「聖書・キリスト教についての質問と答え」
Q2 キリスト教の信仰が与えられると、どんな良いことがありますか?
Q9 聖書にはどんなことが書いてありますか? また、どう読んだらよいのですか?
Q10 イエス・キリストは実在の人物ですか? どんなことをしたのですか?
Q16 旧教(カトリック)と新教(プロテスタント)の違いは何ですか?
Q18 家族全員が救われるためには、どうしたらよいのですか?
Q19 どうしたら、世界に戦争がなくなり、平和な世の中になりますか?
A1 : はい、ただ一人の神があなたをお造りになられました。それだけではなく、日々あなたを守り養っていてくださいます。
わたしたち日本人の中には、何にでも神を認め八百万(やおよろず)の神を信じたり、反対に神はいないと考える方々がおられます。そういう方々にも、まことの神がどのようなお方であるのかを知っていただきたいのです。
聖書は、天地万物をお造りになられた、ただ一人の神がおられることを証しています。このただ一人の神は、わたしたち人間が自分たちの想像や思い付きで作った神々(偶像)とは違い、人間を初めとして、宇宙万物をお造りになりました。ですから、この神を信じることと、やおよろずの神を信じることとは、同じ「信じる」と言っても、その意味は全く違うのです。
キリスト教主義大学である青山学院でキリスト教概論を学んだAさんは、他のことは全部忘れてしまいましたが、「ただ一人の神が存在する」ということだけは、聞いた時に非常なショックを受けました。そしてそれ以来、40年近くの間、「神が存在する」ということだけは、Aさんの頭の片隅にずっとこびり付いていました。そして、40年経って、Aさんをお造りになった神に導かれ、教会に来て受洗され、今は平安の中に過ごしておられます。
神は存在します。神はあなたをお造りになられた方です
空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。
(マタイの福音書6章26,30節)
Q2 キリスト教の信仰を得ると、どんな良いことがありますか?
A2 : あなたをお造りになった神との関係が取り戻され、神がいつもあなたと共にいて下さることが分かります。心の平安が与えられ、生きる喜びと感謝の気持ちが湧いてきます。
聖書によれば、人間は「神の形」に造られています(創世記1章・27節)。 これはつまり、人間は神との交わりのために造られた、ということです。たとい神に背を向け、神などすっかり忘れ果てた生活をしていても、なお、その人の魂は自分の帰るべきところを求め、神を見出すまでは平安を得ません。どんな無神論者でも、心の底では神を求めています。
反対に、神を知れば、心に平安と喜びが与えられ、この世の波風や試練にも打ち勝って生きることができます。
ある主婦の方が、ご主人と一緒に一生懸命働いて、念願のマイ・ホームを建てました。ローン返済のめども立ち、いよいよ新築の家に引っ越してきて、カーテンを取り付ける作業も終わりました。ところが、その取り付け作業が終わった瞬間、彼女は非常に空しい気持ちに襲われました。今までは二人で力を合わせ、目標を目指して走ってきたのに、これからは、生きる目標が見えなくなってしまったからです。彼女は矢も楯もたまらなくなって、むかし行ったことのある教会に行きました。そして、信仰を得て、ようやく生きることの本当の意味や生き甲斐を知ることができた、とのことです。
A3 : あなたも日曜日の礼拝に出席することによって、きっと分かるようになります。
聖書の神は御人格を持ち、あなたにも語りかけてくださいます。神の言葉を聴き、神の御名を讃美する礼拝の中で、初めて神のことが分かるようになります。
