで人間的に成長することができます。変えられないことに思いわずらわず、変えられることに前向きに取り組んでいけるようになるためにも、学校の先生や医師、悲嘆教育の専門家、死別を体験された方の話を聞いて学んでほしいと思っています。

家庭においても、死について考えることはとても大切です。子どもが「死」に関心を示して聞いてきた時、親はうそ偽りなく教えてあげてください。理解できないだろうと考えて質問をはぐらかさずに真剣に向き合ってほしいと思います。子どもは必要以上に死を恐れたりせず、素直に死に対する認識を深めることができます。また、大好きだったおじいちゃんやおばあちゃんが亡くなった時には、子ども自身の意思をやさしく尋ねて、希望すれば葬儀に参加させてあげてください。日ごろからの会話や配慮が子どもの情緒的発育を促し、命を大切にする生き方につながっていくのではないでしょうか。

 

「死」を前向きにとらえ「生」を充実させるユーモア

 

◆質問「死への準備教育」とターミナル・ケア(終末医療)の関係について話してください。

「死」という言葉を聞くと、みなさんは肉体の死だけを連想するかもしれませんが、わたしは「死」を4つの側面に分けて考えています。それは、心理的な死、社会的な死、文化的な死、そして、肉体的な死です。

 

心理的な死とは、生きる喜びを失ってしまうことです。社会的な死とは、社会との接点が失われ、病室の外とのコミュニケーションが途絶えてしまった状態のことを言います。だれも見舞いに来ないような場合がこれに当てはまります。文化的な死は、生活環境に人間らしい文化的な潤いが失われてしまった状態のことです。例えば、無味乾燥な病室など文化的な楽しみの無い環境で過ごすことにより、患者さんは肉体的な死の前に、文化的な死を迎えることになります。

 

20世紀の日本では、医学・看護学のめざましい進歩により「肉体的な死」の延命が大幅に図られました。その証拠に、日本人の平均寿命は世界一です。ドイツの男性よりも、日本の男性のほうが長く生きられる。だからわたしは日本に来ました。賢い選択ですね(笑)。

 

一方、これからの時代は、それだけでは不十分です。心理的な死、社会的な死、文化的な死を含めて、総体的な延命を図ることが課題となりましょう。

 

現在、世界中のホスピスでは、患者さんの生活の質を高めるために、音楽療法、芸術療法、読書療法、動物介在療法、アロマセラピー、リフレクソロジーなど、じつにさまざまな試みがなされています。その努力により、患者さんがよりよい最期を迎えることができるようになってきました。

 

実際に海外のホスピスを訪れると、多くの日本人は驚かれることでしょう。看護にあたる人々がユーモアにあふれ、患者さんと交わす会話も温かい笑いに満ちているからです。

 

不思議に思われるかもしれませんが、「死」と「ユーモア」は、とても深い関係があります。自分が「死」に直面した時に過剰な恐怖や不安を和らげるだけでなく、緊張をほぐして、怒りの感情を鎮め、苦悩のさなかにあっても、自分を客観視して笑い飛ばせます。また、親しい人との別れの後、悲嘆のプロセスにおいても、笑いを再発見することは立ち直りへの道の大きな一歩です。

 

ユーモアの源は、相手に対する思いやりです。そして「いまここで出会っている時間をお互いに楽しもう」と努めることで、自然に喜びの感情がわき、気持ちの通じ合った関係が生まれます。「死」を前向きにとらえ、「生」を充実させて豊かに老いるためにも、普段から家族や配偶者、友人への感謝や愛情を忘れず、楽しく生きることを心がけましょう。

 

白浜雅司医師より

残念ながら50歳の若さで天に召されましたが、地方の診療書でよき働きをなさった方です。

 

死と向かい合う(1)      インマヌエル佐賀教会員 白浜雅司

「死と向かい合う」ことについて書くことになりました。編集者からの依頼には、「死をどのように迎えるか」は、永遠のいのちを確信しているクリスチャンにとっても最大の問題であるといえます。けれども教会としては、死の問題については信仰的には分かっていることとして、なかなか実際的・具体的な取り組みが不十分で、自分や身近な人の死の宣告に対する精神的な動揺や痛みや悲しみ、ショックについて深く関われていなかったという現状があります。死を迎えるということはどのようなことか、どのような問題があり、どのような取り組みが必要であるかを霊的・信仰的な角度ばかりではなく、医学的、社会的な角度を含めて、論じていただければ感謝です。」とありました。
私は、ホスピスのようなターミナルケアの専門家ではなく、人口千七百人の村の診療所で「日常的な病や死」に立会いながら、大学で、どのようにしたら患者に最善の医療を提供できるかという臨床倫理や医療コミュニケーションの教育に当たっている医師です。そのような視点と一信徒の立場から、「死とどう向かい合うか」について書いてみたいと思います。

1、死は必ず訪れる
最近医学界では、エビデンスベースドメディスン(根拠に基づいた医療)という言葉がはやりです。統計データをもとに、目の前の患者さんに最善の医療を提供しようというものです。しかしながら人間は個体差が大きいために、ある人には効く薬が、別の人には全く効果がないばかりか、予測もしなかったような副作用で不幸にも命を落とすことさえあります。そして皮肉にも、唯一百パーセント正しく予測できるのは、人間は必ず死ぬということです。ところがこの人の死を現実的に体験する機会が、現代社会では非常に少なくなってきています。

2、死を体験することが少なくなった理由
ではなぜ、死を現実的に体験する機会が少なくなったのでしょうか。
一つは、病院という社会から隔離された場所での死が一般化したことにあるようです。1947年には90パーセント以上の人が家で死んでいたのが、2003年には、80パーセント以上の人が病院で死んでいます。また家族が離れて住むようになったために、家族の最期の看取りに定期的に関わるということも難しくなってきました。私の住んでいる山村でも、この十年、家で最期を看取る人は激減しています。家の近くで農業などをしている人は、まだ昼食時に帰って患者に食事をあげてということも可能ですが、家族が昼間仕事に出ている家族では、最期の看取りはかなり難しいです。また、病院はどうしても治療優先の場ですので、大切な家族とのお別れよりも、最期まで家族を外に出しての延命治療が優先され、きちんと人生のお別れをする、最期を看取るということが二次的になっているのも事実です。
二つ目には、痛みや悲しみの感情を伴う現実の死ではなく、ドラマやニュース、さらにはゲームの中の死との混同があると思われます。最近子供達にまで安易な殺人事件が起きることに関連して、20-30パーセントの子どもが、「人間は死んでも生き返る」とアンケートに答え、その理由としてコンピューターゲームと同様にリセットがきくというようなショッキングな報告もありました。

3、しっかり死に向き合うことのできない現代人
自分や自分の周りの人の死に突然出会わなければならなくなった時に、その状況をなかなか受け入れられないことがあります。最近医師として、一般の方の先端医療に対する過度の期待と、その裏返しの医療不信が気になっています。「入院したのになぜ死んだのでしょうか」とあたかも医療ミスでもあったかのように語られ、身近な人を失った不安や怒りをぶつける場所がなく医療者にぶつけられているのだろうなと思うことがあります。人間は死に直面すると、非常なおそれと不安とストレスを感じます。心療内科では一番のストレスは配偶者の死であると言われています。そのような意味で、自分にも家族にも確実に起きる死についてあらかじめ考えておく「死の準備教育」が必要になってきているのです。

4、死の準備教育の必要性
死の準備教育については、日本では上智大学のデーケン教授が中心になって普及され、著書もたくさん出てきますので参考にされたらいいと思いますが。私は特に以下の2つの面から「死の準備教育」の必要性を感じています。

1)すべての人が直面することになる死への準備
高齢で徐々に悪くなっていく病気だけでなく、若い人も突然病気になったり、事故にであったりして、準備されてない死に直面する。早期がんの治療ができる時代になっても「がん=死」と考えてしまって、絶望的になり、それからの治療に向き合えない方がおられます。まったく冷静にというのは難しいでしょうが。日常的に時々、死について考える時をもつことによって、本当に死に直面せざるを得なくなった時に、しっかりと死に向かいあう心備えができるように思います。

