27:41 同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。
27:42 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。
27:43 神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」
27:44 一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。
祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に侮辱して、「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」と言いました(詩編22:8,9参照)。
ここには、「祭司長たち」、「律法学者たち」、「長老たち」と最高法院の構成メンバーが勢揃いしています。イエス様をローマの総督ピラトに引き渡し、死刑に処するようにと群衆を説得した最高法院の議員たちが、イエス様が殺されるところを見届けようと来ていたのです。
彼らは、「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ」と言っておりますが、この言葉は、イエス様が多くの人々の病や患いを癒されたことを思い起こさせます。最高法院の議員たちも、イエス様が他人を救ったことは認めています。
しかし、彼らの考えでは、イエス様が「他人は救ったのに、自分は救えない」ということです。自分を救えない者、ローマの兵士たちによって十字架につけられて死のうとしている者がイスラエルの王であるはずがないと彼らは考えたのです。十字架につけられているイエス様のお姿そのものが、この男がイスラエルの王ではないことの証拠だと彼らは考えたのです。
ですから、続けてこう言いました。「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」。最高法院の議員たちは、イエス様が今すぐ十字架から降りるならば、イスラエルの王として信じてやろうというのです。もちろん、これは嘲りの言葉であって、最高法院の議員たちは、イエス様が十字架から降りることができるとは考えていません。
しかし、十字架から降りることのできるイエス様にとって、これは大きな誘惑でした。さらに、最高法院の議員たちはこう言いました。「神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」と言いました。
神の子が、十字架の死を、神に呪われた者の死を死のうとしている。それはおかしなことではないか。神のお気に入りであるならば、今すぐ救ってもらえるはずではないか。このように悪魔は最高法院の議員たちを通してイエス様を誘惑したのです。
しかし、イエス様は、十字架につけられて死ぬことが神の御心であることを知っているゆえに、また、その神の御心に完全に従う神の子であるゆえに、自分を救わない、十字架から降りようとはしないのです(フィリピ2:8参照)。そして、ここに、私たちはイエス様の父なる神への完全な愛と、御自分の民である私たちへの完全な愛を見ることができるのです。
かつてイエス様は、ある律法の専門家から「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と問われたとき、こうお答えになりました。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(22:37~40)。
この二つの掟を、イエス様は、十字架において、十字架から降りないということによって完全に満たしてくださったのです。十字架から降りることのできるイエス様が十字架から降りようとしないのはなぜか?それは、イエス様が神様と人とを完全な愛を持って愛されるお方だからです。全身全霊で神を愛し、自分を愛するように隣人を愛するという最も重要な二つの掟を、イエス様は十字架からおりないことによって、完全に満たしてくださったのです。
祈り
天の父なる神様、神の律法を完全に守り、十字架にご自分の身を渡すほどにして私たちを愛してくださった事を心より感謝いたします。
イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。