救世軍の司令官にまでなった山室軍平の妻、機江さんという女性は、教会に来た初めの頃は、説教は難しく、自分はこれ程まで信仰を求めているのに、幾ら求めてもなかなか得られないもどかしさに苦しんでいました。しかし、とにかく礼拝に出、毎日祈り、聖書を読むようにと導かれ、それを実行してみました。すると、ある晩、夢の中で主イエスと出会ったのです。ハッと目を覚まして、一生懸命その夢をもう一度思い出そうとしました。
やがて、それまでははるか遠くに感じていた神やイエスの存在が、次第に自分の身近に感じられ、聖書を読む目が違ってきました。そして、自分の罪の深さに気づき、そのために主が十字架にお掛かりになったこと、そして甦られたことが抵抗無く受け入れられるようになって、信仰に導かれました。
A4 : 神の招きを受け、唯一のまことの神であられる御方との本来あるべき関係に立ち帰らせて頂くことです。
神はわたしたちのために時間を割き、わたしたちと神との関係を再び修復するために、わたしたちを礼拝に招いておられるのです。
わたしたちは三位一体の神を拝んでいます。なぜなら、わたしたちは神の恵みによって無から創造されましたので、被造物であるわたしたちは創り主なる神を拝み、その全ての恵みに感謝するのです。
また、わたしたちは神の子イエス=キリストによって罪から救われましたので、その救いを感謝し、神をほめたたえ、讃美するのです。
また、わたしたちは御霊の神の導きによって救いの道を歩むのです。
一週間を始めるに当たり、先ず神を礼拝し、心静かに御言葉に聴き、讃美歌を歌うことから始めましょう。そうすれば、その一週間も神がこの自分といっしょにいて下さることが理屈なしに分かるようになり、生きる力が与えられます。
A5 : もちろんです。 あなたをお造りになった神は、今 あなたを招いておられます。
あなたはご自分を「無神論者」と仰っていますが、恐らくそれは、西洋人の云う意味での「無神論者」ではないと思います。なぜなら、西洋人の場合には、教会の礼拝に出ようとは決して思わないからです。あなたの場合、ただ、御自分の中に神の存在を積極的に肯定するような気持ちが今のところ何も湧かないのに、神を礼拝している敬度な信徒たちの群れに入ることは、神や信徒たちにとって冒涜または失礼なのではないか、というお気持ちではないでしょうか。
もしそうであるなら、そのようなご心配は何一つ必要がありません。なぜなら、先ず第1に、あなたの中に礼拝に出席してみようというお気持ちを抱かせたのは、神の御霊であり、そこには神の導きとお招きがあるからです。第2に、わたしたちはどんなに清い心を持ち、どんなに敬度な信者であっても、罪人であり、そのままでは神の前に出る資格はありません。自分には資格があると考えるのは根本的な誤りです。神はむしろ、神の前に出る資格のない罪人であるわたしどもを御許に召してくださるお方なのです。
主イエス・キリストのお言葉です。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」 (マタイによる福音書11章28節)
A6:神は、あなたのこれまでの宗教体験をも豊かに生かして下さる御方です。
最初からキリスト教を信じていた人は一人もいません。
クリスチャン・ホームに生まれた人でも、イエス様に出会って信仰を受け入れています。仏教の素養のある方で、神に導かれた人は多くおられます。例えば、亀谷凌雲(1888~1973)という人は、蓮如上人の末裔として富山の浄土真宗の大寺院に生まれ、真宗のお寺をつぐべく、西田幾多郎に学び、東大の哲学科を卒業した人ですが、後にキリスト教を学んだ結果、「キリスト教は仏教の破壊者ではなく、むしろその完成者である」と知って、キリスト教に転じ、牧師となって立派な伝道をしました(亀谷凌雲著『仏教から基督へ 溢るる恩寵の記』福音館書店刊)。
