私たち人間の社会は、例えば前科のある人や部落民、障害者などさまざまな人を分け隔てしたり、見下したり、「あの人と付き合っちゃダメよ」などと言ったりすることがあります。しかし、イエス・キリストは、むしろ弱い人、貧しい人、病んでいる人、身寄りのない人、罪を犯して自分でも駄目だと思って落ち込んでいたり、他の人からも白い目で見られている人、社会の片隅に追いやられている人のところに進んで出かけていって、この人たちの友となりました。

聖書には、しばしばイエス様が罪びととして嫌われた人々と交わったことが伝えられています。当時のユダヤ教のエリートたちからは「この人は罪びとたちを迎えて、食事まで一緒にしている」(ルカ15:2)と批判しました。一緒に食事をするということは、親しいお付き合いをするということで、その人の友になるということです。イエス様はこのように、弱い人々の友となることをとおして、父なる神の心を代弁したわけです。

ルカによる福音書15章の、いなくなった羊、なくなった銀貨、放蕩息子のたとえはいずれも神のもとを離れた人が、神のもとに返ってくることを神は心から喜んでくださることを表しています。

また、イエス様は次のように言われました。「イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:17)