では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。ローマ4:9~12
それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは、「アブラハムには、その信仰が義とみなされた。」と言っていますが、どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、 また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。(新改訳)
旧約聖書の時代には、割礼を受けることが神の民の見える印でしたが、神はアブラハムに次のような約束をお与えになり、その子孫に割礼を施すようにお命じになりました。「主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」(創世記12:1~3)、」、「地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」(創世記22:18)
神はアブラハムに信仰を与え、彼を祝福し、彼の子孫によって地上の人はみな祝福に入るようになるといわれたのです。この言葉のように、彼の子孫から生まれてきたイエス・キリストによって世界中の人々がその罪を贖われ、救いに入れられるようになりました。
ユダヤ人にとって割礼を受けることは非常に重要なこととされてきましたが、パウロは、異邦人がイエス・キリストを信じて救われるためには割礼を受ける必要はないことをここで述べています。初代の教会においては、まずユダヤ人たちに福音が伝えられていきましたが、ユダヤ人たちの中には、信仰を持つだけではなく割礼を受けなければ救われないと主張する人たちがいたのです。
当時のファリサイ人たちの教えによれば、割礼を受けなければ罪の赦しを受けることはできないと教えられていました。割礼は神との契約の民であることのしるしではありましたが、神がイスラエルの人々に求めておられたことは、信仰であり心の割礼であったことはすでに述べました。
イエス・キリストによってもたらされた新しい契約においては、契約の民のしるしは洗礼にとってかわったといえます。使徒言行録15章には、エルサレム会議の内容が記されていますが、使徒たちはこの会議において、人がイエス・キリストの信仰によって救われるためには割礼を受ける必要がないことを決議しています。人は、行いによるのではなく信仰によってのみ救われるのです。
祈り
天の父なる神様、あなたはアブラハムに約束なさったことを実現し、アブラハムの子孫から救い主を生まれさせ、異邦人である私たちにも主イエスによる救いに与る者としてくださることを心より感謝いたします。
罪にまみれたこの世界にあって、あなたはアブラハムが祝福の基となるという約束を与えるとともに、それを私たちの内にも広げ実現してくださる恵みを感謝いたします。
生涯この祝福のうちに歩むものとならせてください。
イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。