日本キリスト改革派教会 創立70周年記念宣言
(序言)
わたしたち日本キリスト改革派教会は、創立七〇周年を迎えるにあたり、ここに「福音に生きる教会」と「善き生活」の宣言を公にする。この宣言は、七〇年間にわたってわたしたちの教会に注がれた神の憐れみと恵みへの応答であり、悔い改めと献身の思いをもって、ここから新たに歩み出すわたしたちの決意の表明である。
宗教改革五〇〇周年を控えたこの時、わたしたちは改めて主イエス・キリストの福音の原点に立ち返る。キリストの福音こそ、信じる者すべてに救いをもたらす神の力である。この純正なる福音に基づく信仰告白と教会政治と善き生活とを備える一つの見える教会を具現することが、創立以来のわが教会の使命である。わたしたちは、この使命を現代にあって遂行すべく、自らの在り方を根本的に問い直し改革することをここに表明する。
教会をとりまく状況はいよいよ激しく変化している。地球規模で繰り広げられる経済活動や通信手段の革命的進歩の一方、同じく地球規模で進行する環境破壊や貧困の問題、世界各地で勃発する戦争や紛争は止むことがない。国内に目を向けても、旧日本への回帰と平和憲法の危機、自由の剥奪と人権の侵害、弱肉強食的競争の加速と格差の拡大、職場や教育環境の悪化、高齢化社会と家庭の崩壊、心病む人々や自死者の急増等、生きて行くことさえままならない現実がそこにある。とりわけ二〇一一年に起こった東日本大震災と原発事故は、それまで隠蔽されていたこの国と社会の深層を明るみに出すと同時に、命の犠牲の上に築いてきた近代文明社会の在り方そのものを根本的に問う出来事となった。
このような激動の社会にありながら、わたしたちの教会は自らの罪と弱さの故に本来の務めを果たしえず、伝道の不振と教勢の減少、さらには献げ物の不十分な管理や教師たちの不祥事等によって主を悲しませたことを、わたしたちは率直に告白し主の赦しを乞う。
それにもかかわらず、敗戦焦土の中から創立されたわが日本キリスト改革派教会には、なおもこの国において果たすべき責任と使命があることを信ずる。わたしたちが寄り頼むべきは、自らの力でもこの世の力でもなく「わたしはすでに世に勝っている」と仰せになる方の福音の力だからである。
わたしたちは弱さの中でこそ発揮されるキリストの力に信頼しつつ、この世のいかなる罪の暗黒にも光をもたらす福音宣教に邁進し、御言葉の正しい理解に立ちつつ、この国に国家の干渉によらない自律的かつ福音的な教会を樹立するための戦いに献身することを決意する。教会に真に伝道的な体質を回復し、権威主義や律法主義によらない、福音の喜びあふれる共同体を形成することをここに誓う。「神よ願わくば汝(なんじ)の栄光を仰(あお)がしめ給え。我等与えられし一切を汝に捧ぐれば、汝のみを我等の神、我等の希望と仰がせ給え。汝が既に我等の衷に肇め給いし大いなる聖業(みわざ)を完遂せしめ給え。アーメン。」(創立宣言より)
主の二〇一六年五月三日
日本キリスト改革派教会・
創立七〇周年記念信徒大会福音に生きる教会
(命の福音)
主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられるように。神は豊かな憐れみにより、キリストの十字架によってわたしたちの罪を完全に赦し、その復活によって生ける望みを与えてくださった。ただ信仰によってキリストと結ばれたわたしたちは、今やあらゆる恐れと不安から永遠に解き放たれ、喜びと自由の生へと招き入れられた。
これこそがキリストの福音であり、わたしたちの命である。主が再び来りたもう時に至るまで、この命と救いの福音を世に宣べ伝え、身をもって証しすることこそ、教会の使命である。(礼拝の生命であるキリスト)
福音に生きる教会の生命は礼拝にあり、礼拝の生命はキリストにある。慰めと喜びに満ちた福音の説教と聖礼典を通して、キリストは教会に臨在される。このキリストの恵みを信仰によって豊かに受けることにより、キリストの命はわたしたちの命となる。
礼拝を通して主の福音が現される教会は、いかに小さな群れであろうとも、主が共にいます天の御国を具現する。愛する兄弟姉妹たちと共に主の御声を聴き、共に主の祝宴にあずかることこそ、喜びに満ちた御国の前味である。(母なる教会)
福音に生きる教会は、父なる神によって召し集められる神の家族であり、御子と御霊の恵みあふれる母なる教会である。
