「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。マタイ6:25~26

だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。(新改訳)

 

ここには、何を着ようか、何を食べようかと心配することが言われていますが、私たちは実に様々なことで心配することもあるのではないでしょうか。自然災害に遭遇したり、事故にあったり、病気になったり、人間関係がうまくいかないために、仕事のこと、生活のこと、社会の問題のことなど、心配の種は尽きないと言えるほどです。

 

そんな私たちに、主イエスは摂理の神への信仰を教えてくださいました。神が私たちの必要を備えてくださるのだから、そのための心配を神にゆだねるようにと教えておられます。主イエスは「空の鳥を見なさい。」「野の花を見なさい。」と言って、神が空の鳥、野の花でさえ、心に掛けて養っておられるのなら、私たちに必要なものを与え、養ってくださらないわけがないと、教えておられます。

人間は、食べるもの、着るもの、そして眠る場所を手に入れても、それで満足せず、もっと豊かな生活を追い求めるものです。そしてある一定の生活基準に達すると、生活を慎ましくすることができなくなり、収入が落ちてもその生活をキープしようとして、無理をして働いたり、借金をしたり、貯金を食いつぶしたりするようになるのです。

そして、その生活がいつかは破綻するのではないかという不安に追い詰められるようになります。立派な家、綺麗な家具に囲まれ、一見豊かな生活をしているように見えて、実際は、明日に対して不安だらけの生活をしている人が思う以上に多いのです。「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。」(31節)と言われました。

どうしたら、思い煩いや心配、恐れから解放されるのでしょうか。神が摂理の神であり、私たちの必要を知ってそれを備えてくださるお方であることを信じること、そして、地上の必要を神に任せて、天のもの、神のことを追い求めることによってです。

 

祈り

天の父なる神様、空の鳥、野の花を養っておられるように、私たちもあなたによって養われ、あなたの恵みのうちに導かれていることを感謝いたします、しかし、様々なことに思いわずらってしまう事もあります。あなたの御働きをさやかに見る信仰によって、心穏やかに歩むことが出来ますように。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。