ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。使徒の働き4:12
この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。(新改訳)

 

「分け登る麓の道は多けれど同じ高嶺の月を見るかな」。これは一休和尚の『骸骨』という法話集に出てくる歌です。一つの山の頂上は一つですが、そこに登るためには様々な道がある。それぞれが頂上に登るために自分に合った道を選べばよいということを歌ったものです。

 

山に登るための道はその通りですが、天国に行くための道は一つしかないことを聖書は教えています。私たちは皆、罪のために裁きを受けなければならないものですが、自分ではこの罪を解決することが出来ません。それが出来るのは罪のない神が人としてこの世に来られ、私の身代わりに苦しみを受け罪の刑罰を受けて死んでくださる以外に道はないのです。

 

イザヤ書53章には、このような苦しみを受けて、私たちを罪と死から贖ってくださるメシア(救い主)のことが次のように予言されています。

「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。」(イザヤ53:4~6)

世の中には偉人と言われる立派な生活をなさる方はたくさんおられますが、神の前に何の罪もない方はいません。ましてや、私の罪の身代わりの死を遂げてくださった方はイエス・キリスト以外にはいないのです。

 

祈り

 

天の父なる神様、私たちは自らの努力や知恵によっては、天の高みに上ることはできません。下から上に向かうことが出来ない私たちを救うために、私たちのところまで降りてきてくださった主の愛と恵みを感謝いたします。

あなたの恵みのうちに生きるものとならせてください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。