この曲がった時代から主の招きに応えて救われる者は誰であれ、キリストにあって罪赦されて神の子とされ、教会のうちに憩い、母のふところで養われるようにキリストの命に生涯育まれて成長する。
キリストにあっては、人種も身分も世代の違いもなく、男も女もない。わたしたちは皆、キリスト・イエスに結ばれて一つだからである。(牧会的共同体)
福音に生きる教会は、キリストの命が通う一つの体であり、互いに配慮しいたわり合う牧会的共同体である。一つの部分が苦しめば全体が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば全体が共に喜ぶ。
キリストの体では弱い部分・見劣りのする部分こそが必要とされ、重んじられる。それは、体に分裂が起こらず、各部分が互いに愛の配慮をもって生きるためである。弱さの中に働く神の恵みの力を世に証することに、教会の光栄と喜びがある。(福音的教会の奉仕者)
真の羊飼いであるキリストは、御自分の群れを世の終わりまで保ち成長させるため、御自身の働きを担う奉仕者をお立てになった。キリストの福音の純粋性と教会の聖性とは、教会の法的統治によって守られ、健やかに保たれる。
キリストのしもべとしての役員は、各々の召しと賜物に応じて力を合わせて共に働き、主の模範にならって愛をもって奉仕する。福音に生きる教会の役員の権威は、仕える権威であって支配する権威ではないからである。
教会役員もまた弱さと傷を抱える羊であり、羊飼いの癒しを必要としていることを忘れてはならない。祈りのうちに選ばれた奉仕者たちを、主が御自身の栄光のために豊かに用いて祝福してくださることを信じ、彼らのために彼らと共に祈ろう。(福音の宣教と協働)
真の羊飼いであるキリストは、あらゆる人を命の福音へと招いておられる。神の目にはすべての人が高価で尊い。わたしたちは世の人々に対して大きく扉を開き、教会に閉じこもることなく、広くこの世に福音の光を満たしていこう。
一人一人の魂に寄り添い、失われた者を尋ね求め、追われた者を連れ戻し、傷ついた者を包み、弱った者を強くするキリストの牧会的宣教こそ、主の教会が担うべき働きだからである。
すべての人への福音宣教は、一教会で担うことができない。わたしたちは自らの信仰の確信に堅く立ちつつも、国内諸教派との対話と交流、外国教会との連帯と協力に努め、各々に与えられた使命と賜物の多様性とを尊重しつつ、地の果てに至るまで神の国の進展のために力を合わせて共に働く。(世に仕える教会)
この世界はなお産みの苦しみの中にあり、罪と悲惨に覆われている。主の教会もまた激しい試練と迫害とを避けられない。それにもかかわらず、勝利者キリストがおられるが故に、わたしたちは希望を失わない。
十字架の福音に生きる教会は、自ら十字架のしるしを帯びつつ歩む。わたしたちは善をもって悪に打ち勝ち、主がしもべとなって世に仕えられたように、苦しむ人々と共に歩み、共にうめき、彼らのために執り成し祈る。愛をもって仕える業(ディアコニア)は、福音に生きる教会の本質をなすからである。
平和の福音に生きる教会は、思想・信条・宗教の違いを超えてすべての人を尊び、この世における正義と平和の実現のために彼らと共に働き、自ら進んで良き隣人となって世に仕える。また、暴力的な支配や戦争、平和に生きる権利と良心の自由とを侵害する国家的干渉に対しては、主の御心を大胆に宣言して否と言う。(悔い改めと祈り)
福音に生きる教会は、絶えず改革され続ける教会である。終わりの日に至るまで、わたしたちは、福音の光を覆い隠すわたしたち自身の罪と弱さを自らに問いつつ、霊的戦いを戦い続けねばならない。
わたしたちは―
いつしか内向きになり、大胆に福音を証しする熱心を失ってはいないか。
福音の喜びを与えるよりは重荷を負わせる礼拝になってはいないか。
力ある者を重んじて、弱い者への配慮を怠ってはいないか。
仕えるよりは仕えられることに慣れ、主の謙遜の模範を忘れてはいないか。
世の人々を愛するよりは無関心になり、平和の道を自ら閉ざしてはいないか。
主よ、われらを憐れみ、われらを聖霊で満たしたまえ。(完成の日を目指して)
〝主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返される〟
これこそキリストの福音がもたらす神の国の秩序である。わたしたちは終わりの日に実現するこの恵みと命の秩序を、今すでにこの世において先取りする。
神の国にこそ、世界と人間の真の幸いがあり、命の輝きがある!