他宗教を信ずる方が教会においでになることは、何ら差し支えありません。
(Q5参照)
A7:いいえ、両者は矛盾し合うことはありません。
この自然や生命にかかわる人たち(科学者や医者など)の中にクリスチャンが多くいることを見てもそのことが分かります。万有引力の法則を発見したアイザック・ニュートンは、『いかなる世俗の歴史によるよりも、聖書の中にはより確かな心理が存在する』と言いました。また、ガリレオは、『あなたはなぜ、神を信じているのですか』と問われたときに、その人を自分の研究室に連れて行き、太陽系の模型を見せて、『私はこの宇宙を探求し、この自然を観察すればするほど、これを創造された方の存在を疑うことはできない』と言いました。
また、これまで聖書の記述が真実であるか否かということを検証するために聖書の考古学の研究がなされてきていますが、現在、膨大な量にのぼる考古学的諸事実の中に、聖書の記述内容を確実に否定するようなものは、何一つ見い出されていません。むしろ考古学的発見の数々は、聖書の記述内容を、幾倍にも明確化することに役立っているのです。このように聖書は、歴史的に、また人類学的に、きわめて正確な記述をしていることが分かります。
A8:キリスト教は、「宗教」のカテゴリーの中に入れられていますが、宗教が、人間が考えたり作った教えであるならキリスト教は宗教ではありません。キリスト教は人間が作ったものではなく、神からの「啓示」によるものだからです。キリスト教信仰の内容は、3つにまとめられます。
①ただ一人の神がいて、あなたをお造りになられたこと。
②神があなたを罪から救うために、御子イエス・キリストをこの世界にお遣わしになり、あなたの罪の身代わりとして十字架にお掛けになったこと、神はその御子を死人の中から復活させて天に引き上げられたこと。
③神は聖霊をあなたに遣わしてあなたにイエス・キリストを信ずる心を与え、あなたを神の永遠の御国へ(Q22参照)お招きくださること。
また、この信仰から、自ずとそれにふさわしいキリスト教的な「倫理」が出てきます。神を愛し、隣人を愛して生きるという倫理です。
Q9 聖書にはどんなことが書いてありますか? また、どう読んだらよいのですか?
A9:聖書とは、神の子イエスが人となり、救世主(メシア=キリスト)であることをあなたにも分かっていただくため、神からあなたに送られ愛の手紙です。 旧約聖書には、神が天地を創造されてからイエス・キリストの御降誕までのことが、また、新約聖書には、イエス・キリストの御降誕以後、新しい天と新しい地が実現する終わりの日までのことが、書かれています。
旧約聖書はイエス・キリストの御降誕より前に書かれました。人類の創造、罪、神によるイスラエルの選びとその挫折などを語りながら、救い主(メシア)が生まれること、神が罪と悲惨の中にある私たちにまことの救いといのちをもたらしてくださることを預言しています。
新約聖書はこの救い主なるイエス・キリストがお生まれになったことと、その十字架と復活の出来事、そして、神が今も人々を救いに招いておられ、終わりの日にはイエス・キリストが再び来られる(再臨)ことが書かれています。
聖書をお読みになるには、聖霊の導きを祈って読むこと、教会の礼拝に出席し、教会の信仰の中で読むことがとても大事です。順序としては、先ず新約聖書からお入りになることをお奨めします。
「福音書」(「マルコによる福音書」が一番短い)を一つ通読なさって、イエス・キリストがどのようなお方であるかを知り、特に、その十字架と復活の出来事をお知りになってください。
聖書は一生涯掛かって読むものですから、すぐに意味が分かるものではありません。分からないところは飛ばしながらでも、一度全部を通読してみることをお奨めします。
Q10 イエス・キリストは実在の人物ですか?どんなことをしたのですか?