2)命の尊さ、生きている喜びを知る機会、神様と出会う機会
人間が限りある命であることがわかって、自分の生き方をふり返り、さらに成長するかたがおられる一方で、自分の不幸を恨んだり、神様をののしったりするということがあります。特に病を通して、また死の過程をとおして神様と出会い、本当の意味での永遠の命を信じてまさに天国にかえられるのだとわかる方がいる一方で、なんで神様はこの私が、今、病を得て、死ななくてはならないのかと悩む人がいます。有名な淀川キリスト教病院のホスピスのカルテに、「信じている宗教の有無」、「その宗教が今あなたを支えていると思いますか」というような項目がありました。私は信仰がそのような場合の真の支えになるように、牧会者、家族、友人の祈りと支援が重要だと感じています。

5、具体的にお勧めしたい「死の準備教育」の取り組み

1)身近な死にきちんと直面すること
なかなか、臨終の場にいることは少ないですが、もしそのような場にいることができたら、きちんとお別れをしてください。子供達や高齢者にはかわいそうだからと遠ざけるのではく、きちんと臨終の場にいてもらい、手をつないで、お祈りして、また天国で会おうねと言えたら最高でしょう。そのような経験が、死が悲しいこと、でもクリスチャンにとって死は永遠の別れではないことを確認する時になるでしょう。
またペットの死など、身近なものの死についてもきちんとお別れをするということが大切でしょう。

2)リングウィル、エンディングノートの利用
最近、このような題名の本がたくさん本屋さんに置かれています。これらは、自分が最期の日々をどのように送りたいかを書きとめておくものですが、「書き込んで安心、読んで家族はなお安心」という副題がついているものもあって、このようなものを残すことで、自分のこれまでの人生がどのようなものであったかをふり返った上で、自分の最期をどう過ごしたいのか、認知症で理解力がなくなった時や意識がなくなった時に、どのような治療を望むのか、家族の誰に決めて欲しいのかなどがわかるように工夫されています。興味深いのは、死んだ後、自分はどんな人間だったと記憶してほしいとか、どのような葬式で、誰を呼んでほしいとか、墓はどうしてほしい、などまで書く欄があることです。

3)命が限られたときにどのような最期を迎えたいかを話す時をもつ。
ホスピス医のパイオニア、クリスチャンドクターの柏木哲夫先生は「誕生日に死を思い、結婚記念日にがんを語りあう」といいうことを勧めておられます。日本では今、三人に一人はがんで死にます。がんになったときに病名の告知をどうするか、どの辺まで闘うか、死ぬのは家がいいか病院がいいか、ホスピスを選ぶか、選ぶとしたらどこのホスピスがいいか、など具体的に死とがんについて一年に一度身近な人と語り合って確認できたらと思います。先に述べたエンディングノートで確認することもいいかもしれません。
そして教会でも(教会員の葬儀や、召天者記念礼拝などがふさわしいでしょうか)自分たちの死について考え、語り合う機会を作って欲しいと思います。
次回は、死に逝く人に寄り添うことと家族のケアについて書く予定です。

参考文献
アルフォンス・デーケン「死とどう向き合うか」NHKライブラリー
柏木哲夫「人生の実力」幻冬舎
 

死に逝く人に寄り添うことと患者家族のケア

死と向かい合う(2) インマヌエル佐賀教会員 白浜雅司

今回は実際に死に逝く人にどう寄り添うのかと、大切な家族のケアについて書くことにします。

1、悪い知らせを伝えること

「がん告知」ということが話題になりますが、私自身この「告知」という言葉はできるだけ使わないように医学生に指導しています。告知と言う言葉は、強い立場の医師から、弱い立場の患者に上から下への一方的に情報伝達するイメージが強く感じられるからです。告げるか告げないではなく「いかに希望を奪わずに悪い知らせを伝えるか」が大事だと思います。
日本では、「悪い知らせ」は伝えないで最期まで隠して「きっとよくなるから、がんばりましょう」と安易に励ましてしまうことがあります。また家族の方から、患者が希望をなくすので、「がん」であることは告げないで下さいと懇願されることもありますが、本人が病状について知らずに、最期の大事な時期にすべきことを何もしないまま人生を終えるということは、本人にとっても家族にとっても後悔することにならないでしょうか。

私はそのような家族の方に、「本人が何も知らないでこれから病状が悪くなって、家族のサポートが大切になる最期の日々、患者さんのそばにすわって素直に色んなお話ができるでしょうか。」と問うことにしています。患者さんのためと言いながら、本当は医者も家族も死を避けているのではないでしょうか。

2、悪い知らせの伝え方

病気の治癒が難しい状態であることを知った上で、これからやれることをやっていけることを支えために「悪い知らせ」を伝えるのです。すべての希望を奪うことは避けなければなりません。最初は「ちょっと長期戦になりそうです」とか「完治は難しいかもしれない」「今後病状の急変もありうるので、必要なこと(たとえば仕事の引継ぎ)は早めに確認しておいて下さい」などと言う説明から始めるべきでしょう。確かに一時的に落ち込みますが、人間は強いもので、時間がたてば必ず立ち直ります。病状が進んでから、「がんばりましょう」と言ってもむなしいだけです。

「何を今更がんばれっていうの?」。これが多くの末期患者さんの本音でしょう。自分の病状と周りの説明が食い違うほど、本人の不安は増していきます。「真実は冷酷なものかもしれないが、真実の伝え方が冷酷なものであってはならない。」という視点にたって私は祈りながら、患者さんに病状を伝えています。「私はもう治らないのではないでしょうか。死ぬのではないでしょうか。」といわれたときに、「死ぬなんて言わないで。きっとなおりますよ。」と話をさえぎるのではなく「本当に治るといいですね。祈っていますよ。」と情を込めて言うのとは違うと思うのです。また「死が遠くないような気がするのね。つらいね。何か今のうちにしておきたい、してほしいことがある?」と答えられたらどうでしょう。

「死ぬのが怖い」という人には、「死はおわりではない。また天国でお会いしましょう。待っていてください。私もそう遠くなくいきますので。」という会話ができたらどうでしょうか。私たちクリスチャンにとって死は敗北ではないはずです。また、すべての真実を伝える役として医師がふさわしいかどうかは一概には言えません。有名な闘病記「わが涙よわが歌となれ」は、ご主人である牧師先生が、悩みに悩みながら、患者の牧師婦人に伝えられ2人で死に精一杯向き合われた記録でもあります。

3、死に直面した方の反応と周囲の対応

「今回の病気の治癒は難しいと思われる」とうい話を聞いたときに患者さんはどのような反応をされるでしょうか。この反応は人によって様々でしょうが、Aデーケン先生は12の悲嘆のプロセス(「精神的打撃と麻痺状態」、「否認」、「パニック」、「怒りと不当感」、「敵意とうらみ」、「罪責感」、「空想形成ないし幻想」、「孤独感と抑うつ」、「精神的混乱と無関心」、「あきらめー受容」、「新しい希望-ユーモアと笑いの再発見」、「立ち直りの段階-新しいアイデンティティの誕生」)を提唱しておられます。

 

紙面の都合で、詳細は先生の本を参照していただきたいのですが、たとえクリスチャンであっても最初からすべてのことを冷静に受け入れられるわけではないことは知っておいてほしいです。もし最初そのことを冷静に受け入れられなくても、決してそれは自分の信仰が足りないからだからとか、自分の罪を神様が罰せられているのだと思わないでほしいと思います。そのような時を通しても神様は私たちを成長させてくださいます。もちろん、その時点で、心にわだかまりとして残っているものがあれば神様に祈って許してもらうこと、誰かと和解が必要であれば、素直に許しを請えばいいと思います。そのことを神様は最善に導いてくださるでしょう。