― わたしたちは、この闇の世に、御国の光を放つ教会を築いていこう。
教会の頭なるキリストは、すでに世に勝利しておられる!
― キリストの体につらなるわたしたちも、キリストの道を歩んでいこう。
終わりの日に、主の教会がまとう輝く衣とは、聖徒たちの善き生活なのだから。善き生活
(キリストにならって)
福音に生きる善き生活とは、命の道をキリストにあって歩むことである。
罪の支配から解放されて、生きるにも死ぬにもキリストのものとされたわたしたちは、命の御霊によって新しく創造され、御子キリストが歩まれたように、御父の心を生きる。(命の道)
御父の心そのものである神の掟は、人を真に生かす命の道であり、造り主の愛の意志である。
キリストによって神の驚くべき恵みの契約へと入れられたわたしたちは、この命の道を、神の子どもとして、強いられてではなく、ただ感謝と喜びの心から、全く自由に歩んでいこう。
生きる喜びが失われたこの世界で、福音としての生活を回復し、この世に祝福をもたらす生活を生きることこそ、神の子らの特権であり使命だからである。一.「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」
「何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」
自らを人生の中心としたことが人間の堕落の始まりであった。それ故、真の神を全生活の中心とすることが人間再生の第一歩である。
わたしたちは、父・子・聖霊の神のみを神として崇め、この神の栄光を現し、神ではないものを恐れることなく、真の自由を生きていこう。
それ故、わたしたちは、被造物にすぎないものを神とする偶像崇拝や、わたしたちの心を縛ろうとするこの世の力や世俗主義に、主の御言葉への聴従と祈祷をもって抵抗する。二.「あなたはいかなる像も造ってはならない」
「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」
神は霊であられる。主の臨在を鮮やかに示す福音的説教と礼典が生き生きと行われる礼拝に、偶像が入り込む余地はない。
わたしたちは、形だけの礼拝や自己満足的な生活に安住することなく、むしろ自分自身を主に献げ、隣人を愛する生活によって主に仕えよう。
愛の神を永遠に喜び、主の正義を表すことが礼拝的人生だからである。三.「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」
「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」
「悩みの日にわたしを呼べ」と主は言われる。わたしたちがいかなる時でも御名を呼び求めることができるように、主は御自身を現してくださった。
わたしたち一人一人を愛してやまない方を、わたしたちもまた慕い求め、主の御名を大胆に告白して恥じない勇気と信仰とを祈り願おう。
それ故、わたしたちは、主の御名を軽々しく用いること、まして自らを権威づけるために御名を濫用することを戒める。四.「安息日を心に留め、これを聖別せよ」
「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」
罪の世界で傷つき倒れるわたしたちを「休ませてあげよう」と主イエスは招いてくださる。日々の仕事に忙殺され、生きる意味さえ見失う者にとって、主の家で憩うことこそ真の安息である。
わたしたちは、「主の日」の安息のリズムを魂と体に刻み込み、永遠の安息に至るまで、この日の恵みを喜び祝い続けよう。
それ故、わたしたちは、万物と人とを酷使し続ける現代社会に警鐘を鳴らし、命を育む神の安息の回復に努める。五.「あなたの父母を敬え」
「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい」
すべての人が平安のうちに守られて暮らすために、神はこの世界に秩序と仕組みとを与えてくださった。
わたしたちは、主の模範にならって従順な生活を営み、天の御父の深い御旨と摂理とによって与えられた親を敬い、高齢者をいたわり、主の恵みを次代へと継承する家庭と教会の形成に励んでいこう。
それ故、わたしたちは、人々の命と平安とをおびやかす人間的権威や支配には隷属しない。人に従うよりは、神に従うべきである。六.「殺してはならない」