A10:歴史上実在した人物です。主イエスはユダヤのナザレという村で、紀元前4年頃にお生まれになりました。旧約聖書にあるように、神は私たち人間のどうしようもない罪と死の中からの救い主を与えることを約束しておられましたが、それは神の御子が人間のかたちをとってこの世に生まれると言う形で成就したのです。
主イエスは、奇跡、教え、癒しなどをなさり、十字架の死に至るまで人々に仕えるものとして生涯を歩まれました。十字架の死は失敗や挫折ではなく、当初から予定されていた通り、わたしたちを罪からお救いになるための出来事です。彼は十字架上でお亡くなりになり、3日目に死人の中から甦られました。
キリスト教信仰の中心は、イエスを人類の偉大な教師や宗教的天才と信じるのではなく、神から遣わされた神の一人子と信じることです。このお方が十字架に架けられたのは、旧約聖書に預言されていたとおり、わたしたちのどうにも救いようのない罪をつぐない、わたしたちを罪から洗い清め、お救いになるためでした。
神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられます。(ヘブル1章1~3節)
A11:罪とは神の御心に背き、自分を神として生きることです。
その罪の根本にあるものは、神に自分の心のよりどころを置かず、礼拝もせず、感謝もしないで、他のもの(お金や、権力や、様々な力など)を神として崇める「偶像礼拝」です。
神は人間をご自分の交わりの相手としてお造りになり、楽園に住まわせられました。(創世記2章8節)。ところが、人間はいつのまにか高慢になり、神と等しくなろうとして、神の戒めを破ったため、神と人間の間の「関係」が破綻しました。神は無限に聖なるお方ですから、本来ならば、人間の罪を片時も耐えることがおできになりません。罪という異物が神と人間との間に置かれたことは、神が滅びるか人間を滅ぼすか、二つに一つの由々しい事態が生じたことになります。
それゆえ、人間はもはや楽園に住むことができなくなった、と聖書は教えています。人間はそれ以来、ますます神の御心に背き、自己中心的になり、お互いに憎み合いや殺し合いを止めることができなくなりました。 このような罪の現実は、深まる一方です。
キリスト教では、わたしもあなたも神の御心に背いており、罪のない正しい人は一人もいない、と考えます。
「次のように書いてあるとおりです。
『正しい者はいない。一人もいない。
悟る者もなく、
神を探し求める者もいない。
みな迷い、だれもかれも役に立たない者となった。
善を行う者はいない。
ただの一人もいない』。」 (ローマの信徒への手紙3章10節以下)
非常に極端な言葉のように思われるでしょうか。大切なことは、罪(sin)は神に対して犯されている、ということです。法律に違反した「犯罪」(crime)のことではありません。わたしたちの良心は非常に麻痺していますから、他人の罪や社会の罪はすぐに分かるような鋭い良心の持ち主でも、自分の罪はなかなか分からないものです。
A12:得られます。 神はその為に、御自身と一体であられた御子イエス・キリストをこの世に遣わされ、わたしたちの身代わりに十字架にお掛けになりました。
罪は本来、神に対して犯されているものなのですから、神だけが赦すことがお出来になります。 神はわたしたちの罪を赦すため、御自分の御子イエス・キリストを罪人であるわたしたち一人一人の身代わりとして十字架にお掛けになりました。ここに神の愛があります。
そして神は、御子を信じる者の罪を無条件にお赦し下さるのです。そうである以上、主がこの自分のためにも死んだことを信じ、自分の罪を告白するならば、どんなに大きな罪も、神はお赦しになります。また、その罪の力からわたしたちを救い出してくださいます。まことに有り難いことではありませんか。このイエスの赦しを信頼し、どんな時でも、大胆に生きることができるのです。
A13 あなたをお造りになった神は、あなたの祈りを待っておられ、その祈りを聴いてくださいます。
祈りは必ず聴かれます。但し、祈った通りに叶えられるという意味ではありません。もしそうであったら、いつの間にかわたしたちが神よりも上になってしまい、ご利益宗教と少しも変わらなくなります。しかし、あなたをお造りになり、あなたを養っておられる神は、あなたが祈るより前からあなたの心も、身体も、全生活をもご存じであられ、あなたが祈ることを切に待っておられる「慈愛と憐れみに満ちた父」です。
そして、あなたにとって何がいちばん必要であるかをあなた以上によくご存知です。ですから、あなたが祈ったとき、あなたにとって最善のことをして下さるのです。
父なる神は、全知全能の力によって「万事が益となるように」働いて下さるのです。
(ローマの信徒への手紙8章28節参照)。
神を信じて祈るなら、祈らないでは決して起こり得ないことが起こる、と信じて祈ってください。
A14:洗礼とは、自分の罪を認め、悔い改めて神を信じ、イエス・キリストを私の救い主として生きていこうと決断して神の力あるお招きに身を委ね、それに従う第1歩を踏み出すことです。
洗礼は、「神の子イエス・キリストがこのわたしの罪のためにも十字架上で苦しみ、死んでくださったこと、そして、父なる神がイエス・キリストを死人の中から甦らせてくださったことを信じ、これから後はこの神に身を委ねて生涯を歩むことを決意する」なら、受けるための準備が整った、と言えます。
洗礼は信仰生活のゴールではなく、スタートです。結婚式にも譬えられます。そこから神との共同生活が始まるからです。
静岡教会の場合、礼拝を守るなかで、聖書の教えの基本である「キリスト教入門講座」を学んでいただきます。
A15:聖餐とは、礼拝の中に現にいてくださるキリストとの交わりに、今、ここで、具体的に与ることです。主イエスご自身が最後の晩餐のおりに定められ、後々まで行うようにとお命じになったものです。先ずキリストの十字架上で裂かれた身体のしるしとしてのパンを、次ぎに十字架上で流されたキリストの血潮のしるしとしての葡萄酒(または葡萄汁)を、キリストご自身から頂くのです。それによってわたしたちは、実際に罪の赦しを与えられ、キリストと一体とされることを確信して守っています。
Q16 旧教(カトリック)と新教(プロテスタント)の違いは何ですか?