私の患者さんで、戦時中に部下を多く死なせた部隊長がおられます。肺の病期による呼吸苦がつよく、酸素療法を勧めたのですが、自分のような部下を殺してしまったものが、楽に生きているのは申し訳ないと拒否されました。しかし私たちの罪は決して一人で背負いきれるものではありません。罪を潔めて下さるイエス様の愛を信じているのですから、この病気は自分の罪の結果だと自分をさげすむのではなく、もう一度神様の前にこのような私を助けてください。おゆだねしますという祈りができたらなと思います。

「わが涙よわが歌となれ」の中には、トイレにも自分ではいけないけれど「あ、り、が、と、う」といえる。いつものように祈ることができる、そしていつものように子どもの宿題を見てあげようという自然体の信仰が描かれています。信仰は本当に力になるのですという証に、我々が勇気付けられます。その支えとなるのは、やはりその方自身の祈りと、周りの方のとりなしの祈りであるように思います。
あとひとつ知っておいてほしいのは、聴力は最後まで残るということです。患者さんの手をとって耳元で、「これまでいろいろありがとう。これから私たちがあなたの信仰を引き継いでがんばっていきますから。安心してください。」 というようなお別れができたらと願います。

4、家族のケア
最後に家族のケアについて述べます。柏木先生によると、愛する家族を失った家族は大体1年くらい様々な悲しみの症状を経験するようです。「寝つきが悪い」、「十分に寝た気がしない」という睡眠の障害、「食欲不振」、「うつ気分」、「涙もろさ」、「興味の低下」、「家にこもる」、「寂しさ」、「自責の念」など一言で言うと「うつ状態」です。半年でこの悲しみから乗り越えられる人が50%、1年で70%、20%の人は1年半以上このような症状が続くのだということと、悲しむべきときに、きちんと悲しんでおかない(男の人も泣くべきときに泣くことが必要です)と悲嘆が長引くことがあるということを指摘されています。時間が薬というのも事実ですが、まわりの方が十分に悲しんだ上で悲しみを乗り越えられるように祈ることが何よりも大切です。

 

ここでも安易な励ましが家族を傷つけることだけは知っておいてください。柏木先生の本に、牧師の夫を交通事故で突然亡くした後、教会の婦人会の方から(もちろん善意で)「いつまでもくよくよしていてはだめよ。もっと早く立ち直るようにがんばりなさいよ。」と励まされたこと。また、夫の死をきっかけに、問題のあった息子が立ち直ったことから、「神様は息子さんを立ち直らせるために、ご主人の命を召し上げられたのよ」というような勝手な理由付けをされ、余計に辛くなった経験を通して、死別カウンセラーになった牧師婦人の話がありました。
「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣ける」支え手でありたいと思います。クリスチャンとしてコリント13章の愛の章に書かれているようなケアをできればいいのではないでしょうか。自分のため、自己満足のケアでない、いつも相手を思いやることのできるクリスチャンとして成長できればと願っています。

参考文献
アルフォンス・デーケン「死とどう向き合うか」NHKライブラリー
柏木哲夫「人生の実力」幻冬舎、「死を看取る医学」NHKライブラリー
原崎百子「わが涙よわが歌となれ」新教出版社

写真は、地域医療に邁進されていた白浜雅司医師が働いていた診療所。

プライマリーケアーの重要性を説き、福岡県と佐賀県の県境の僻地で実践されていました。

 

 

 

罪と死の関係

 

いつか自分にも訪れる死を見つめて生きること、死にゆく人々の心に寄り添いいたわることについて記してきました。しかし、そのためにも必要なことは、死とは何であるのかをよく理解することです。

死は決して他人事ではなく、老いた人でも若い人でも、いつかは分からないけれども、いつかは必ず自分自身も経験しなければならないものです。それはあたかも予期しない時に突然大洪水(大津波)がやってくるようなものといえるかもしれません。

「それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」(マタイ7:24~27)

 

ここには、やがて来る洪水に備えて自分自身の確かな土台を築いておくことが勧められています。それを聖書では、(神の言葉を)「聞いて行う」という言葉で表現していますが、言葉を変えて言えば、神と和解する、神とつながって生きるといってもよいでしょう。

 

 

私たちは、自分がどこから来て、どこに行くのかということは分かりません。それは神に教えていただかなければ分からないことです。

「死んだ後どうなるのか」、死んだら無になると考えている人は比較的多いようですが、それは、人の体が火葬にされ、やがて土に帰っていくことからそのように思っているようです。確かに、聖書でも、「お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」(創世記3:19)と言われています。これは私たちの体のことを言っているのですが、人は体だけで出来ているのではなく、むしろその本体は目には見えない魂であり霊にあるのです。

人が死ぬということは、霊がその体から離れることです。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2:7)といわれているように人は本来神によって生かされている存在なのです。

 

神から離れてしまった人間

 

「死」とは何かということですが、聖書では、いのちを与え、育んでくださる神からの断絶、罪によって神から離れてしまったことを「死」と呼んでいます。この世界を創造された神は、最初の人類であるアダムに言われました。「主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2:17)

「必ず死ぬ」といわれたのにもかかわらず、アダムは神の命令に背いて、食べてはならないといわれた善悪の木の実からとって食べてしまいました。

これによって罪を犯し、死が入り込んできたのです。人は(完全な正義である)神の前に立つことができないものとなり、罪をもって人は産まれてくることとなりました。

 

聖書には、すべての人が神の前に罪人であるといわれています。

「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、/神を探し求める者もいない皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」(ローマ3:10~12)

神様からみて、この人は正しい人だと思える人はひとりもいないと言われています。マザー・テレサ、釈迦、孔子など、世界には多くの偉人といわれる人がいますが、神の前には罪のないものはひとりもいないといわれるのです。

これを読んでおられるあなたは、いかがでしょうか。

心の仲の思いもすべてをご存知の神の前に、私は何の罪もないということができるでしょうか。

正直に自分自身を振り返ってみるとき、自分自身の罪を認めざるを得ないのではないでしょうか。以下は、神が人々に与えられた十戒ですが、これをすべて守っているという人は果たしているでしょうか。

 

「20:2 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。

20:3 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。

20:4 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。

20:5 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。

20:7 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。

20:8 安息日を心に留め、これを聖別せよ。

20:12 あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。

20:13 殺してはならない。

20:14 姦淫してはならない。

20:15 盗んではならない。

20:16 隣人に関して偽証してはならない。

20:17 隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」

 

私たちの社会では、表に出た犯罪によって罪を犯したかどうかを判断しますが、神は、私たちの心に中にある思いをご存知ですから、心の思いによってそれを判断なさることができます。例えば主イエスは次のように言われました。

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」(マタイ5:22~23)

「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」(マタイ5:27~28)

神様のご覧になるレベルは非常に高いものです。人にはわからなくても、神はすべてをご存知であり、その思いと行いに応じて報いられるのです。

 

人間が犯してしまう罪は、次のようなものでもあります。

「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。」(ガラテヤ5:19~21)

 

私はこのようなものとは関係がない。思いも行いも、まったく正しい人間です。という方は、救い主など必要ないでしょう。しかし、現実には神の前に罪がない人などひとりもいないのです。

私たちは死というものに恐れを感じ、不安を覚えるものですが、それは心のどこかで、神の裁きを恐れる思いがあるのではないでしょうか。

 

罪と死からの救い

 

どの人も、罪のない人はひとりもいないがゆえに、次のように言われています。

 

「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。」(ヘブライ9:27)

 

「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ローマ6:23)と言われています。

死は、人間の罪の結果もたらされたものだというのです。

 

「メシア(救い主)はこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。」(ルカ24:26~27)

 

「罪の支払う報酬は死である」と言われているように、罪は死を要求するのです。何百万円、何千万円払ったから罪が帳消しにされるというものではありません。しかし、先に挙げた聖書の言葉には、いずれも神様が私たちのために救いの道を開いてくださっていることが記されています。

