人はどこに行くのか 終末の希望
近年になって、「終末」を意識させるようなアニメや映画などが上映されるようになってきました。
「風の谷のナウシカ」は、世界戦争が起こって旧い世界が終わり、新しい世界での暮らしが始まっていく様子を描いています。
「ターミネーター」は、人類が、人工知能を持ったスカイネットと言われるロボットによって攻撃され、人類絶滅の危機に瀕する事態となります。ターミネーターと呼ばれるアンドロイドが未来の抵抗軍に所属、又は抵抗軍に関係する存在を抹殺し『人類の歴史を終わらせる(terminate)』ために現在に送られ、人類側が抹殺から逃れるために死闘を繰り返すというものです。
SF映画ですが、未来を予感させるような要素もうかがい知れるかもしれません。
例えば、AIの発達により、現在の職業も随分様変わりすることが考えられます。アメリカや中国などではすでに自動運転による自動車の開発が行われていますし、AMAZONでは、ドローンと自動運転車を用いて無人配達を行う開発が行われています。
未来のこの社会がどのようになるかはまだ分かりませんが、明らかなことは、いつかこの世界も終わりを迎えるということを多くの人々は感じているのではないかと思います。この世界の自然法則によれば、先のレポートに記したように「エントロピー増大の法則」によってあらゆるものは次第に衰えていくものです。
しかし、この世界をお造りになった神によって、生命は新しい命を生み出し、私たちの細胞も日々新しくされ、神によって生かされて今日あるを得ているのです。私たちは、この世界のあらゆる生命は、神によって生まれ、神によって生かされていることを改めて覚えたいと思います。
この世界を創造し、この世界の歴史を始めるように導かれたのは神ですが、神はまた、罪にまみれたこの世界の終わり(決着)をもたらすお方でもあります。
時は満ち、神の国は近づいた
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。(マルコによる福音書1:15)
終末の希望・神の国の教えは、私たちにとっても非常に重要なものです。旧約聖書に記されている神の民も、初代教会のクリスチャンたちやその後の信仰をもって歩み通したクリスチャンたちも、この「神の国」の希望を持って、厳しい迫害の時をも乗り越えてきたのです。
聖書の歴史観は、初めがあって終わりに向かっていく、私たちの人生も一度限りの人生であるということです。バラモン教や一部の仏教が教えているように輪廻によって別のものに生まれ変わるということはありません。人生は一度限りなのですから、この人生を大切に生きることが求められています。
人生はよく旅に例えられます。中には行き先を調べないで旅に出かける人もいるかもしれませんが、通常、私たちは、旅に出る時行き先や目的を調べていくに違いありません。しかし、この人生の旅においては、この旅がいつまで続くのか分からず、自分がどこに向かってこの旅を続けているのかも分からない人が多いのです。もしもあなたがマラソンに出場することになってもゴールがどこにあるのか分からなかったらどうでしょうか。
どの方角に向かって走ったらいいのかさえ分かりません。人生は旅に例えられることが多いのですが、この人生の旅の目的も行き先も分からないままに暮らしている方がたくさんおられるように思われます。
人生という旅の目的や意味は、ムービングウォーク(動く歩道)の上に乗れば自動的に目的地に行けるというようなものではありません。棚から牡丹餅のように自然にやってくるというわけではなく、自分自身でこれを追求しなければならないものです。しかし、その答えが見つからないまま、それを求めることもしないで、ただ目先の暮らしだけにとらわれて一喜一憂しているという方も少なくないのかもしれません。
一度しかないこの人生を、真実に意味のあるものとするためには、諦めないで求め続けることが大切なのです。
神は、私たちが自分でこれを追求し、熱心に求めて、確かなものを見出すことを願っておられます。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(マタイによる福音書7:7)
人生の目的については、「人生の目的と意味を考える」という冊子がありますので、必要な方はご覧ください。
神は、聖書によって、私たちがどこからきて、どこに行くのかを教えてくださっています。今回のテーマは、私たちの人生のゴール、この人生において目指すべき到達点、「人はどこに行くのか 終末の希望」です。
イエス・キリストは、今から約2000年前にこの世に来られ、神の御子でありながら人としてその生涯を歩まれましたが、その生涯において私たちが目指すべきゴールを「神の国」という表現によって教えてくださいました。
狭い門から入りなさい
マタイによる福音書7章には、「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。」(マタイ7:13)と言われています。
