10:33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、

10:34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。

10:35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』

 

怪我をして倒れている人を見ても、そのまま通り過ぎていった祭司、レビ人と違って、サマリヤ人は、けがをして倒れている人を哀れに思い、介抱し、ロバに乗せて宿屋まで運び、お金を払って。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』とまで言ったのです。

 

当時、ユダヤ人とサマリヤ人はお互いに仲が悪く、口も利かないような関係にありましたが、イエス様はこのたとえ話において、けがをして倒れているユダヤ人を、サマリヤ人が介抱して助けたということを伝えて、律法の専門家たちの考えと生活が、実はみ言葉の教えからっけ離れたものになっていることを指摘しておられるのです。

 

ここに登場するサマリヤ人は、イエス・キリストそのものを指し示しており、けがをして倒れている人は、罪と死に束縛されている私たちを表しているということも出来るでしょう。

 

祈り

 

天の父なる神様、よきサマリヤ人のたとえの登場人物は、けがをして倒れている人、通り過ぎていく祭司やレビ人、隣人となって助けたサマリヤ人ですが、私たちはそのいずれにもなりうる者です。確かなことは、イエス様は、ここに出てくるサマリヤ人のように、神を拒絶し、罪のために滅びる私たちを助けてくださったということです。このことを覚えつつ、あなたの愛にお応えしていくものとならせてください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。