27:15 ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。
27:16 そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。
27:17 ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」
27:18 人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。
祭りの度ごとに、総督ピラトは民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていました。いわゆる「恩赦」です。そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がおりました。このバラバについて、マルコ福音書は「暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たち」の一人であったと記しています(マルコ15:7)。
この暴動がローマ帝国の支配に反対するものであったならば、バラバ・イエスこそが、ローマ皇帝に反逆する者です。ともかく、バラバ・イエスという囚人は人々がよく知っている極悪で有名な人物でした。ピラトは、人々が集まって来たときにこう言いました。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それとも、メシアといわれるイエスか」。
このようにピラトが問うたのは、彼には「人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたから」です。この「人々」とは、祭司長たちと長老たち、最高法院の議員たちを指しています。
ピラトは、イエス様がローマ皇帝に反逆する者ではなく、最高法院の議員たちのねたみのために、連れて来られたことが分かっていた、と言うのです。そうであれば、イエス様を殺そうとしているのは、最高法院の議員たちだけであって、民衆はそのようなことを望んでいないはずであるとピラトは考えたのです。それで、ピラトは、民衆に、「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか」と問いかけたのです。民衆たちは当然、「メシアといわれるイエスを」と答えるだろうと思って、ピラトはそのように問いかけたのです。
祈り
天の父なる神様、本来、正義を守り裁くことの出来るお方は神様であるはずなのに、ここでは、人間が神を裁くという事が起こっています。しかしこれは父なる神の御心であり、父なる神が、イエス・キリストという罪のない人間を裁くことによって、罪びとを救うというあなたの救いの御業がここでもなされていました。あなたの憐みを感謝いたします。
イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。