まず教師や親の自己改革から
特に教師にありがちな,「自分を正しい者」の位置に置いて他の人の欠点を治してやろうとするあり方を,聖書では「罪」と言っております。「自分こそ罪深い者!変わるべき者!」と気づいたその時から,驚くべき周りが変わり始め,空気まで変わってくるようです。
「今こそ全ての教師が聖書に帰るべきだ」との溝上茂夫氏の次の言葉をかみしめて歩みたいものです。
『すぐれた芸術家は,聖書の中にある美を真実の美として認めている。これと同様に,私たちは混沌とした教育界にあって,この聖書の中に永遠絶対なる真の教育学を見いだすのである。そこには,永遠に教育者のお手本であるイエス・キリストがあるからである。またイエスの教授法はソクラテスもプラトンも,あるいは世界中の新しい教授法の教師もはるかに及ばないところの最高の模範教授であるからである。
また教育者は聖書にくることによって,真実の教育愛の源泉がどこにあるかを知るばかりか,真の教育活動への新しい生命力を十分に与えられて,キリストに似た教育者となるのである。どのような教育学にも,学ぼうとする師弟の全人格を改造し,その霊眼を開き,教育を聖なる事業としてしまう偉大な力はないけれども,聖書にはそれがあるのである。
そして聖書の一句は,コメニュウスを遣わし,ペスタロッチを遣わし,フレーベルを遣わし,トーマス・アーノルドを遣わし,サリバンを遣わし,全地球上から日々真実の教育者を遣わしているのである。 教師や教授たちは,その研究室にプラトンを研究し,ルソーを論じたりする。それらを読んで奮起したり,教育の聖者となった者が世界中に果たして一人でもいただろうか。百万巻の教育書を読んだとしても,聖書の一句を紐解かない者はおろか者である。聖書に聴くことなくして,いたずらに思索にふける教師はわざわいである。実に,聖書の中には,驚くべき何千の教育学が秘められているのである。
そして,永遠に教育の本質を教え,教育者を奮起させ,種々の教科教育法の細かなところにまでも欠くことのない指導を与えるのである。おお,聖書こそ驚くべき教育学であり,活きた学校なのである。』
<玉川大学通信教育課程補助教材 玉川通信 98年2月号より>
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