A16:教会の歴史を辿ってみれば分かりますが、どちらも聖書を信仰と生活の基準とする点で共通しています。現在では両者は歩み寄ってきています。しかし、プロテスタント教会は、「聖書のみ」を信仰と生活の基準にしようとしているのに対して、カトリック教会では、教会で取り決められたさまざまな伝承を重んじて「聖書+伝承」がその基準となっています。このため、『教皇無謬説』(教皇は間違うことがない)、『ただ信仰のみによる義認』などいくつかの相違を残しています。その他、礼拝の仕方、ローマ教皇を教会の首長として受け入れるか否かなどについても違いがあります。
プロテスタント教会とは、16世紀初めに、当時腐敗していたカトリック教会を改革するために起こった宗教改革運動が、たちまちヨーロッパ中に広まって出来た教会です。宗教改革の旗印は、『聖書に帰れ』ということです。
両者とも同じ三位一体の神を礼拝し、同じイエス・キリストを救い主と信じ、同じ聖書を正典としている点では、変わりありません。現在日本の多くの教会で使われている「新共同訳聖書」は、日本におけるプロテスタントとカトリックとの共同作業で訳されたもので、両方の教会で使われています。
A17:神を礼拝し、信徒の交わりをし、福音を宣べ伝えるためです。
教会は人間が勝手に建てたものではなく、神がキリストの救いのみ業を実現し、神が人類を創造された人間本来の姿に回復し、罪の世界にまことの光をもたらすためにお建てになったものです。
キリストは信仰者が一人で信仰生活をするのではなく、キリストという葡萄の木につながり(ヨハネ福音書15章1節以下参照)、兄弟姉妹としての交わりの中で互いに励まし合い、慰め合い、戒め合って信仰生活をするようにとお望みになりました。そしてその教会が福音を地の果てまで宣べ伝えるように、とお命じになりました(使徒言行録1章8節)。
「クリスチャンは、神を父とし、教会を母として生れる」(教父キプリアーヌス)と言われます。
Q18 家族全員が救われるためには、どうしたらよいのですか?
A18:先ず、あなたが信じて洗礼を受けることです。そして、家族全員の救いのために祈ることです。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒言行録16章31節)と書いてあります。初めはたった一人であっても、この御言葉を信じて信仰に入りましょう。そして、毎日曜日教会へ行き、あなた御自身がキリストの救いを受け、感謝と平安の中にのびのびと生きることが大切です。
家族はあなたのご生活の裏の裏まで知っていますから、ごまかしは通用しません。しかし、これをマイナスと考える必要はありません。イエス・キリストがあなたもあなたの家族をも愛してくださるのですから、希望を失わないことです。家族伝道の要点は、家族一人一人を愛し、毎日家族の救いのために祈ることに尽きます。どんな無神論者でも、5年や10年の間には、大きな悩み事や人生の危機にぶつかるものです。その時に、自分を愛し、自分のために祈ってくれているあなたが信じ、頼っている神とはどのような御方なのか、考えないはずはないのです。そこに神のお導きの手が働くでしょう。
また、次の御言葉も参考になります。
「異教徒の間で立派に生活しなさい。 そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります」(ペトロの手紙一、2章12節)
Q19 どうしたら、世界に戦争がなくなり、平和な世の中になりますか?