広い門から入って滅びに至るものが多いと言われています。だからこそ、狭い門から入り、救い主キリストを信じて、「神の国(天国)」を目指して歩みなさいと言われました。ここで記すことは、特に、神が私たちの救い主として与えてくださった者がどこに行くのかということについてです。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネによる福音書3:16)
神の国(天国)とは
ギリシャ語では、「国」ということは、バシレイアであり、これはバシレウス(王)という言葉から作られていることからわかるように、神の国とはその根本の意味は、神の御支配ということです。マタイ福音書では天の国という言葉が使われていますが、天は神という言葉の代わりに用いただけで、意味は神の国と全く同じです。
そこで、神の御支配ということが旧約聖書ではどう記されているのかを見てみましょう。神の国というのが神の支配だとわかると、これは決して新約聖書で初めて現れるのでないことがわかります。
…初めに、神は天地を創造された。地は混沌として、闇は深淵の面にあり…。神は言われた、「光あれ!」 こうして光があった。(創世記1:1~3より)
この聖書の巻頭の言葉は広く知られています。これは単に昔のことを言っているのではありません。神が全世界、宇宙を支配されているという宣言なのです。宇宙を支配しているのでなかったら、宇宙のさまざまの天体を創造することはできません。また、闇が深淵の面にあって、強い風が吹き荒れているような状態のただなかに、光を創造して闇の支配を打ち砕くということの中にも神の支配が表わされています。
また、詩篇にはつぎのように、神が王として世界を支配されているということが記されています。
・王権は主にあり、主は国々を治められる。(詩篇22:29 )
・栄光に輝く王とは誰か。万軍の主、主こそ栄光に輝く王。(詩篇24:10)
・主は、全地に君臨される偉大な王…、神は全地の王、讃美を歌って、告げ知らせよ。神は諸国の上に王として君臨される。聖なる王座についておられる。(詩篇47編3~9より)
また、主イエスは、世の終わりの出来事に関連して次の個所から引用しておられます。
夜の幻をなお見ていると、見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り「日の老いたる者」(永遠に生きておられる者、神)の前に来て、そのもとに進み権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない。(ダニエル書7:13~14)
新約聖書では次のように言われています。…イエスは彼に言われた、「あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見る」(マタイ福音書26:64)
このように、ダニエル書の著者は、神によって、のちに神からその権威や力、支配を受ける永遠の存在者(イエス・キリスト)が人の子のようなすがたで現れるということを示されたのです。ここで預言者ダニエルがとくに強調しているのは、その人の子は、愛や憐れみといったこと以上に、神の権威と支配を受けるということ、しかもその支配が永遠であるということです。このダニエル書は、厳しい悪の支配、迫害の時代を背景として書かれたものでしたから、とくにそうした支配のことが前面に現れています。そうした悪の支配に打ち勝つ神の支配のことが啓示されたのです。
このように、旧約聖書でも最初から神の支配のことは一貫して語られています。神の国(支配)ということは、聖書の最初からの基本のテーマであることが分かります。
新約聖書における神の国
主イエスのたとえの中にも、天の国(支配)というのはよく出てきます。これらは、まさしく地上における神の御支配のなされ方を意味しています。
…イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていない」(マタイ13:11)
主イエスが語られた天の国とは、死後の世界ばかりでなく、悪がはびこっているこの地上での御支配のなさり方を意味しています。「毒麦のたとえ」(マタイ13:36~43)では、悪をただちに滅ぼさないで、あえてそのままおいてあります。それはよい麦をも刈り取ってしまう危険性があり、神の定めた時(世の終わり)に初めてそうした悪そのものが、滅ぼされるということです。そのようになさるのが、この世界を創造された神の御支配のなさり方なのです。
アダムとエバが創造されたとき、堕落した天使である悪魔が彼らを誘惑して、人間は罪を犯してしまいました。神はその時悪魔を滅ぼしてしまえばよかったのにと思われる方もあるかもしれません。しかし、そうなれば悪魔を滅ぼすだけではなく、罪を犯した人類をも滅ぼさなければならなくなるのです。ある意味ではこの世界は毒麦だらけの世界になってしまいましたが、神は忍耐深く人類を守り、救いの計画を実現し、終わりの時にさばきとともに救いの御業を完成してくださるのです。
…イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」(マタイ福音書13:11~32)
神の御支配は、わずかなもの、小さなとるに足らないようなものから始められます。真理の種というべきものが人の心に播かれるとき、それは神を求めようともせず、罪を心に宿した人、弱い人、地位のないような人、病気などで死にかかっているような人であって、世の中ではまったく相手にされないような者であっても、そのような小さきものを用い、そこから始めて人間がだれも予想できないような姿へと人々を新しくしてくださいます。イエス・キリストによる罪の贖いはそのような力を持っているのです。
…天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。(マタイ福音書13:44~46)
ここには、天の国がどれほど価値のあるものであるかが示されています。それはこの世のあらゆる地位や財産、名誉などには比べることが出来ません。それは永遠の命という価値を持つものです。この価値が分かる人は、他の何物をも差し置いて、まず神の国を手に入れたいと思うのです。
また、神の国とはどのようなものであるか、主イエスは次のようにも言われました。
…人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。
実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ福音書17:20~21)
主イエスがこの世に来られた当時、イスラエルはローマ帝国の支配のもとに置かれており、ユダヤ人たちは、かつてダビデ王が治めていた時のように、ローマ帝国という異教の人間の支配をくつがえして、イスラエルを解放し、神の王国を打ち立ててくださることを待ち望んでいました。世の終わりの時には救いの完成の時がもたらされますが、神の国とはそうした未来の出来事だけを示すのではない、神の御支配は、あなた方の生活のただ中にすでにあるということを教えてくださったのです。
霊的な目をもって見るならば、神の新しい支配はキリストとともにすでに来ていることが分かります。また、この言葉は、「神の国はあなた方の内にある」と訳することも出来ます。この場合には、私たちの内に、神の国はあるということになります。このような神の御支配は、主イエスの力によって悪の霊を追いだして頂くことによって私たちのところに来ているのです。
…わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。(ルカ福音書11:20)
神の国は、神の支配を表すものですが、それは、私が何に支配されてこの世に生きているのか、生かされているかということでもあるのです。このことが、この世の生を超えて、永遠の命へと続いていくのです。従って、私たちの切なる願いは、神の国が来ますように、神の見えざる御手によって神の国を来たらせたまえということになります。
主イエスは、まず神の国と神の義を求めよと言われました。そしてそれらは求めるなら必ず与えられると約束してくださいました。神は真実なお方です。神の真実とは、約束したことは必ずかなえられるということです。求めよ、そうすれば与えられるという有名な言葉もそれを意味しています。
ルカ福音書では、求めよ、そうすれば与えられるという言葉の後で、必ず与えられるのは、聖霊であると記されています。
そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。・・・このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。(ルカ福音書11:9~13)
このように、主イエスは、わかりやすいたとえをもって、求めたら必ず与えられるということを強調しています。このように、神の国をまず求めよといわれた主イエスが、信じて求める者には必ず聖霊が与えられると言われていることからも、神の国は聖霊と同じものを意味しているということがわかります。
こうした点からも、神の国とは今求めたら与えられるものなのです。
神の国は、私たちが、今どのような境遇や窮乏の中にあろうと、過去に大きな罪を犯した者であろうと、砕かれ、神により頼む心で求めたら与えられる賜物なのです。
…「心の貧しい人々は、幸いである、
天の国(神の国)はその人たちのものである。(マタイ福音書5:3)
神の国が心貧しき者に与えられるとはどんな意味でしょうか。それは神の御支配そのものが与えられることであり、神の御支配のうちにある恵みと幸いが与えられることです。聖霊が与えられることであり、主イエスご自身があなたのうちに宿ってくださるということです。
これこそは、この世で与えられる最高のものであり、最もゆたかなる賜物です。
神の国が与えられるとき、私たちは悪に打ち倒されないで、立ち上がる力が与えられ、御国へと歩み続けることができるようになるのです。
…ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。
小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。(ルカ福音書12:31~32)
神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びである。(ローマの信徒への手紙14:17)
神の国とは、このようにすでにイエス・キリストを信じる者のただ中に与えられています。神の御支配は私たちのこの悪に満ちたように見える世界のただ中に行われているのです。これは主イエスがこの世界に来られてからそれが全世界の無数の人々によってはっきりと自覚されるようになりました。
未来に与えられる神の国
神の国は未来において完全に実現されるものでもあります。今は悪が多く支配しているように見えるこの世ですが、霊の目で見るときには今も神の御支配はなされている。
さらに、将来において完全に神が支配されるときが来るのです。
…人の子が力と栄光をもって、天の雲に乗って来るのを見る。
…人の子は思いがけないときに来る。(マタイ福音書25章より)
人の子とは、イエス・キリストのことであり、未来のある時にキリストが、神の力をもって来るといわれています。そしてその時にすべての悪が裁かれて、究極的な神の国が実現するのです。世の終わりに起こることが詳細に記されているのはヨハネの黙示録ですが、旧約聖書の小預言書などにもこのことに関しての預言が多く記されています。
ヨハネの黙示録は、迫害の時代に書かれました。そして迫害を受けるということは、実に苦しい時です。悪が謎のように力を振るい、弱い人々を捕らえて殺し、残酷な刑罰を与えられました。キリスト者たちもライオンの餌食にされたり、道路の横に十字架を並べ、そこで火を燃やして苦しめられたこともありました。
このような、考えられないようなひどい悪の支配に苦しめられた者にとって、最大の願いは、神の御支配によって、そのような悪が一掃され、悪の根が断たれるということです。黙示録は神の支配がいかに、悪の支配よりも強いかということ、そして確実に、やがて神の支配が実現するということが語られています。
初代教会のクリスチャンたちは、厳しい迫害のさなかにありながらも、やがて神の国が実現するという希望を持って、困難の時を絶え凌いだのです。
…わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。
そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示録21:1~4)
ヨハネの黙示録において長い啓示が終わるとき、その最後にヨハネが書き記したのは、今私たちが暮らしている最初の天と最初の地は去っていき、新しい天と新しい地に私たちが迎え入れられるのを見るのです。
このように、未来のいつか神が定めたとき、そのときは人の子も知らないと、地上に生きておられたときの主イエスが言われたほど、人間には分からないことです。それがいつ来るのかだけでなく、どんな形で来るのかも全くわかりませんが、神は、この聖書によって教えてくださいましたから、このような神の国と言われている新しい世界が必ず来ることをキリスト者は信じているのです。
それは完全な神の支配が実現した時、救いが完成した時の姿です。「神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
聖書の最後の部分は、そのような究極的な神の国が来るようにとの願いと祈りで終わっています。
主イエスよ、来て下さい!(黙示録22:20)
世の終わりの7つの前兆
主イエスは、世の終わりが近づいたことの前兆として、マタイによる福音書24章において7つのことをお語りになりました。
24章で、主イエスは、紀元70年のエルサレム神殿の崩壊を預言しました(1~2節)。
「イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。そこで、イエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」(1~2節)
これは紀元66年に始まったユダヤ人たちによるローマ帝国への反乱の結果として起こりました。この戦いによって60万人以上の死者と、それを上回る人々が捕虜として連れ去られました。エルサレムの神殿もローマ軍によって跡形もなく崩されてしまいます。この神殿は高さが50メートルあり、3種類の大理石が使われ、金の装飾が施されていました。この神殿はユダヤ人たちの誇りであり、イスラエルの象徴であったに違いありません。弟子たちは大きな石を切り出して造った頑強で壮麗な神殿が、がれきの山と化する話を聞いて、世の終わりの出来事のように思ったのかもしれません。
また弟子たちは、イエスさまの再び天からお出でになる降臨について聞きました。
