6:5 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
主イエスは、「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。」と言われました。祈ることについても、人に見てもらおうとして会堂や大通りの角に立って祈るような、偽善者の祈りであってはならないと言われました。
律法学者やファリサイ派の人々は、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈っていたようです。そのようにして彼らは祈りという宗教的な善行を、人に見てもらうための宗教的な演技としてしまっていたのです。
彼らは神様に聞いていただくための祈りを、人に聞かせるためのものとし、人からの誉れを求めるものとしてしまったのです。人からの誉を受けるためという事は自分の栄光のために、名声を得るために祈っていたという事です。
祈りは神にささげるものであり、心を込めて神様との交わりをいただくことですが、人に見られるために祈ることによって、その祈りは偽善的なものとなってしまうとイエス・キリストは言われるのです。
祈り
天の父なる神様、善行を行うことも祈りをささげることも、それ自体は素晴らしいことですが、それを人に見てもらうために行うようになると本来の純粋な動機やあり方から外れてしまいます。自分が人にちやほやされるようになるためではなく、純粋に真心から神と人に行うことが出来ますように。
イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。