そのためには、私たちはどうしたらよいのでしょうか?
A19:先ず神と和解してわたしたちの心の中にある「敵意という隔ての壁」を取り除いていただき、わたしたちに出来ることをしましょう。
「キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し・・・両者を一つの身体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(エフェソの信徒への手紙2章14~16節)と書いてあります。
作家の大江健三郎さんもこの箇所を引用しています(大江健三郎著、『「新しい人」の方へ』、 (朝日新聞社2003年、176頁以下)。
戦争や人と人とを分かつ「隔ての壁」は、人間の心の中にある「敵意という隔ての壁」によって生ずるものです。昔存在していたベルリンの壁や、今建設中のイスラエルの壁など思い当たるものが沢山あります。また、日本と韓国・中国などの近隣諸国との間にある目に見えない「敵意という隔ての壁」もあります。わたしたちキリスト者は、この「敵意という隔ての壁」が、神を神としないで己れを神とするわたしたちの「罪」から生ずることを知っています。実際、その罪によって、わたしたちは神の子を十字架につけてしまったのです。その意味で、先ず、日々神からの罪の赦しを受け入れ、次ぎに、隣人の罪を赦し、自分の罪を赦してもらうことが大切だと思います。
神と和解した人は、民族や自国の利益を超えたスケールの大きな考え方をすることができます。
そして、神の栄光と世界の平和のために、祈ることができます。平和をもたらす力があるのは、神だけだからです。
A20:天国はあります。人間の死は、まだその人の存在の終わりではありません。キリスト再臨の日に、全ての人は神の全能の力によって墓より甦らせられ、最後の審判を受けます。その後、永遠の御国に入れられます。
神は人間を「神の形」にお造りになり、楽園(エデンの園)に住まわせられました。しかし、人間は神に背いて罪を犯したため、楽園から追い出され、この地上をさ迷う身となりました。また、人の命は限りあるものとなりました。どんな人でも、必ずいつの日か、死ななければなりません。
しかし、わたしたちを「神の形」にお造りになられた神は、その愛する独り子をお遣わしになって、わたしたちの罪の赦しのために身代わりの死を遂げさせられました。
このようにして、神は初めからのご計画通り、わたしたちをもう一度わたしたちの真の故郷であり、家庭である神の国(天国)に連れ戻そうとされます。こうして、わたしたち にも、終わりの日の復活の希望が与えられたのです。
A21:クリスチャンにとって、死は決して「敗北」でも「喪失」でもなく、むしろ反対に「勝利」であり、永遠の命の「獲得」です。だとすれば、老いもまた「喪失」ではなく、むしろその「準備」に生きる希望の時です。
「老い」の苦しみとは、何かを失う「喪失」の苦しみです。体力を失い、聴力・視力を失い、記憶力を失い、職業や社会的地位を失い、それと共に、友や親兄弟、ついには最愛の伴侶までも失います。
しかし、失うものは何なのでしょうか。それは「外なる人」です。体力も聴力も視力も、記憶力も職業も社会的地位も、みな「外なる人」です。
しかし聖書は言うのです。
「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」(コリントの信徒への手紙二、4章16節)
「内なる人」の核には、御国への希望があります。この希望があれば、日々前向きに生きることができます。会社で活躍するばかりが能ではありません。家庭の中でも、近所でも、教会でも、自分を必要とする役割は沢山あります。そのためには、今までの価値観や生活様式の転換を思い切ってする必要があります。何よりも、思い煩わないことです。
ユーモアを持ち、赦しと和解、感謝の表明をすることです。命がある限り、その人には役割があります。自分にはどんな役割がまだあるか。これが生き甲斐に直結します。
このように、信仰を持ち、感謝と希望に生きるならば、大切な友人、伴侶、親兄弟を失った悲しみも、やがて、天国で再会できる希望へと変えられるでしょう。