「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」(24章3節)。
この質問に対して主イエスは、世の終わりが近づく時、どのようなことが起こるのか。そして私たちはそれに対してどのように備えていけばよいのかということをお語りになりました。
1)「にせキリストの出現」(4,5節)。
「イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。」(マタイ24:4~5)
偽メシヤ、にせの救い主が出現すると言われています。これまでの歴史においても偽メシヤはたくさん現れました。使徒言行録8章には、さっそく、「この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ」と言われる偽メシヤ・シモンが登場してきます。紀元二世紀には、シメオン・バル・コセバがメシヤの名乗りをあげ、ユダヤで独立戦争を起こしています。七世紀初頭には、ムハンマドがイエスより偉大な預言者と称して、イスラム教を起こしました。その後もメシヤを自称する者たちによって、次々と宗教団体が作られてきています。キリスト教の異端、カルト宗教もたくさん生み出されてきました。
主イエスは、「人に惑わされないように気をつけなさい」と警告を与えておられます。奇跡、その他の不思議を見せたとしても、惑わされてはならない(第二テサロニケ2章9節)のです。
2)「戦争と戦争のうわさ」(6,7節前半)。
「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。」(マタイ24章6節)
この世界の歴史は戦争の歴史と言ってもよいほど、人口が激減することになるような戦争が繰り返し起きています。しかも時代が進むにつれてその規模は大きくなり、人類は大量破壊兵器を持つようになってきています。近年では第1次、第2次世界大戦が起こり、1991年には湾岸戦争、2001年にはニューヨーク世界貿易ビルへの旅客機自爆テロがありました。その後イラク戦争、ISによるテロなど各地で内紛が起きています。
3)「ききん」(7節後半)。
「方々に飢饉が起こる。」(マタイ24:7)
使徒11章28節には、クラウデオ皇帝の時代、紀元50年前後に大ききんが起こったことが記されています。現代ではアフリカなどでのききんの情報を良く耳にします。世界では食べものがなくて2秒に一人の割合で亡くなっているという実態が続いています。ききんの原因は、異常気象、天変地異、国際紛争、国益から来る食糧操作等、原因は複雑になっています。
日本で至上最大級の死者を出したのは「天明の飢饉」でした(1782~1785)。天明2年(1782年)から天候不順がすすんでいましたが、翌天明3年になって冷害、長雨、洪水がつづき、春から晴天の日がほとんどなく、夏でも冬の着物が必要なほどの寒さだったといいます。さらに天明3年7月には浅間山の大噴火による降灰で田畑が埋まって被害が拡大しました。
とりわけ北関東、東北地方が悲惨でした。盛岡藩(南部藩)では全人口35万人のうち餓死者、病死者が6万人以上、弘前藩では10数万人以上も出たとされます。ひどいところでは犬、猫はもちろん餓死者の人肉までも、食べられるものをすべて食べ尽くしてもなお餓死する者が相次ぎ、道端には行き倒れた者の遺骸や骨が累々と重なっていたといわれています。
4)「地震」(7節の後半)。
「方々に地震が起こる。」(マタイ24:7)
日本は地震大国ですが、日本は断層の上に乗っかっているので、度々地震が起きています。近年では、1923年に起こった関東地震、2000年に起こった十勝沖地震、1995年に起こった兵庫県南部地震、2011年に起こった東日本大震災などがあります。世界を見ても、2004年に起こったインドネシアスマトラ地震、2008年に起こった四川大地震、2010年に起こったチリ中部大地震などがあります。
さらに今後も、予想される大地震として、南海トラフ地震、首都直下型地震、日本海溝・千島海溝での地震、東海地震などが高い確率で起こることが予想されています。
5)「迫害」(9節)。
そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。(マタイ24:9)
迫害については、初代の教会が、初めはユダヤ人たちによって、続いてローマ帝国によって激しい迫害を受けました。日本でも、キリシタンや30年戦争が続いた時代のクリスチャンたちは厳しい迫害を受けました。
教会やクリスチャンに対する迫害については、「正確な情報こそ必要3」に記しました。今日でも厳しい迫害化にある教会があります。特に、共産主義の国々やイスラム教の国々などでは、信教の自由が認められず、独裁的な国家のもとでの生活を余儀なくされています。2016年の統計では2億1500万人のクリスチャンが迫害されました。
6)「教会の背教と腐敗」(10~12節)。
そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。
