では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。ローマ4:1~3
それでは、肉による私たちの先祖アブラハムのばあいは、どうでしょうか。 もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。
4章1節からパウロはアブラハムの信仰について記しています。アブラハムは、神に選ばれたユダヤ人の信仰の先駆者であり、信仰の父と呼ばれ、その後の人々に対する先例とされる立場にあります。
3節には、創世記15章6節において、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」と言われているみ言葉からの引用がなされています。アブラハムは、行いによって義と認められたのではなく、信仰によって義と認められたのだと言われているのです。
創世記を読むと、信仰の父といわれたアブラハムは、神への信仰を持って生涯を歩んだことが分かりますが、彼も神の御心に従い得なかったこと、神への信頼をもてないで自分の力で神の約束を実現しようとしたことがあったことも分かります。聖書を読むと、イエス・キリスト以外、人間の中で罪のない人はひとりもいないことが分かります。行いによって義と認められる人は、主イエス以外ひとりもいないのです。
それは、すでに「「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」(ローマ3:10~12)と言われていた通りです。信仰によって義とされるということは、イエス・キリストの十字架の贖いを私のためのものとして信じ、イエス・キリストを私の救い主として信じて受け入れることによって救われるということです。
祈り
天の父なる神様、行いによっては誰一人として神の前に義と認められることはないという状況の中で、なお私たちを救うために多くの預言者たちを遣わし、救いの約束を与え、神とともに生きることを教えてくださり、主イエスによってこの約束を実現してくださったことを感謝いたします。
あなたが私たちのために遣わしてくださった唯一の救い主を私の主、私の救い主として信じ、この方とともに恵みのうちに歩み続けることが出来ますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。