人は、自分自身の努力や行いによっては、自分の罪を無くすことも、死にいたる自分のあり方を解決することも出来ません。

 

聖書は、このような罪の内にある私たち人間を救うために与えられた神からのメッセージなのです。実をいうと、人類史上ただひとりだけ、神の前においても罪を犯すことのなかった方があります。それは、神の御子イエス・キリストです。

先の聖書には、「メシア(救い主)はこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだった」と言われています。実際に、神の御子であるイエス・キリストは、今から約2000年前にこの世に人としてお生まれになり、その生涯の間、完全に父なる神の御心を行なう方として歩まれ、人々を愛し、人々に仕えるものとして歩まれましたが、最後には捕らえられ、苦しみを受けて、十字架にかかって死なれ、3日目によみがえられたのです。

 

罪からの救い主は、次の3つの条件を満たす必要があります。

 

  • 罪のない方(実際には神以外には罪のない方はおりません)
  • まことの人(人間の罪を償い赦すためには真の人間であること)
  • 罪人の身代わりに苦しみを受け、血を流して死をもって償うこと

 

旧約聖書は、イエス・キリストが人としてお生まれになる以前に書かれたものですが、そこには、イエス・キリストについてのさまざまな預言が記されています。ここではその中の一つだけご紹介いたします。

 

イザヤ書は、イエス・キリストがお生まれになる700年も前に書かれたものですが、次のように言われています。

 

「53:1 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。

53:2 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

53:4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。

53:5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

53:6 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。」

(イザヤ書53章1~6節)

 

この箇所は、イザヤ書52章13節から始まった第四のしもべの歌の一部です。ここには、主のしもべはなぜ苦難を受けなければならなかったのか、その理由が記されています。それは、私たちの罪のためであったということです。つまり、それは身代わりの死であったということです。

イエス・キリストが働きを始められてから今日まで、多くの人が十字架について誤解しています。イエスがメシヤであるならどうして十字架にかかって死ななければならなかったのか、というのです。それはユダヤ人にとってはつまずきであり、ギリシャ人にとっては愚かなことかもしれませんが、しかし、救いを受ける私たちには、神の力です。(Ⅰコリント1:18)それは最高の愛だったのです。

ここでは、この最高の愛について、三つのポイントで記してみたいと思います。まず第一のことは、だれが主の御業を信じたかということです。だれも信じませんでした。第二にその理由です。なぜ彼らは信じなかったのか。なぜなら、彼らが想像していたメシヤとは全く違っていたからです。第三のことは、なぜメシヤはこれほどまでにさげすまれなければならなかったのか。それは私たちの罪の身代わりとなるためでした。

Ⅰ.だれが信じたか(1)

まず1節をご覧ください。「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。」

「私たちの聞いたこと」とは、神の救いに関する良い知らせのことです。このすばらしい救いの知らせを、いったいだれが信じたでしょうか。だれも信じませんでした。なぜでしょうか?イエスの姿が、彼らが想像していたメシヤ像とはあまりにもかけ離れていたからです。彼らが信じていたメシヤとは、イスラエルを政治的にも、軍事的にも復興してくれる方でした。彼らはローマ帝国の支配から自分たちを解放してくれる政治的メシヤを待ち望んでいたのです。それなのに、主イエスはそうではありませんでした。主イエスは、そうした問題の根本的な原因である罪から救うために来られたのです。ですから、彼らはイエスをメシヤ(救い主)として受け入れることができなかったのです。

この1節のみことばは、ヨハネ12:38とローマ10:16にも引用されていますが、ヨハネ12:38には、「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」とあるのです。なぜなら、この時から主イエスは、ご自分が死なれることを語り始めたからです。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはそのままです。しかし、死ねば実を結びます。」死なれる、弱々しい者がメシヤであるはずがないと言って、人々はイエスから離れて行ったのです。だれも信じようとはしませんでした。

 

それはどの時代も同じです。どんなに福音を語っても、人々は信じようとしません。人々が求めているのはいやし、力、栄光、祝福、成功、繁栄といったものだからです。そのような話には魚が餌に飛びつくように飛びつきます。そのような富、栄光、繁栄、成功、といったものには関心があっても、見るかぎりみすぼらしいように見えるものには見向きもしません。みんな去っていきます。

しかし、それでも私たちは語ることをやめてはならない。なぜなら、神の国はそのようなものだからです。救い主イエスが生まれた時もそうでした。この天地を創造された救い主が、何と馬小屋で生まれたのです。飼い葉桶に寝かせられました。一見、救い主とは全く関係ないと思われるようなところでお生まれになりました。それは、神の救いというのは、私たちが考えているようなものとは全く違うものだからです。また、私たち自身が信じる者に変えられたからです。

「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:17)

信仰は聞くことから始まるのです。キリストについてのみことばを聞くことです。ですから、信じてほしいと願うなら、キリストについての良い知らせを聞かせなければなりません。聞かせなければ信じることはできないからです。「こんな人に聞かせたって無駄だ。聞く耳をもってないし・・・。」「聖書になんて全く興味はないし、信じるつもりなんてない」と思うかもしれませんが、それでも聞かせなければならないのです。これほどすばらしい知らせはないのですから。そうすれば、だれも信じないと思えるような中にあっても、神は必ず信じる人を起こしてくださるのです。

Ⅱ.さげすまれたしもべ(2-3)

では、いったいなぜ彼らは信じなかったのでしょうか。さきほども申し上げたように、それは主イエスが彼らが想像していたメシヤ像とはあまりにもかけ離れていたからです。2節と3節をご覧ください。2節には、「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。」とあります。

11:1にも「若枝」という言葉が出てきましたが、この「若枝」と11:1に出てくる「若枝」は違う言葉です。この「若枝」は「吸枝」(きゅうし)と呼ばれるもので、植物の根から最初に出る枝のことです。その枝は地面の下に根のように伸びます。この「吸枝」という言葉は「吸う」という言葉から派生した言葉で、赤ちゃんがおっぱいを吸うイメージです。ですから、「若枝のように芽ばえ」とは、赤ちゃんのように全く力がなく、他の何かに頼らなければ生きていくことができないような、弱々しい姿で生まれたという意味です。

また、ここには「乾いた地に埋もれた根のようだ」ともあります。皆さんは、「砂漠の地から出る根」を見たことがあるでしょうか?それはカラカラに干からびています。もう死んだような状態になっています。そんな砂漠から出た根のように主のしもべは育ったのです。

ですから、「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない」のです。「彼」とはもちろんイエス・キリストのことです。イエス・キリストには、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもありませんでした。私たちが慕うような見ばえもなかったのです。私たちの中にはどこか、髪が長く、すべすべした肌で、掘の深い青い目をしていて、かなりのイケメンであるのに加え、真っ白い衣には後光が差しているといったイメージがありますが、このイザヤ書の描写を見ると違うことがわかります。私たちがそのように想像するのは、中世の絵画やキリストの映画等を見ているからであって、実際には違うわけです。実際には、彼には見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもありませんでした。

福音書を見ると、ローマの兵隊がイエスを捕らえに来た時、だれがイエスなのかわからなかった、とあります。それで、わかるようにと、ユダがその人に口づけしました。その人がイエスであるという合図のためです。イエスは口づけしなければわからなかったほど他の人たちと全く変わらない、ごく普通の人だったのです。その内側には神の栄光の輝きがありました。麗しさと優しさに満ち溢れていましたが、見た目には見とれるような姿も、輝きも、私たちが慕うような見ばえもなかったのです。この世的には学歴も、地位も、財産もありませんでした。