10節では、キリスト者同志の対立がひどくなることが述べられています。ほんの一例を挙げると、17世紀のこと、プロテスタントとカトリックの対立抗争で始まった三十年戦争で大ぜいの人々が命を落としました。日本では、日本の教会が朝鮮侵略を聖戦と位置付け、日本キリスト教団の統理が、朝鮮の教会やクリスチャンに対して、朝鮮神宮を礼拝し戦争に協力するよう勧告したこともありました。日本の教会は朝鮮の教会やクリスチャンを迫害に追い込むことにもなりました。
私たちは、聖書は客観的に誤りのない神のことばであるという古代教会から続く信仰を曲げてはなりません。たとい他の教会がどうであっても。みことばに立つ教会を目指してまいりましょう。
世の終わりはノアの時代の堕落の様相を呈してきて、腐敗と堕落が進み、残念ながら神を信じるという者たちも周囲に染まっていくようになります。以前は、キリスト教国と言われていた国々では、特に若い世代の人たちが教会を離れていく傾向が顕著に表れているそうです。ノアのように、本当の意味で神に従おうとする者には信仰の戦いが求められることも起きてくるでしょう。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます」(13節)と主は言われます。周囲に負けない忍耐が大事であるということが伝わってきます。
7)「全世界への福音宣教」(14節)。
「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」(マタイ24:14)
言うまでもないことですが、初代教会の時代には、ローマ帝国のかなり広い範囲にまで福音が伝えられていきました。また、トマスやバルトロマイ等によってインドや中国にも、あるいは日本にも福音は伝えられていきましたが、それでもまだ全世界とはいえませんでした。しかし、今や、全世界に伝えられていると言えるでしょう。2012年12月現在で全世界の聖書翻訳言語の総数は2012年12月31日現在で2,551言語となっています。ほとんどすべての民族、部族に伝えられていると言ってもよいでしょう。
教会の使命はすべての国民に福音を伝えることにあります。世界の各宣教団は、この節で言われている全世界への福音宣教や、マタイ28章、マルコ16章にある大宣教命令に従って、宣教を続けています。
以上、世の終わりの前兆と言われる出来事を見てきました。これを現代に当てはめてみるならば、すでにその前兆は明らかであり世の終わりは近いことが分かります。主イエスは、「そのようなことは、産みの苦しみの初めなのです」(マタイ24章8節)と言っておられます。これはユダヤ人的表現で、ユダヤ人は、これまでの時代が終わってメシヤ時代に移る過程を出産にたとえ、その時に起こる苦痛を「メシヤの陣痛」と呼んでいました。それはメシヤに君臨する者が味わわなければならない苦痛ですが、またそれは神の民もともに味わわなければならない苦痛でした。主イエスは、そうしたことを背景に、新しい世界への胎動を「産みの苦しみ」と呼ばれたのです。
キリストの再臨
キリストが再臨される第一の目的は、世界の悪に終止符を打つためです。
終末の時代になると、罪に染まったこの世界は自己の持つ多くの矛盾のゆえに、様々な面で“末期症状“を呈するようになります。悪は栄え、人類はかつてないほどの苦難と痛みの時を迎えるでしょう。先に記したように、惑わす者が現れ、地震や飢饉が起こり、各地に戦争が起こります。そして世界中に福音が伝えられるようになった後に、キリストはその人類の悪に終止符を打つために、再臨されるのです。
キリストの再臨は、人類の希望です。それまでの歴史において、人類はより良き社会を建設するために様々な努力を重ねてきました。
憲法の97条には基本的人権について次のように記されています。
「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、 これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
今日、この憲法に記されている「基本的人権の尊重」という教えは、長い人類の歴史の中で、特に、聖書が教えている人権の思想を具現しようとする人々の戦いの中で生まれてきたものです。こうした歴史の中にも神の導きがあったに違いありません。
けれども、人間は根本的な「罪」という問題を自らの力で克服することは出来ませんでした。それどころか、先の前兆のところに記したように、この世界はますます終末期の様相を呈するようになってきているのです。
1)キリストは見える姿で地上に来られます
マタイによる福音書24章30節には、「そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。」と言われています。知らないうちに来ていたというのではなく、誰もが分かるように、見える形で来られるのです。
2)雲に乗って天から降りて来られます
