7:54 人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。
7:55 ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、
7:56 「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。

ユダヤ人たちの罪を指摘するステファノの説教を聞いた最高法院の人々は、激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりしたと言われています。それは、彼らが自分たちが、裁く立場から裁かれる立場へといつの間にか変わっていたことに気づいたからです。

それは律法の裁き手であると自負する自分たちが、ステファノによって、律法を守らない者として訴えられたからでした。また彼らにとって、自分たちが神の名によって処刑したナザレのイエスを、神が復活させ、メシアとなされたという主張は、とうてい受け入れられない主張でした。なぜなら、イエスがメシアであることを認めることは、自分たちの権威を否定することだったからです。

そのような怒り狂う最高法院の議員をよそに、ステファノは聖霊に満たされ天を見つめていました。すると、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見ることが出来て、「天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言ったのです。

このステファノの言葉のはじめには、「見よ」と訳される言葉が語られています。新改訳聖書には、このところを「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」と訳されています。この「見よ」という言葉は、とても大切な言葉です。

この言葉によって、この光景がステファノの目にずっと見えていたものではなく、このときに初めて彼の前に現れたことを教えているからです。本来、人が見ることのゆるされない、神の栄光と神の右に立っておられるイエス様とを見ることが出来て、彼は感極まって、「見よ、天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのは見える」と言ったのです。

ここで、注目すべきは、イエス様が神の右に座っていたのではなくて、「立っていた」と記されていることです。使徒信条で、私たちが「天に昇り、父なる神の右に座したまえり」と告白するように、教会は、神の右に座すイエス・キリストを告白してきました。

しかし、ここで、ステファノが見たイエス様は立っていたと言うのです。なぜ、イエス様はこのとき立っておられたのか。1つは、ステファノを天へと迎え入れるために、イエス様はお立ちになられたという解釈です。ステファノがイエス様について立派に証しした。それに応えるかのように、イエス様は立ち上がって、ステファノを迎え入れようとしたというのです。

あるいは、イエス様は、父なる神にステファノのことを、弁護するために立っていたとする解釈もあります。さらには、ステファノ頑張れと、イエス様が彼を応援して立っておられるという解釈もあります。いずれにしてもイエス・キリストがステファノの大胆な説教を称賛し、応援しておられるということです。

祈り

天の父なる神様、ステファノの大胆な説教は、彼が聖霊に満たされて語ることが出来た神のわざということも出来ますが、あなたはその救いの御業を実現するために人々をお用いになり、その働きを見守り、支え、応援してくださることを感謝いたします。あなたのみ心にかなう者とならせてください。
イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。