23:1 それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。
23:2 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。
23:3 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。
イエス様は、群衆と弟子たちに、律法学者たちやファリサイ派の人々についてお語りになりました。イエス様は先ず彼らが与えられている権威を認めておられます。「律法学者たちとファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている」と言われています。
「モーセの座に着いている」とは「律法を教える立場にある」ということです。「だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい」と言われるのです。律法学者たちとファリサイ派の人々が教えているのは、神の掟である律法ですから、神の民であるイスラエルには、すべて行い、また守る義務があるのです。
しかし、イエス様は、「彼らの行いは、見倣ってはならない」と言われました。なぜなら、彼らは「言うだけで、実行しないから」です。人には、「ああしなさい、こうしなさい」と教えているのですが、それを自分で行ってはいないと言われるのです。
律法学者とファリサイ派の人々は律法を守ることに熱心な真面目な人たちです。だからこそ、彼らはイスラエルの人々に影響力を持つ、指導的立場にありました。では、なぜ、イエス様は、「言うだけで、実行しないからである」と言われたのでしょうか?それは、イエス様が律法を神様の御前に完全に行っているかどうかを問題とされているからです。
律法学者とファリサイ派の人々は、人間の基準からすれば、神の掟を熱心に守る真面目な人たちでした。しかし、神様の基準からすれば、彼らは神の掟を行なわない者たちなのです。さらにいえば律法を守ることが出来ない、守る力がない人たちなのです。
祈り
天の父なる神様、律法学者とファリサイ派の人々は、神様から与えられた律法を守ろうとしていましたが、それを守ることが出来ませんでした。彼らだけではなく、それまでのユダヤ人の誰一人としてこれを守ることは出来ませんでした。かえってあなたの前に罪を犯してしまうものでした。それは私たちも同じです。このような私たちのために完全に律法を守り、罪の贖いを実現してくださったあなたの御子の恵みと愛を心より感謝いたします。
イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。