御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。2テモテ4:2~4
パウロは、わが子と呼ぶほどの愛する弟子のテモテに、「折がよくても悪くてもみ言葉を伝える」ように勧めています。そして、「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来る」ことを述べています。「健全な教えを聞こうとしない」人と言うのは、
「自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け」る人たちであるともいわれています。
キリスト教会においても、近年は、罪についてあまり語ることがない。人々の受けにつながるような話しばかりをする教会が増えているようにも思われます。人々の心に心地よいと思われることだけを話すということになると、それは真理から耳を背けることになってしまうことでしょう。
あくまでも教会は、聖書を神の言葉として重んじ、聖書が語っていることをそのままに、現代の人々に分かるようにお伝えしていく必要があります。そのためには、礼拝の説教は、順に聖書を解き明かしていく講解説教がよりよいと思われます。また、旧約・新約のいずれかに偏るのでなく、聖書全体から解き明かすという努力も必要でしょう。福音の恵みや救いの喜びが分かるためには、自分自身の罪を自覚し、悔い改める必要があります。「みことばを宣教する」ということは、みことばが教える福音の全体を伝えると言うことです。
主イエスの弟子たちや、パウロたちが福音を伝えた時、多くの人々がこの言葉に躓きました。十字架や復活を伝え、その人の罪を指摘する時に、今日でも多くの人たちは、それに躓くのです。しかし、これを信じた人たちには、神による罪の赦しが与えられ、永遠のいのちが与えられます。
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(1コリント1:18)
祈り
天の父なる神様、あなたのみことばを聞くことによって、神を知り、自分を知らされ、あなたの御心に従って生きることができるように、御霊に導かれて生きることができますように。
イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。