マタイによる福音書26章64節には、「イエスは言われた。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。」と言われています。
また、主イエスは、かつて弟子たちが見ている中天に昇って行かれましたが、「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(使徒言行録1章11節)と言われています。
「雲に乗って」というと、私たちは孫悟空を思い浮かべるかもしれません。しかし、「雲の上に座して」「雲の中に」「雲に包まれて」「雲と共に」「雲を伴って」という聖書が描いているイメージは、「雲に乗って」というイメージよりは、神の栄光に包まれてというイメージを思い浮かべていただくとよいと思います。
3)天の軍勢と共に地上に来られます
ヨハネの黙示録には、「天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い麻の布をまとってこの方に従っていた。」(ヨハネの黙示録19:14)と言われています。「この方」と約束されているのはイエス・キリストのことです。キリストの再臨の時には、「天の軍勢」もキリストに従ってやってくるのです。
ヨハネの黙示録19章11節以下において、イエス・キリストは次のように表されています。
だれもこの方に太刀打ちできる者はいません。サタンと言われる悪魔も、それに従う悪霊も、それに従う反キリストの軍勢も、この天の軍勢を率いる方によって完全に敗北させられるのです。
ヨハネの黙示録20章には、死も火の池に投げられることが記されています。「海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。」(ヨハネの黙示録20:13~15)
こうして人々の命を傷つけたり、殺したり、様々な悪を行ってきたあらゆるものが、イエス・キリストによってうち滅ぼされる時が来るのです。
救いの完成
この世界の歴史は、神による創造→堕落→キリストの初臨による罪の贖い→キリストの再臨による救いの完成へと続いていきます。
キリストが再臨される第二の目的は、救いの約束を成就し、救いを完成させるためです。特にヨハネによる福音書において主イエスは、何度も「信じる者に永遠の命を与える」と約束してくださいました。
「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3:15~16)
聖書に示された救いの歴史
救済史における神の国
先に、「神の国」について記しましたが、永遠の命とは神の国であると言ってもよいのです。さらに分かりやすく言うならば、イエス・キリストによって罪を贖われた私たちが、神の家に子供として永遠に迎え入れられることです。
この世においては、王子様のようなところで暮らしたかったなどと思う人もあるかもしれません。神の国は歴史から切り離された単なる神学的概念や理念ではありません。それは旧約時代の聖徒たちによって待ち望まれ、イエス・キリストの受肉によって到来し、今も教会を通して拡大し、やがて世の終わりに完成する、ダイナミックな歴史的現実なのです。
「福音」とは単なる抽象的な「罪の赦し」のメッセージではありません。聖書の教える罪の赦しは、二千年前に地上を歩まれ、十字架にかかって死なれ、復活されたナザレのイエスという歴史上の人物、さらにその背景にあるイスラエルの歴史を離れては本当の意味で理解することはできません。しかも聖書はキリストの復活以降の教会の歴史、さらには世の終わりについても語っています。
現代の私たちも、このような現在進行中の救いの歴史(救済史)のただ中に生かされているのです。神の国とは、このような神の歴史的みわざの中で現されてきた神の支配のことです。
このような救済史における神の国の理解は、私たちの信仰生活を大局的な視野から見る必要を教えてくれます。私たちはとかく、自分の信仰生活を個人主義的な視点でのみ捉えがちです。「私の救い」「私の祝福」「私の問題解決」が私たちの主な関心事となってしまうのです。「今のことだけ」、「自分さえよければいい」という思いに陥ってしまうこともあるかもしれません。しかし、そこからさらに視野を広げて、天地創造から始まる壮大な神の救いの物語(ドラマ)に私たちも参加しているという意識を持っていくなら、私たちは自分の祝福を願うばかりでなく、神が歴史の中で教会を通して成し遂げようとされるご計画の中で、この私がどのように用いていただけるかを考えるようになるのではないでしょうか。
神の国は、神を神として、神と共に歩むことです
一人しか臣下のいない王などありえないように、神の王としての支配も、ご自身に仕える神の民の存在が前提とされています。十戒の第一の戒めが、「あなたはわたしのほか何者をも神としてはならない」と言われているように、神の国は何よりも(まことの)神を神とする世界です。神が私たちを創造された目的は、私たちがこの神によって生かされ、神と共に愛の世界を実現し、神の栄光を現わす世界に生きることにあります。
