22:11 王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。
22:12 王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、
22:13 王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』
22:14 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」
この譬えの背景には最後の審判があります。「この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」という言葉は、地獄の裁きを意味しています。
救われるものがあれば裁かれるものもあることを聖書は教えています。7章21節以下には、「わたしに向かって、『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』」と言われています。
こうしたイエス様の御言葉によって、外の暗闇に放り出された者が着ていなかった婚礼の礼服が何を意味しているのかを教えられます。婚礼の礼服とは天の父の御心を行う生活、神の国にふさわしい実を結ぶ生活です。私たちには、イエス様の父なる神の御心を行うことが求められているのです。
私たちは自分の業によって、その実によって救われるのではありません。私たちはイエス・キリストへの信仰によって救われるのです。私たちはイエス・キリストへの信仰によって救われたのです。では、その私たちは、イエス・キリストの父なる神の御心を行わなくてよいのでしょうか?本物の信仰とは何かという事が問われています。
イエス様は、私たちに代わって神の掟を落ち度なく守ってくださり、私たちに代わって罪の刑罰としての十字架の死を死んでくださいました。それは、私たちが救われた感謝から、自由な者として神の掟に従って生きる者となるためです。私たちは罪赦されながらも、罪の残る者ですから、神様の掟を完全に守ることはできません。けれども、私たちにはイエス様がおられますから、何度でも罪を告白し、赦しをいただいて、神の掟に従って歩ませてくださいと願うことができるのです。
しかし、このたとえ話に出て来る婚礼の礼服を着ていない人は、そのように願う者ではありませんでした。婚礼の礼服を着ていない人は、王から、「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って着たのか」と言われても黙っていました。「黙っていた」ことは彼が意図的に婚礼の礼服を着なかったことを表しています。彼は礼服を着てくる時間がなかったとか、忘れてしまったというのではなくて、意図的に着て来なかったのです。つまり、彼は王が王子のために催した婚礼に集いながら、王と王子を軽んじていたのです。そのことが婚礼の服を着ようとしないことによって、天の父とイエス・キリストの御心を行わないことによって示されたのです。ですから、王は彼を外の暗闇へと放り出されたのです。
祈り
天の父なる神様、あなたの御心を求めて生きる者とならせてください。
イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。