「真理」とは一言で言うならば、本当のことです。

これだけですと、例えば、2019年に行われたバトミントンの世界選手権で、桃田健斗選手が優勝し、奥原希望選手が準優勝しました、というのが本当のことを教えているならこれも「真理」と言えるかもしれません。しかし、「真理」という概念は、単に本当であるということばかりでなく、この世界とすべての生き物に関わることであり、それは「根源」とか「最重要」ということに関する本当のことという意味合いを持っているのです。真理とは、それゆえにこの世界の根源や私たちの人生、あらゆるものに関わる決定的に重要なことが「真理」であるということが出来ます。

例えば、2019年の夏、甲子園で行われた高校野球選手権大会で履正社高校が優勝したという出来事は、本当のことではありますが、私たちやこの世界に決定的に重要な事柄というわけではありませんから、これは「真理」とは言わないのです。さらに言えば、真理とはいのちにかかわることであるといってもよいでしょう。それは永遠の命に関わることです。

聖書の中にも、主イエスが十字架に架けられる裁判において、ポンテオ・ピラトとのやり取りが次のように記されています。

18:36 イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」

 18:37 そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」

 18:38 ピラトは言った。「真理とは何か。」

ヨハネによる福音書18章36~38節

「真理」とは、以下の条件をすべて満たしているものです。

  • 本当のこと
  • この世界とそこに生きるすべてのもののいのちに関わるものであること
  • 私たちの人生の意味を決定づける最重要の事柄
  • いのちの源である神ご自身、あるいは神によって教えられる救いの道

「真理とは何か」というピラトの質問に、主イエスはお答えになりませんでしたが、このやり取りの中で主イエスは、「わたしは真理について証しをするために生まれ」たのだと述べておられます。

さらに、ヨハネによる福音書14章6節で主イエスは、

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」と言われました。

実をいうと、真理について語ったり、この世界や、私たちにいのちを与えてくださり、いのちを育んで下さることが出来るのは、神以外にはおられません。

私たちは、神からの啓示によらなければ、私たちの人生において決定的に重要な真理を知ることが出来ないのです。

ヘブライ人への手紙には、次のように言われています。

「1:1 神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、

 1:2 この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。

 1:3 御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。」

 ここで「御子」と言われているのは、神の御子であるイエス・キリストのことです。旧約の時代(キリストが来られる以前の時代―BCと言われる時代)には、神によって立てられた預言者をはじめとする様々な人々によって神のみことばが告げられましたが、新約の時代(キリストが来られて以降の時代―ADと言われる時代)には、神ご自身である方、神としての本質を持っておられるお方が、人としてこの世に生まれて、自ら救いの御業を実現してくださったのです。

 このような「真理」を追究することこそ、私たちにとって最も重要なことです。しかし、多くの人は、最も重要ないのちの源である神との関係の回復をなおざりにして、二次的、三次的なことに心を砕いているのではないでしょうか。