7:46 ダビデは神の御心に適い、ヤコブの家のために神の住まいが欲しいと願っていましたが、
7:47 神のために家を建てたのはソロモンでした。
7:48 けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。これは、預言者も言っているとおりです。
7:49 『主は言われる。「天はわたしの王座、/地はわたしの足台。お前たちは、わたしに/どんな家を建ててくれると言うのか。わたしの憩う場所はどこにあるのか。
7:50 これらはすべて、/わたしの手が造ったものではないか。」』
神の住まいについて、ソロモン自身がはっきりと、「天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てた神殿など、なおふさわしくありません。」(列王記上8:27)と語っています。そして、もちろん、大祭司をはじめとする最高法院の議員たちも、そのことを知っていたと思います。
ですから、「神は天におられ、神殿に住んでいるのではない」ということは、天地を造られた神を信じるイスラエル人であるならば、誰も異存はなかったと思います。ただし、このステファノの言葉は、最高法院の罪を指摘しているのです。それは、神殿を「人の造ったようなもの」と言っていることです。
これと同じ言葉が、41節に記されておりました。「彼らが若い雄牛の像を造ったのはそのころで、この偶像にいけにえを献げ、自分たちの手で造ったものをまつって楽しんでいました。」ここで、若い雄牛の像、偶像が「手で造ったもの」と呼ばれています。その言葉をステファノは、ここで、神殿に対して用いているのです。
これは、エルサレム神殿を絶対視する最高法院の罪を指摘する言葉です。ステファノは、ここで、かつて先祖たちが金の子牛という手で造られたものをまつって楽しんでいたように、今、あなたたちは金や銀で飾られた神殿をまつって楽しんでいるのだと語っているのです。神殿を絶対視するあなたたちこそ、実は偶像崇拝者なのだとステファノは最高法院の罪を告発しているのです。
祈り
天の父なる神様、ステファノは、最高法院の指導者たちが神殿を絶対視してそれにより頼んでいる姿は、目に見える偶像を神として祀ってしまう偶像礼拝ではないのかと彼らの罪を指摘しています。パウロもローマの信徒への手紙1章において、「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」、「神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。」とその罪を指摘しています。私たちがこれらの罪に陥ることがありませんように。
イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。