5:14 そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。
5:15 人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。
5:16 また、エルサレム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らずいやしてもらった。

多くの人々がイエス・キリストを信じるようになりました。さらに使徒たちの手によって為された多くのしるしと不思議な業が具体的に記されています。それは、一言でいえば「いやし」です。マルコによる福音書の6章53節から56節には、「こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。」とあります。

ここでは、人々が病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせて欲しいと願ったこと。そして触れた者は皆いやされたことが記されています。これは「ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。」という言葉と対応しています。

イエス様の服のすそに、病を癒す力があったように、ペトロの影にも、病を力があると人々は考えたのです。それほどまでに、ペトロのうちにイエス様の力が働いていたのです。まさに、ペトロをはじめとする12人は、イエス様から権威を委ねられ遣わされた使徒たちでした。

また、近くの町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来ましたが、一人残らず癒してもらいました。イエス様の時と同様、病人や汚れた霊に悩まされている人、またその家族や友人たちが、使徒たちのもとに集まってきたのです。

ほかの者たちが、あえて仲間に加わろうとしない中にあって、彼らは、病という弱さを通して、イエス様のもとに、使徒たちのもとに、身を委ねることができたのです。イエス様は、かつて、生まれつきの盲人について、「神の業がこの人に現れるためである」と仰せになったことがありましたが、まさに、病という弱さのゆえに、人々は、主イエスの使徒たちのもとに行くことができたのです。そして、癒されるという体験を通して、イエス・キリストの恵みを味わい知ることができたのです。

祈り

天の父なる神様、使徒たちもイエス様と同じように人々の病を癒すことが出来ました。そのことによって使徒たちと共に神が働いていることを人々に知らしめたのでした。あらゆる病を癒し、罪を赦し、神の義を与えてくださるあなたの恵みを称え感謝いたします。
イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。