3節をご覧ください。ここには、「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」とあります。

イエスはさげすまれるようなことは何一つしなかったのに、何一つ悪いことなどしなかったのに、のけ者にされ、悲しみの人で病を知っていました。人が顔をそむけるほどさげすまれ、だれも彼を尊びませんでした。それどころか、彼は自分を捨て、他の人の幸福のために心から仕えました。病人をいやし、悪霊を追い出し、疲れた人、苦しんでいる人を慰めました。主イエスは食する暇も忘れ、寝る間も惜しんで、人々のために身を粉にして仕えたのです。なのに人々は彼をのけ者にし、「十字架につけろ」と叫び続けだのです。

彼は、悲しみの人で病を知っていました。「悲しみ」とは肉体的な痛みだけでなく、すべての種類の悲しみを表すもので、「死に至るほどの深刻な損傷」を指します。「病を知っていた」というのは、病に慣れていたとか、常に病を抱えて歩んでいたという意味です。人が顔をそむけるほどさげすまれ、だれも彼を尊びませんでした。

なぜでしょうか?なぜなら、イエスが彼らが望んでいるようなメシヤではなかったからです。彼らが求めていたのはあくまでもイスラエルをローマの支配から解放し、この地上に神の国をもたらしてくれるメシヤだったからです。しかし、彼はそうではありませんでした。何とも弱々しく、干からびたような状態で、見た目には何の輝きもなく、魅力もない、パッとしないメシヤだったからです。一言で言えば、それは「期待はずれ」だったのです。

しかし、主の御腕は、だれに現れたでしょうか?なんと、主の御腕はこのような受難のしもべによって現わされました。見た目にはパッとせず、何とも弱々しく、干からびたようなそんなしもべによって現れたのです。

ですから、見た目で人の善し悪しを判断してはいけません。たとえ弱々しいから、たとえ干からびているようでも、のけ者にしてはいけないのです。私たちが見とれるような輝きがないから、私たちが慕うような見ばえがないからと言って、さげすんではならないのです。

Ⅲ.私たちの罪を負われたしもべ(4-6)

いったいなぜ主のしもべはそれほどまでにさげすまれたのでしょうか?4節をご覧ください。「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。」

いったいなぜ彼はそのような病を負い、痛みをになったのでしょうか?私たちはてっきり、それは彼自身が自分の過失のためにそのような災いをこうむったからだと思っていましたが、それは間違っていました。それは、私たちのためでした。「彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」のです。

5節をご覧ください。ここには、「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」とあります。

しもべが刺し通され、しもべが砕かれたのは、私たちの罪のためであり、私たちの咎のためだったのです。ここには、「刺し貫く」とか「砕く」という言葉がありますが、これはまさに主のしもべであるイエス・キリストが受けた十字架の苦しみを表しています。

この預言はキリスト生まれる七百年も前に告げられたものですから、十字架を見て預言したわけではありません。しかし、さながら十字架のもとにたたずんで、十字架を見た人が語ったような描写です。これはイエスさまが十字架で刺し通され、砕かれたということを見事に表しているのです。

 

けれども、その苦しみはいったい何のためだったのでしょうか。キリストはなぜ十字架で死ななければならなかったのでしょうか?それは「私たちのため」です。それは私たちの罪のため、私たちの咎のためだったのです。「私たちのため」というのは英語では「for us」ですが、この「for」という言葉は「代わりに」と訳すこともできます。ですから、「私たちのために」ということは「私たちの代わりに」ということでもあるのです。彼が刺し通され、砕かれたのは、彼がそれほどの苦しみを受けられたのは、私たちの身代わりのためだったのです。彼への懲らしめによって、私たちはいやされ、彼の打ち傷によって、私たちはいやされたのです。

6節には、「わたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。」とあります。神は全人類の罪を彼の上に置かれました。全人類の罪です。私1人の罪だけではありません。現在、過去、未来に渡る、あらゆる民族の罪の怒りと刑罰を主イエスは担って死んでくださったのです。私1人でもかなり重いのに、全世界の人の罪といったらどれほど重かったことでしょう。

それは現在の人だけではなく、有史以来、この地上に生きたすべての人の罪も含まれます。最初の人アダムが造られた時から今日に至るまでのすべての人の罪です。そのすべての咎を負われたのです。

「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」(Ⅰヨハネ2:2)

主イエスは全世界のための、なだめの供え物となって、十字架で死んでくださったのです。それは私たちの罪のため、私たちの罪の身代わりのためでした。それは、この方にあって、私たちが神の義となるためです。Ⅱコリント5章21節も開いてください。ご一緒に読みましょう。

「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」

イスラエルでは、多くの人の罪が赦されるために、小羊が代わりに殺されました。その血が注がれることによって人々の罪が赦され、その肉が食されることによって、人々の肉体のいのちが保たれたのです。つまり小羊は救いの力、あがないの力を現す動物だったのです。そして、イエス・キリストはその神の小羊となって死なれたのです。

イスラエルがエジプトの奴隷から解放される時、小羊が殺されて家の玄関のかもいにその血が塗られました。それによってイスラエルの人々は、神の滅びから守られてエジプトから出ることができました。実に出エジプトという出来事は、過ぎ越しの小羊の血によって実現したのです。主イエスこそその過ぎ越しの小羊だったのです。その血によって罪の奴隷として捕らえられている人を、そこから解放してくださるのです。

ですから、バプテスマのヨハネがイエスを見た時こう言ったのです。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」。あの過ぎ越しの小羊のようにこの方がほふられることによって、全世界の罪が取り除かれる時が来た、とヨハネは言ったのです。このようにして身代わりという事実がなされたのです。福音書に出てくるイエスの十字架は私のためであり、またあなたのためであり、全世界の身代わりのためだったのです。

私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって歩んでいました。聖書ではこれを罪と言います。「罪」とはギリシャ語で「ハマルティヤ」と言いますが、それは「的外れ」という意味です。そんな私たちの罪を赦すために、神はその罪の刑罰のすべてをこのしもべに負わせ、このしもべが身代わりに受けることによって、私たちのすべての罪を赦そうとされたのです。

「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」

何と感謝なことでしょうか。この世の人たちは十字架は愚かなことだったとか、失敗だったとかと言いますが、それは神の私たちに対する最高の愛の現れだったのです。

昭和の初期のことです。和歌山県南部(みなべ)という町に労祷学園(ろうとうがくえん)がありますが、枡崎外彦という牧師がこの学園を指導されていた時、山本忠一という少年がこの学校にやって来ました。やって来たというよりも、拾われて来たと言った方がいいかと思います。しかし、彼は知恵遅れの少年だったので、彼がこの学園に加えられた時、誰かが門柱にペンキで「アホ学校」と落書きしたことから、この学園は「アホ学園」と呼ばれるようになり、南部名物とまで言われるようになりました。

彼は幼い頃、脳膜炎をわずらった孤児でした。大食いと寝小便のゆえに親族も愛想をつかし、捨てられ乞食をしている所を、枡崎牧師が世話をすることにして、連れ帰ってきたのです。  忠やん。と呼ばれるようになった知恵遅れの少年には、だれにも真似の出来ない特技がありました。飛んでいるハエを素手で取るのです。ハエを目にするや、忠やんの目は輝き、ハエを見つめながら、左手左足で調子をとりながら、右手の指先でバッと捕まえるのです。それは百発百中の神技でした。

そのころ、升崎牧師の下で、7人の若者が学んでいましたが、彼らが牧師につめよりました。 「忠やんが、労祷学園に出入りしないようにして下さい。」「もし忠やんが学園に加わるのであれば、自分たちが出て行きます。」升崎牧師は悩み苦しみました。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。』(ルカの福音書 15章4節) 才能のある7人と1人の知恵遅れの少年どちらを選ぶべきか?イエス様は、1人の世話を必要としている人を見捨てることはない。7人の青年達は去っていきました。

