5:34 ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、
5:35 それから、議員たちにこう言った。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。
5:36 以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。
5:37 その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。
5:38 そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、
5:39 神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」一同はこの意見に従い、
5:40 使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。
使徒たちの言葉を聞いて、議員たちは使徒たちを殺そうと思いましたが、ガマリエルは、過去に起こった二つの事例をあげて、彼らの扱いは慎重にすべきだと訴えました。一つ目はテウダの事例です。ここで「自分を何か偉い者のように言って」とありますが、これは自分が預言者であると言っていたのではないかと考えられています。
テウダは自分を預言者であると主張し、四百人ほどの男が付き従いましたけども、頭であるテウダが殺されると、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなったというのです。
二つ目はガリラヤのユダの事例です。住民登録の際、皇帝に税金を納めることは、神の王権に背くことであるとユダは民衆を率いて反乱を起こしました。しかし、やはり、頭であるユダが死ぬと、従った者も皆、ちりぢりにさせられたのです。
この二つの事例から分かることは、どのような集団もその頭が死んでしまえば、放っておういても皆ちりぢりになるということです。使徒たちが主と崇めるイエスが、十字架につけられ死んだままならば、最高法院が手をくださなくとも、時がたてばちりぢりになる。しかし、もし、使徒たちが証しする通り、神がイエスをよみがえらせ、御自分の右に上げたのであれば、最高法院は使徒たちを滅ぼすことはできないし、神に逆らう者となるかも知れないと言うのです。
ガマリエルは、律法の教師でファリサイ派に属する者ですから、復活信仰は持っていました。大祭司が属するサドカイ派は天使も復活も認めないので、使徒たちの証言を聞いて、そんなことはあり得ないと切り捨ててしまいます。しかし、復活信仰を持つ、ファリサイ派の議員たちは、大祭司たちほど、使徒たちの証言をあり得ないとは思わなかったのです。
むしろ、時間をかけて、彼らがどうなるかを見極めて、神がイエスを本当に復活させられたのかどうかを見極めようとしたのです。ここでのガマリエルの発言は、激しく怒る議員たちの頭を冷やさせる、もっともな発言ではないかと思います。
ガマリエルは、最後に「もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかも知れないのだ」と警告しますが、これは、最高法院が神の御心に従って判決を下さなければならないという基本を思い起こさせる言葉です。間違った裁きをそれば、その責任を問われる。その恐れを忘れてもらっては困るとガマリエルは告げているのです。
祈り
天の父なる神様、使徒たちは最高法院によって尋問を受けることになりましたが、ガマリエルという議員によって解放され、再びイエス・キリストの福音を宣べ伝えることが出来るようになりました。このようにして異邦人にも福音が宣べ伝えられ、私たちにも福音の恵みに与ることが出来ますことを心より感謝いたします。
イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。