21:40 さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」
21:41 彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」
21:42 イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』
21:43 だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。
21:44 この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」
祭司長や長老たちの言葉を受けて、イエス様はこう言われました。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしの目には不思議に見える。』だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」
イエス様は、旧約聖書の詩編118編22節、23節を引用してこのように言われました。イエス様はこの詩編の預言が御自分において実現することを理解しておられました。「家を建てる者」とはイスラエルの指導者である祭司長や長老たちのことです。そして、その家を建てる者に捨てられた石こそ、イエス様なのです。
イエス様は、この後最高法院によって裁かれ、神を冒涜する者として捨てられます。ローマの総督ポンテオ・ピラトに引き渡され、十字架につけられるのです。しかし、神様はそのイエス様を墓の中から三日目に栄光の体で復活させられ、神のイスラエルである教会の隅の親石としてくださるのです。
このイエス様の御言葉を、41節の祭司長と長老たちの言葉と結びつけて考えるとき、「ぶどう園」が「神の国」を意味していることが分かります。「神の国」とは「神の王国」、「神の王的支配」のことです。
「ぶどう園の農夫のたとえ」において、彼らがぶどう園で働いていたのは、自分たちを信頼してぶどう園をゆだねてくださった主人のためではなく、自分たちの利益のためだったのです。農夫たちは、主人によって雇われ、主人の所有するぶどう園の働きを委ねられましたが、その収穫を主人に渡そうとはしません。
農夫たちが主人の恵みに感謝して、主人のために働いていたならば、主人から送られてきた僕たちにひどい仕打ちをすることはなかったはずです。しかし、農夫たちは自分たちのために働いていたので、主人から送られてきた僕たちにひどい仕打ちをし、収穫を自分たちのものにしようとしたのです。そればかりか、主人の跡取り息子を殺すことによって、ぶどう園を自分たちのものにしようとしたのでした。
これは、この後、祭司長や長老たちが神の御子であるイエス様を十字架につけることによって実現するのですが、そのような彼らから、神の国が取り上げられるのは当然のことです。なぜなら、神の国は、神の御子イエス・キリストにおいて到来したからです(3:17、12:28参照)。祭司長と長老たちは、神の独り子イエス・キリストを殺すことによって、自分たちが神様の王的支配に背く者たちであることを暴露してしまうのです。
祈り
天の父なる神様、ぶどう園と農夫のたとえ話は、すでに旧約聖書によって預言されていたことであり、実際に成就した出来事を表しています。神様がお遣わしになったメシアであるイエス・キリストをわが主として受け入れ、このお方に聞き従っていくことが出来ますように。
イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。