1:14 クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています。

 1:15 だから、わたしの名によって洗礼を受けたなどと、だれも言えないはずです。

 1:16 もっとも、ステファナの家の人たちにも洗礼を授けましたが、それ以外はだれにも授けた覚えはありません。

 1:17 なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。

 

「クリスポ」については、使徒言行録の第18章8節にでてきますが、ユダヤ人の会堂長で、一家をあげて主を信じた人物です。また、「ガイオ」についてはローマの信徒への手紙第16章23節にでてきますが、「わたしとこちらの教会全体が世話になっている家の主人ガイオ」と記されています。ローマの信徒への手紙はコリントで執筆されましたから、ガイオはコリントの教会全体を世話をするほどの人物であったことが分かります。

 

パウロは、「クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています」と述べていますが、それはコリントの信徒たちの中で、「わたしはパウロにつく」と主張する者たちが、パウロから洗礼を受けたことを根拠にそのように主張していたからでした。

 

パウロは、クリスポとガイオ、さらにはステファナの家の人たち以外には洗礼を授けていないので、私はパウロの名によって洗礼を受けたなどとこれ以外の人たちは言えないはずです。パウロは、コリントの信徒たちが洗礼について誤解していることを知ったので、自分が少数の者にしか洗礼を授けなかったことを感謝していると言うのです。しかし、パウロが少数の者にしか洗礼を授けなかったことは、パウロが洗礼を軽んじていたからではありません。

 

コリント教会には、「私は〇〇につく」というようなグループ、党派が生まれ、お互いが自分の正しさを主張して対立していました。そのような争い、仲違いをパウロは問題にしているのです。

 

祈り

 

天の父なる神様、私たちの住むこの社会には、民族、学歴、障害、境遇、性の違いなどによってさまざまな差別が生まれることもありますし、党派心のようなものによって対立が生み出されることもあります。しかし、本来はどの人もあなたによって創造された大切な存在であることを覚えて、ひとりひとりが尊重される社会を築いていくことが出来ますように。

イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。