4:7 ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。

 

「このような宝」とは、パウロが宣べ伝えている福音のことです。また、「土の器」とはこの福音を宣べ伝えているパウロ自身のことです。彼が自分自身のことを「土の器」と表現しているのは、彼が自分自身のことを価値のない、弱弱しく、落とせば割れてしまう土の器のようなものだと言っているのです。

 

パウロは、この世的に見れば、フィリピ信徒への手紙3章において「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」(フィリピ3:5~6)と述べているように、超エリートであり、ガマリエルという立派な教師の下で薫陶を受けたファリサイ人でした。

 

そして続いて、「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」(フィリピ3:7~8」と述べています。

 

日本で言えば東京大学を首席で卒業し、将来は大学教授か官僚になっていくような人材でしたが、イエス・キリストによって、その素晴らしさにふれたときに、そのようなものはすべて色あせて、自分自身が神の僕であることを感謝と喜びをもって受け入れるように変えられたのです。

 

祈り

 

天の父なる神様、あなたの前に、私たちは土の器に過ぎないものですが、この器の中にあなたの宝が盛られていく時、それは大きな価値を持つものとなり、人々を生かすものとなります。あなたが与えて下さる宝は、永遠の価値、永遠の希望をもたらすものです。あなたの恵みのうちを歩み続けることが出来ますように。

イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。