「キリストは…、十字架によって敵意を滅ぼされました」
命はすべて神のものである。消え入りそうな人の命を救い、万物を更新するために主は来臨された。生きとし生けるものはみな、神の愛によってこそ光り輝く。
わたしたちは、主の十字架の愛にうながされ、この世にあふれる憎しみの連鎖を断ち切って平和を造り出し、命の喜びがみなぎる世界の回復に参与しよう。
それ故、わたしたちは、命への畏れと愛とを見失い、暴力的かつ破壊的な世界を造り出そうとするあらゆる企てには手を貸さない。七.「姦淫してはならない」
「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿…なのです」
神から与えられた性は、地上を生きるわたしたちの喜びであり祝福である。各々の性が尊ばれ、互いに助け合うことによって神の栄光は現される。この破れた世界において、姦淫や不品行の罪、結婚関係の破(は)綻(たん)や家庭の崩壊がもたらす傷は深く重い。それにもかかわらず、キリストによって赦されない罪はなく、癒されない傷もない。
それ故、わたしたちは、自分や他人の体と魂をおとしめる思いや行いから遠ざかり、信仰と悔い改めの中で、神の愛の高みへと成長できるように祈り求めよう。八.「盗んではならない」
「受けるよりは与える方が幸いである」
神は、この世界が豊かに保たれるため、労働とその実りの管理とを、御心にしたがって一人一人に委ねられる。
わたしたちは、与えられた分を感謝して喜び楽しみつつ、それを神の栄光と隣人の益のために積極的に用いていこう。貧しい者の友となられた主イエスの福音に生きる道は、惜しみなく与える生活だからである。
それ故、わたしたちは、貪欲と不正が満ちた世にあって、貧困をもたらす力と戦い、困難な生活を強いられている人々に憐れみの手を差し伸べ続ける。九.「隣人に関して偽証してはならない」
「その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」
恵みと真理に満ちた主イエスの言葉は、決して罪を曖昧にしない神の正義と、どこまでも罪を赦す神の愛とに貫かれている。
わたしたちもまた、愛に根ざして真理を語り、へりくだって互いの徳を高め合い、神と隣人に対して公明正大に生きていこう。
それ故、わたしたちは、陰口や中傷によって人を傷つけ、隣人の名誉と真実を損なう舌の罪を戒める。十.「隣人の家を欲してはならない」
「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」
神と共に生きる喜びを失った人間は、その虚しさと喪失感を埋めることができない。人の魂の飢え渇きを満たすのは、ただ主イエス・キリストの福音のみである。
わたしたちは、わたしたちのためにすべてを捧げ尽くされた十字架の主を仰ぎ見て、この方の内に真の幸いを見出そう。
それ故、わたしたちは、この世の富に執着する貪欲、他人の幸せへの羨(せん)望(ぼう)、すべての悪の根である金銭欲への誘惑から心を守り、福音に生きる道を選び取る。(悔い改めの生涯)
キリスト者の生涯は、信仰と悔い改めの生涯である。キリストがわたしたちの内に形づくられるまで、わたしたちは何度でも主の十字架のもとに立ち返り、自らの罪を告白して悔い改める。
キリストに結ばれている者は決して罪には定められない。わたしたちは、赦しの共同体である教会の中で癒されつつ、主の愛に支えられて再び立ち上がり、神の子らとして世に出て行き、福音の喜びを生きていこう。
各々に与えられた召しと賜物にしたがって主に仕え、完成をめざして共に命の道を歩み続けよう。(十字架から栄光へ/心を高く上げよう)
神と隣人への愛のために、古い自分が砕かれていくことが、十字架の道である。わたしたちは、死に至るまで忠実であられたキリストの謙遜と従順にならうことにより、主の御霊によって、キリストに似た者とされていく。
十字架の道は、主イエスが歩まれた道であり、必ずや復活と栄光の御国へと至る道である。それ故、地上を旅する神の民は、苦難の中でも心を高く上げて天の故郷を熱望し、新しい天地をもたらす主イエスの現れを待ち望みつつ祈り願う。
マラナ・タ(主よ、来てください)!
ここに、わたしたちの生きる力と喜びは湧き上がる。栄光がただ神にあるように!