6:2 そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。
6:3 それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。
6:4 わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」

使徒たちが食事の世話を決して軽んじてはいなかったことは、この奉仕にあたる人の条件からも分かります。その奉仕を任せることができるのは、聖霊と知恵に満ちた評判のよい人でなければならないと使徒たちは考えました。ここに、のちのキリスト教会は、執事職の起源を読み取ってきたわけです。

執事は、ギリシャ語で「ディアコノス」と言いますが、それと同じ根を持つ言葉として「ディアコニア」という言葉であります。これは「奉仕、接待、働き」と訳されます。1節に「日々の分配」とありますが、ここで「分配」と訳されている言葉が、ディアコニアです。また、4節に「御言葉の奉仕」とありますが、ここで「奉仕」と訳されている言葉もやはり同じディアコニアという言葉です。このことから分かることは、教会には大きく二つのディアコニアがあるということです。それは食卓のディアコニアと、御言葉のディアコニアです。

食事の世話も、また御言葉の奉仕も同じディアコニアであり、どちらも必要な神と人への奉仕なのです。イエス様は「人はパンだけで生きる者だけではなく、神の口からでる一つ一つの言葉で生きる」と言われました。ここでイエス様はパンなどどうでもよいと言っているのではありません。このイエス様の言葉は人がパンによって生きることを前提としています。その前提があって、パンだけではなく、神の言葉が必要なのだと言われたのです。

食卓のディアコニアーも御言葉のディアコニアーもどちらも大切であることが分かります。ですから、使徒たちが、ここで七人の奉仕者、執事を立てるように提案したのは、これは主の御心をより円滑に行うためでした。必要とされる教会の奉仕を分担し、教会の働きがよりスムーズに出来るようにしていきました。食事の世話も、御言葉の奉仕も、どちらも大切なディアコニアですが、使徒たちは「わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」と語ったのです。

祈り

天の父なる神様、あなたが立ててくださった教会、そして集められた人たちは、主にある働きを十分に果たしていくことが出来るために、執事と言われる教会の働き人を選ぶことを決断しました。このようにしてキリストの教会が神と人とに仕えるために、あなたに導かれてその働きを行うことが出来ますことを感謝いたします。
イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。