神が度々イスラエルに言われたことは、「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」ということでした。神がともにいてくださるということは、私たちにとってどれほど大きな慰め、励ましとなることでしょう。旧約聖書の歴史は、神が約束なさったことは必ず実現することであり、神は罪を犯し続けるような人類を見捨てることなく、その約束を実現してくださるということです(イザヤ書52章7節など)。新約聖書においては、この歴史は、さらに確実性と具体性をもって、この方がイエス・キリストにおいて明らかに実現されてきたことを教えています。
「既に」、と「未だ」という時代に生かされている私たち
聖書の教える福音とは、単なる「この私が死後天国へ行くための保証」ではありません。それは、今まで神から離れてそれぞれ自分勝手に生きていた人々が、神の民(教会)を通して一つになり、この地上に拡大していく神の支配に参加することができるようになる、という意味での「良い知らせ」なのです。
約束に基づいてきてくださったイエス・キリストの受肉と生涯、受難と復活を通して、神の国は「既に」到来し、今も教会を通して拡大し続けています。しかし、最終的な神の国の完成、神の支配の完全な現れを見るには、将来の再臨を待たなければなりません。その意味では、神の国は「未だ」到来していないのです。この、「既に」と「未だ」の間にある時代に私たちは生かされています。
主イエスは、中風のために歩くことも立つことも出来なかった人に「イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。」(ルカによる福音書5:20)と言われました。これは「既に」彼が信仰によってその罪を赦されたことが記されています。
また、フィリピの信徒への手紙3章8節の終わりから9節にかけて、「キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです」とありますが、「認められるため」とありますから、これは「未だ」ということです。このように、パウロは既に得たのではない、いまだ私は途上にある存在なのだということを語っています。さらに読み進んでいくならば、同じ9節に「私には、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」と語っていますが、これは「既に」得ていることです。イエス・キリストを私の救い主と信じている者は信仰によってすでに義とされているということです。
さらに、10-11節には、「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」と言われています。これは「未だ」ということについて記していることです。
次の12節はどうでしょうか。「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」と書かれています。ここでは、「既にといまだ」の二つのことが語られています。「既に」にあたるところは後半の部分「自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」といわれています。私たちが自分で捉えているように見えるかもしれませんが、実際には神によって既に捉えられているというその事実がそこにあります。今すでにキリストに捕らえられている。すでにキリストによる義をいただいた者でありつつ、「何とかして捕らえようと努めているのです」と言っているのです。キリストの再臨を待望しつつ、その希望を持って今を生きるのです。
パウロだけではありません。私たちにも「既に」という確固たる約束が与えられ、すでに実現されたキリストの生涯と十字架の死と復活のゆえに信仰を与えられ、罪を赦され、義と認められ、神の子供とされて、キリストに捕らえられている私たちです。私たちの国籍はすでに天にあるのです。しかし、同時にそれは「いまだ」完成された神の国に住んでいるわけではありません。内外にある罪との信仰の戦いをもって神に従うために、「何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」
イエス・キリストへの信仰をもって生きる者は、このように「天の都」(神の国)を待望しつつ、今を生きる者なのです。
11:13 この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。
11:14 このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。
11:15 もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。
11:16 ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。
ヘブライ人への手紙11章13節~16節