ところが、それからしばらくして、忠やんも外出したまま帰ってこなくなりました。八方手を尽くしましたが、消息はつかめませんでした。忠やんがいなくなってから数年たった昭和14年のある日、1人の紳士が升崎牧師を訪ねて来ました。「あなたは何年か前に山本忠一君をお世話して下さった牧師さんですか?」「おお、あなたは忠やんの消息をごぞんじですか?元気にしてますか?」「実はその忠一君は、立派な働きをして死にました。」「これが彼の形見です。」 紳士はそう言って、船の舵輪を差し出しました。 紳士は話し始めました。

「ある日、海辺に1人で立っている忠やんを見つけ、あれこれ訪ねたが、何も判らない、行くとこもないようなので、私の船で働くか?と聞くと、うん。と言うので、船に乗せ、働いてもらっていました。  ある日、荷物を満載して紀州尾鷲港を出航しましたが、出航後間もなく海がしけ、新宮沖にさしかかるころには、思う方向に船を進めることも出来なくなり、ついに暗礁に船底をぶつけてしまいました。  船底に穴が開き、水が激しく浸水してきて、いくら排水しても間に合わなくなり、一同観念した時、船底から、『親方!親方!船を!船を!』と手を振り叫んでいる者がいます。

忠やんでした。忠やんは、自分の足を穴に突っ込み浸水を止めていたのです。 船員一同必死に排水と操船をし、陸に近づけ、助かったのです。 忠ちゃん助かったよ!と彼のもとに行った時には、忠ちゃんの右太ももはもぎ取られ、出血多量ですでに息を引き取っていました。この舵輪はその時の幸十丸のものです。」

升崎牧師は労祷学園で、オランダ堤防の決壊を救ったハンス少年の事を話した事がありました。その話を聞いた時、忠やんは、「俺はハンスだ!ハンスだ!」と叫んでいました。 人から“アホ忠”、“アホ忠”と呼ばれ、“アホ忠”が自分の名前と思っていた山本忠一君でした。

彼は升崎牧師の愛と教えを受け、自分の身を持って、愛を実践したのです。   「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ福音書15:13)

これは忠一君が覚えた、たった一つの聖書の言葉です。山本君は普段自分をアホ忠と呼んでバカにし、なぐったり蹴ったりした船員たちの命を救うために、自分の命を犠牲にしました。これは私たち人類を救うために十字架の上でご自身の命を犠牲にしてくださったキリストの愛です。このキリストの愛を受けていたので山本君は自分をばかにしていじめていた人たちをも許し、愛して、救うことができたのです。

キリストは、あなたの病を負い、あなたの痛みをになってくださいました。あなたのそむきの罪のために刺し通され、あなたの咎のために砕かれました。しかし、彼への懲らしめがあなたに平安をもたらし、彼の打ち傷のゆえに、あなたはいやされました。

ですから、もしあなたが病を負っているなら、どうか、この十字架につけられたイエス・キリストを見上げてください。あなたが人にも言えないような苦しみを抱えているなら、どうか、十字架のキリストを見てください。キリストはあなたの病やあなたの苦しみの一切を代わりに受けて死んでくださったのですから。もちろん、クリスチャンでもこの世の人と同じように不治の病にかかることがあります。主イエスを信じているからと言って、がんにかからないわけではありません。しかし、死ぬときにも、恨まず、死を受け入れることができます。すべてが願いどおりになるわけではありませんが、しかし、願い通りにならなくても感謝することができるのです。なぜ?神があなたを救ってくださったからです。キリストがあなたの罪の身代わりとなって十字架にかかって死んでくださり、その身代わりの死を信じて受け入れたので、あなたの罪のすべてが赦されたからです。

「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。」(ヘブライ9:27)

 

「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ローマ6:23)

これが、この世の人とクリスチャンが決定的に違う点なのです。そして、それは本当に大きな違いではないでしょうか。罪が赦され、永遠のいのちが与えられている。神が私とともにいてくださる。これは本当に何よりも大きな恵みです。私たちにはこの救いが与えられているのです。十字架につけられたイエスを信じることによって。ですから、私たちが求めなければならないのは、この十字架のイエス・キリストであって、この世の華やかさではありません。どうか、このイエスから目を離すことがありませんように。この方を信じることが、あなたのいやしと救いなのです。

 

主イエスの福音宣教

ルカ4:14-21

4:14 イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。

4:15 イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。

4:16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。

4:17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。

4:18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、

4:19 主の恵みの年を告げるためである。」

4:20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。

4:21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

キリストの「宣教命令」を満たすため、福音を宣べ伝えるということがどんなことなのかを、聖書に基づいて理解しておきたいと思います。

この聖書の箇所は、主イエスが公けに福音を宣べ伝えはじめられたときのことが書かれています。ここで、主イエスは、福音宣教はどんなことだと言っておられるでしょうか。そのことを学び、私たちの福音宣教について考えてみましょう。

 一、罪の赦し

主イエスは18−19節で「捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」と言われました。福音宣教とは、「捕われ人に解放を与え、眼の見えない人の目を開き、圧迫されている人々を自由にする」ものだと教えられたのです。

第一に、「捕われ人には解放を」ということばは、罪の赦しについて語っています。人生で失敗のない人は誰もいません。誰もが過去に、「あんなことをしなければよかった」、「あのときにこのことをしておけばよかった」という後悔を持っています。人生を長く生きれば生きるほどそれは増えていきます。また、自分自身の内面を見るとき、自分の中に、汚れた思いや、愛のない冷たい心があることに気付きます。三浦綾子さんの小説『氷点』は人の心の奥深いところにある「罪」をテーマにしたもので、三浦さんは小説の主人公、陽子にこう言わせています。

「現実に、私は人を殺したことはありません。しかし法にふれる罪こそ犯しませんでしたが、考えてみますと、父が殺人を犯したということは、私にもその可能性があることなのでした。

自分さえ正しければ、私はたとえ貧しかろうと、人に悪口を言われようと、意地悪くいじめられようと、胸を張って生きていける強い人間でした。そんなことで損なわれることのない人間でした。なぜなら、それは自分のソトのことですから。けれども、いま陽子は思います。一途に精一杯生きてきた陽子の心にも、氷点があったのだということを。

私の心は凍えてしまいました。陽子の氷点は、「お前は罪人の子だ」というところにあったのです。この罪ある自分であるという事実を耐えて生きていく時にこそ、本当の生き方が分かるのだという気もします。

私は今まで、こんなに人に赦してほしいと思ったことはありませんでした。おとうさまに、おかあさまに、世界の全ての人々に、私の血の中を流れる罪を、はっきりと『赦す』と言ってくれる権威あるものがほしいのです。私には、おまえの罪を赦すという権威が必要なのです。」

これは小説の主人公の言葉ですが、人々の心の実際の叫びでもあると思います。罪の赦し、それは誰もが、心の奥底で求めているものです。福音を伝えるということは、イエス・キリストの十字架による罪の赦しを告げ知らせることなのです。

復活されたイエスは弟子たちに「また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」(ルカ24:47)と教えました。

罪の赦しは福音の中心です。この時の弟子たちは、十字架にかけられたイエスを見捨て、イエスが復活されたことを信じなかった人たちです。イエスが弟子たちの第一の者として選ばれたペテロでさえ、イエスを三度も知らないと否定しています。しかし、弟子たちは、自分たちの罪深さを知り、真実に悔い改め、赦しを体験しました。だからこそ、罪の赦しの大切さを知り、それを宣べ伝えることができたのです。ペテロはペンテコステの日に「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい」(使徒2:38)と説教しています。罪の赦しは、罪を悔い改め、赦しを受けた人たちだけが伝えることができるものであり、キリストは、罪の赦しの福音を、罪の赦しを知っている者たちにゆだねてくださったのです。

こうして、他のどこにもない尊い福音が21世紀の今日に至るまで、世界中に伝えられ、救われる人々が日々増えつづけ、救われた人々の群れである教会が広がり続けているのです。それは罪のない完璧な人によってでなく、むしろ罪を知り、罪赦された者たちによって教会が形作られているのです。

