自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。使徒20:24

けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。(新改訳)

 

パウロは、「自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たす」という、神によって与えられた使命を果たすことが出来れば、自分のいのちも惜しいとは思わないと述べています。

 

彼には、すでにイエス・キリストを信じる信仰によって救われているという確信があり、聖霊に導かれてこれまでの歩みを進めてくることができたという実感があったに違いありません。ヘブライ11章の始めには「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ11:1)とありますが、彼はこの世に生きていながら、やがて自分が死の後に迎え入れられる天の故郷を仰ぎ見ていたのです。

 

クリスチャンとは、イエス・キリストによって救われた恵みを覚え、神が与えられた希望を旨に、召されたところで神の使命に生きていこうとする者です。

あなたは、何のためにこの人生を生きていこうとしているでしょうか。

 

パウロだけではありませんが、この世に生きている(生かされている)人間は例外なく自分のために生きているでしょう。パウロもファリサイ人であったときまで、結局は自分のために生きていたのです。しかし、イエス・キリストとの出会いによって、心を砕かれ、真実の意味で彼は神のために生きる者へと変えられていったのです。

 

キリストのために、神のために生きる、神のみこころを求めて生きる。このような生き方ができるのは、神が聖霊によって私たちの内に働いてくださり、そのように導いて下さったからに他なりません。

 

祈り

 

天の父なる神様、パウロは、あなたによって与えられた使命を果たしながらその生涯を走りぬきました。私たちにもあなたによって与えられたそれぞれの使命がありますが、それを果たしながら、主にあってこの生涯を走りぬくことが出来ますようにお導きください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。