2:25 あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。

 2:26 だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。

 2:27 そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。

 2:28 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。

 2:29 内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。

 

「割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。・・・割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。」と言われています。

 

実行することこそが重要ではないかと言われています。これは当然のことですが、「律法」を知れば知るほど、自分はこれを実行することが出来ないということを思い知らされるのです。

 

29節には、「内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」と言われています。実際に、その生涯にわたって律法を守ることが出来たのは、人としてお生まれになった神の御子であるイエス・キリスト以外にはありませんでした。「その誉れは人からではなく、神から来るのです。」と言われているとおりです。

 

祈り

 

天の父なる神様、詩編121編には、「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。」と言われています。このことを覚えつつ、あなたの御名を仰ぎつつ生きる者とならせてください。

イエス・キリストの御名によって祈ります。