 二、真理への導き

第二に、「眼の見えない人の目の開かれること」というのは、人々が神の真理に導かれることを意味しています。多くの人は、唯一のまことの神がおられることを知りません。しかし、福音が語られるとき、「神が私を造ってくださった。私を造ってくださった神が、ご自分の御子イエス・キリストを身代わりにしてまでも、私を愛してくださった」ということが分かるようになります。そこから人生を新しく見ることができるようになる。まさに、目が開かれる体験をするのです。

聖書で、目が開かれる体験をした人が数多くありますが、その代表的なのは使徒パウロでしょう。パウロは、もとの名をサウロと言い、キリストを信じて使徒とされるまでは、教会を迫害する者でした。サウロは熱心なユダヤ教徒であり、クリスチャンがイエスを神の子として礼拝するのを許しておくことができませんでした。それで、ユダヤだけでなく、今、ニュースで話題になっているシリアのダマスカスにまで迫害の手を伸ばそうとしました。ところが、サウロはそこで主イエスに出会うのです。突然、天からの光がサウロを照らし、サウロは目が見えなくなってしまいます。サウロが目の見えないままダマスカスにとどまっていると間、ダマスカスの教会の指導者アナニヤがサウロのところに遣わされました。アナニヤがサウロのために祈ると、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになりました(使徒9:18)。「目からうろこ」ということわざは、聖書のここから出たことわざなのです。そのときサウロは、「わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。」(使徒26:17-18)というキリストからの使命を受けました。目を開かれ、暗やみから光に導かれたサウロは、今度は、他の人の目が開かれ、暗やみから光に導かれるために、福音を伝えはじめるようになりました。

私たちも、目を開かれて、主イエスを知りました。ですから、この喜びを他の人に伝えないではいられないのです。

 

 三、解放と自由

第三に、「圧迫されている人々を自由にし」とは、罪とその結果である死に縛られている人々を解放し、自由にすることを意味しています。人は罪を犯すことも、正しく生きることも選ぶ自由を持っています。人は、その自由を使って、義を選びもし、罪を選びもするのです。自分の自由意志を使って罪を犯すのですが、罪を犯した後は自由ではありません。罪の結果に縛られるのです。

交通違反をすればチケットを切られ、罰金を払い、場合に寄ったら交通刑務所に行かなければなりません。誰かを傷つければ賠償を命じられるばかりか、刑務所に入らなければならなくなります。そうした法律上の犯罪でなくても、私たちは何らかの罪を犯し、その結果に縛られています。「アルコール」や「ドラッグ」のような見えるものばかりでなく、「怒り」や「妬み」、「優越感」や「劣等感」、「不平」や「不満」など心の中にあるものにも縛られてしまいます。イエスが「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」(ヨハネ8:34)と言われた通りです。

人が罪の結果から逃れられないことは、誰もが必ず死ぬということによって明らかです。聖書が「罪から来る報酬は死です」(ローマ6:23)と言うように、すべての人は、罪を犯しており、罪の結果である「死」を報いとして受けるのです。人が死を恐れるのは、自分が罪を犯しており、やがて神の裁きを受けるということを、おぼろげながらも知っているからです。

聖書が「死」というとき、それは「霊的な死」、「肉体の死」、そして「永遠の死」の三つを指しています。「霊的な死」というのは、神に対して無感覚になり、神に応答できないことを指しています。死んだ人に呼びかけても答えがないように、神が語りかけておられるのに、それを聞くことができない、それに応答することもない状態がそうです。神が人を「かみのかたちに」造られたのは、人が神とともに生きるためでした。しかし、霊的に死んだ人間は、本来あるべき神との交わりを失い、いのちある人生を送れなくなっているのです。「肉体の死」は地上の人生が終わることを指します。人はそれまでに築きあげてきたいっさいの物を置いて世を去らなければなりません。財産も、学問も、人間関係も、地位も、名誉も、すべてです。人は裸で生まれ、裸で死んでいきます。ひとりで生まれ、ひとりで死んでいきます。救い主を持たないで死を迎えることほど、孤独で恐ろしいことはありません。「永遠の死」は、死後の裁きによって、神から引き離されることを指しています。

すべての人は、どんなにしても死から逃れることはできません。しかし、この三つの死から解放してくださるお方がいるのです。それがイエス・キリストです。

アウシュビッツ収容所で、囚人となっていた10名が餓死刑に処せられることになったときのことです。その10人のうちのひとり、ポーランド人軍曹が「私には妻子がいる」と泣き叫びだしました。それを聞いたマキシミアノ・コルベ神父は「私が彼の身代わりになります。私はカトリック司祭で妻も子もいませんから」と申し出て、コルベ神父と9人の囚人が地下牢の餓死室に押し込められました。ふつう、餓死刑に処せられるとその受刑者たちは飢えと渇きによって錯乱状態になるのが普通でした。ところが、その部屋からは祈りと賛美が聞こえ、餓死室はさながら聖堂のようだったと、看守が証言しています。

アウシュビッツでは、コルベ神父のように誰かの身代わりになることはできても、神の審判においては、罪ある人間は、他の人の身代わりになることはできません。しかし、ただひとり、罪のないお方、イエス・キリストは全人類の身代わりになることができるのです。イエス・キリストの十字架の死は、あなたのため、私のための身代わりの死でした。聖書は、人は罪という牢獄に閉じ込められていると教えていますが、その牢獄の扉を開ける鍵が、罪の赦しをもたらすキリストの十字架なのです。福音宣教とは、この神の子の身代わりの死のゆえに、私たちが死の牢獄から解放されると告げ知らせることなのです。

私は、聖書の福音がまだよく分かっていなかった時は、「死んだらどうなるんだろう」と考えてとても不安でした。しかし、聖書を読み、イエス・キリストが私の罪のために十字架で死んでくださった、いや、それだけでなく、死人の中から復活して、私に永遠の命を与えてくださるということを知り、信じたとき、私は死の恐怖から解放されました。「永遠の死」は「永遠の命」に、「霊的な死」は「霊の命」に、「肉体の死」は「からだのよみがえり」に代わりました。やがて「肉体の死」を経験しなければなりませんが、主イエスと共にあるなら、それも天への入り口に過ぎません。ヘブル2:14-15に「イエスもまた同様に、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」とありますが、まさに、私はこのみ言葉のとおりのことを体験したのです。

この箇所で、主イエスは、聖書を朗読してから、「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」と言われました。主イエスこそ、人々に罪の赦しを与え、人々の心の目を開き、罪とその結果から人々を解放し、自由にするお方だからです。この主イエスを信じる者は、その罪が赦され、真理に導かれ、罪と死から解放されます。罪を赦された幸い、真理に導かれた喜び、解放と自由の感謝を体験しています。主イエスが語られた聖書のみことばがは、今も、実現しているのです。誰かがイエス・キリストを信じて救われるとき、主イエスは、「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」と語ってくださるのです。

 

福音を伝えるためには、知識も訓練も必要でしょう。しかし、その人に罪の赦しの喜び、真理への愛、解放の感動がなければ、ほんとうには福音は伝えられません。体験は体験によってしか伝わらず、感動は感動によってしか伝わらないからです。どう伝えるかは、その時々に知恵が与えられます。救われた私たちが常に福音に聞き、それを体験し、それに感動している、そのことが何よりも大切です。赦された感謝、神を知る恵み、解放の喜びをきょうもしっかりと心に受けとめましょう。そして、家族の救い、友人の救いのために祈り、この福音を伝えることができるようにと、熱心に神に願い求めていきましょう。

 (祈り)

恵み深い神さま、主イエスが私たちのために勝ち取ってくださった罪の赦し、真理の知識、解放と自由を感謝します。この救いの体験、喜び、感動を他の人と分かち合うことができますよう、私たちを励ましてください。臆病な心を取り除き、怠惰な思いから解放し、大胆に、忠実に、あなたの福音を証しさせてください。そして、祈ってきた人たちが救われ、「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」という主イエスの宣言を聞くことができますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

「すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。神は、善をも悪をも/一切の業を、隠れたこともすべて/裁きの座に引き出されるであろう。」(コヘレト12:13~14)

 

「これらのこと(聖書)が書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(ヨハネ20:31)

ここに私たちの人生の目的があるといってよいでしょう。

さらに言えば、人生の目的とは、私たちがイエス・キリストによってその罪を赦されて、神との和解を与えられ、天に国籍を持つものとして生きるようになることということができます。

 

しかし、そうはさせまいとする悪魔や悪霊の働きがあることも確かです。

悪魔は私たちを、的外れの人生に導き、滅びの世界へ私たちをいざなおうとしているのです。私たちは、悪魔の策略を超えて、本来あるべき人生へと軌道修正していく必要があります。まことのいのちを与え、私たちを生かしてくださる神とともに生きることです。

 

クリスチャンが信じている天国とは

 

聖書にはどのように書いてあるのか、見てみましょう。ヨハネの黙示録21章と22章に天国の様子が書かれてありますから、その箇所を開いてご覧になってください。ヨハネは神様から示された黙示を、そのまま記録しています。そして天国については、あまり詳細には書かれていませんが、それには意味があるように思います。ヨハネは、「天国にあるもの」より、「天国にはないもの」について多く書いているように思います。なぜなら、天国のすばらしさをどのような美しい形容詞を用いて描写したとしても、私たちの限界のある能力では、次元の違う世界のことを完全には理解できないからではないかと思います。そのようなことを念頭において、お読みになってください。ヨハネは、七つの「ないもの」を記して、新天新地の一部を描写しています。

 

「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(ヨハネの黙示録21:1~4)。

 

(1)天国には「海」がない。

ここには、「もはや海もない。」(黙示録21:1)と記されていますね。この地球上に海を造られたのは、神様です。そして、人類はその海から、私たちが生きるために必要な魚や種々の海産物など多くの海からの恵みを受けて来ました。また、海がなければ、雨が降ることがありませんから、地上の様々な植物も育たなかったわけです。しかし、海はまた一度牙を剥くと、非常に恐ろしいところでもあるのです。今日までの人類の歴史の中で、どれだけ多くの船舶の海難事故などで多くの人々のいのちを飲み込んで来たことでしょうか。海は、ある意味では、あらしなどによる危険や恐怖の象徴であったとも考えられます。黙示録には、「海から一匹の獣(反キリスト)が上って来た」(13:1)とあるので、悪の根源のように考えられていたのかもしれません。また、海は少しも休むこと知らない不安定なものを示しています。

 

(2)天国には「死」がない。

人類の始祖アダムとエバは、神様が備えられたあの「エデンの園」はすばらしい所でした。そして、彼らが神に反逆して罪を犯す前には、この地球上には人間を不幸にして来た「死」はなかったのです。人間が罪を犯した結果、そこは、まさに「失楽園」となり、それから、幾千年間もの間、人類は死の恐怖の奴隷となってしまい、絶えず死の恐れと不安に慄きながら生きて来ました。しかし、主イエス・キリストの十字架と復活のみわざによって、死は滅ばされ、新天新地においては、もはや死はなくなってしまったのです。天国においては、永遠に「死」はありません。

 

(3)天国には「悲しみ」がない。

「悲しみ」も、やはりアダムとエバの罪の結果、人類に入って来たものですが、キリストの十字架と復活のみわざによって、神様は完全に取り除いてくださいました。アダムの罪以来、いつの時代にも、人類は多くの悲しみと悲惨を経験して来ました。しかし、キリストは「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」と言われています。人間の悲しみを理解され、あのゲッセマネの園では「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」と言われたお方ですが、そのキリストが十字架でその罪の結果の「悲しみ」をも負ってくださいました。そして、天国では、神様ご自身が私たちの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるというのです。何と慰めに満ちた光景ではありませんか。

 

(4)天国には「叫び」がない。

叫び(crying)は、泣き叫ぶことです。人間の罪がある所には死があり、死がある所には、悲しみがあり、悲しみがある所には、叫びがあります。今日の私たちの周囲のあちこちから、人々の泣き叫ぶ声が聞こえて来ます。不幸があった家からも遺族の泣き叫ぶ声が聞こえて来ます。ある国々では、今日も戦場と化した街々から、父や母を失った子供たちの泣き叫ぶ声が聞こえて来ます。でも、新天新地では、もう叫び声は聞こえて来ることはけっしてないのです。

 

(5)天国には「苦しみ」がない。

「苦しみ」ということばが、聖書に最初に出て来るのは、創世記3章です。エデンの園で人間が罪を犯す前には、「苦しみ」は全くありませんでした。「エデン」は歓喜の意味があります。そこは、楽しみと喜びで溢れていました。しかし、アダムとエバが神に反抗して罪を犯した直後に、女には、「みごもりの苦しみ」と「出産の苦しみ」が入って来ました。また男には、「苦しんで」食を得なければならなくなったのです。聖書には、人類のありとあらゆる苦しみが記されています。しかし、イエス・キリストの十字架と復活の勝利によって、すべての不幸の根源は取り除かれ、新天新地には、もはや「苦しみ」もありません。それは、もう過去のものとなってしまったのです。

 

(6)天国には「のろわれるもの」がない。

「もはや、のろわれるものは何もない。」(黙示録22:3)。

最初のエデンの園には、もちろん、「のろわれるもの」は何もありませんでした。人類に「のろわれるもの」が入って来たのは、やはり人間の罪の結果なのです。神は罪を犯したアダムに対して次のように言われたのです。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。」(創世記3:17)。しかし、イエス・キリストは、人類に対するのろいを取り除くために、罪人の身代わりになって、十字架に掛けられて、のろわれた者となってくださったのです。

 

(7)天国には「夜」がない。

「もはや夜はない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。」(黙示録22:5)。

現在の天と地は、神様が最初に創造された秩序であり、地球の自転により、昼と夜があり、昼は働いて夜は休むことが出来るようにしてくださったのです。これは神様の愛の配慮によるものであったのです。しかし、夜は闇であり、暗いのです。現在、人類の文明の発達によって大都会は不夜城のようになっていますが、これは、正常なものではありません。私たちは、明日の朝になれば、地上を明るくしてくれる太陽が東の空から昇って来ると信じているので、夜も安心して床に入り、眠ることが出来ます。永遠に朝が来ないと仮定すれば、だれも安心して夜床(ベッド)に寝ることができません。だれでも、夜は怖いのです。しかし、天国には永遠に夜がないというのです。そして、「都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである」(黙示録21:23)とあります。

 

私は、ある意味で消極的な面から天国(新天新地)について書いたのですが、天国で何よりもすばらしい幸いなことは、そこに御父なる神と、私たちのために十字架にかかって身代わりに死んで復活してくださった主イエス・キリストが共におられることなのです。冒頭のみことばでも、「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられる。」とあります。また、イエス様と共に十字架につけられた二人の強盗のうち、悔い改めた一人に対して、イエス様は「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)と約束されました。また、主イエス様は、刻々と近づいていた十字架刑の直前において、弟子たちを励まして、次のように言われたのです。

 

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネの福音書14:1~3)。

 

とにかく、天国のすばらしさは、だれもそれを人間のことばで表現することはできないのではないかと思います。パウロは、第三の天(神が臨在される所:天国)について次のように語っています。パウロが大きな試練の中にあって落胆していた時に、神様は彼を激励するために第三の天(天国)を見させてくださったのです。この時のことを、それから14年後に、諸事情があってやっと口を開いて語るほど、その天国のすばらしさを人間のことばでは表現できなかったのではないでしょうか。それは、あまりにもすばらしかったからです。その経験はパウロにとって生涯忘れることができなかったものとなったことは間違いありません。

「わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。」(2コリント12:2~4)。

 

「わたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。」(2ペテロ3:13)。

 

「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリピ人への手紙3:21)。