16:3 管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。

16:4 そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』

16:5 そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。

16:6 『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』

16:7 また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』

 

このたとえ話において、「会計の報告を出しなさい」という主人の言葉は、世の終わりの時の総決算、あるいは私たちの人生の総決算の時を思い起こすことも出来ます。

 

ここでまず気づくことは、この管理人が主人から仕事を取り上げられた後のことを真剣に考えたということです。自分はやがて神の前に立つ日が来る。この仕事がとり上げられる時が来る。その時のことを考えて、この管理人は、主人に借りのある者たちを呼んで、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と聞き、その証文を書き換えるように促すのです。

 

証文には、借りた元金と利息が記されています。これをその人が有利になるように書き換えるように勧めるのです。

 

主人から任されている管理人としての働きを、この人が忠実に行ったとは思われません。このたとえ話の表題は、「不正な管理人」と言われていますことからも分かるように、管理人としての働きはむしろ悪質なもので、まねるようなものではありません。

 

祈り

 

天の父なる神様、聖書が一貫して私たちに教えていることは、主なる神こそが私たちの主であり、この方に忠実に聞き従うということです。自分をこれまで養ってくれた主人に対して、やがて清算をする時が来るということがこのみ言葉には教えられています。いつかやがて来る清算の時に備えて、主の前に誠実に歩み続けることが出来ますように。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。