「その途中、真昼のことです。王よ、私は天からの光を見たのです。それは太陽より明るく輝いて、私とまた同行していた者との周りを照らしました。私たちが皆地に倒れたとき、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う』と、私にヘブライ語で語りかける声を聞きました。私が、『主よ、あなたはどなたですか』と申しますと、主は言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」使徒26章13~15節

 

パウロの生涯は、このときから決定的な転換期を迎えました。クリスチャンを迫害することが神の御心であると彼は固く信じて、クリスチャンを迫害するためにダマスコに向かう途中でした。

その途中で、彼は、天からの光とともに主イエスに出会い、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。」という声を聞くのです。

 

これを期に、パウロは、これまでの行動が神の御心に背くものであったことを自覚し、悔い改めて、これからは主イエスこそメシアであることを多くの人々に宣べ伝える者となるのです。

 

私たちは、パウロのように公然とクリスチャンを迫害するような者ではないと思います。しかし、自分の思いによって神の御心とは違う考え方や行動をとることもしばしばあるのではないでしょうか。あるいは、 神のためにと言いながら、私は自分勝手な道を進んでしまうようなことがあるかもしれません。

 

イスラエルの民は、モーセの律法を与えられた時、「私たちはみなあなたのおきてに従います」と告白したのですが、実際には自分の権利を主張して、神に背き、彼らの荒野の旅は放浪を余儀なくされ、つぶやきの旅となりました。強情と自我はイエス・キリストを突き刺し、主の御霊を傷つけることになります。

 

神を真実の意味で我が神と告白するようになるには、自分自身の強情な心が打ち砕かれる必要があります。人々に神のことばを伝える時、そのみことばは私のうちに生きているものでしょうか。それとも、□で言うだけで、私の生活はうそ、偽りで満ちているでしょうか。

 

主イエスは、「わたしは心優しく、へりくだっているから……わたしから学びなさい」と言われました。キリストがへりくだって私たちに仕え、私たちを愛してくださったように私たちも主の前にへりくだるものとなりますように。

 

祈り

 

天の父なる神様、主イエスの弟子たちも、パウロ自身も、主イエスの弟子としての働きを行なうことが出来るようになるためには、あなたの前に心を打ち砕かれ、自分自身に死に、キリストに生きるようになる体験を与えられていきました。私たちもそのような体験を通して、あなたの御あとに従う者とならせてください。

主イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。