ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。ローマ3:21~22
しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません
これまでパウロは、神の前にすべての人間が罪の中にあることを記してきました。律法を守ることによって救われるのではありません。律法は「行ないによって救われる」ということを教えるものではなく、「異邦人もユダヤ人も、すべての人間が罪人であって、神の救いの御恵みを必要としており、神の御前に悔い改めなければならない者」であるということを教えるためのものでした。即ち、「律法によっては、罪の自覚しか生じない」のです(3章20節)。
ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。今は、イエス・キリストによって神の義が示された時代なのだと語ります。この神の義とは、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義であると言われています。
律法は、イエス・キリストの救いのみ業を指し示していましたから、主イエスがこの世に来られ、その生と十字架の死と復活によって律法を成就してくださったのです。ですから、旧約聖書の土台の上に新約があることを忘れてはなりません。
旧約における贖いは不十分なものでしたが、西暦の規準となるクリスマスにおいて、キリストが来られて、罪の代価を支払われた今、新しい契約にあってすべての人は信仰のみによって聖なる神に近づくことができるようになったのです。
祈り
天の父なる神様、今日もあなたのみことばを聞き、祈るひとときをお与えくださることを感謝いたします。愛と義に満ちておられる神を思うとき、自分のうちにある深い罪を覚えずにいられないものですが、このような罪ある者を、あなたはわたしの子と呼んでくださり、主イエスにおけるあなたの恵みに与るものとしてくださっていることを感謝いたします。私の主、私の神としてあなたをおぼえることができますことは、わたしの大きな喜びであり希望です。
イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。